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第7話② 裏切り者

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 その夜は、重い雲の垂れ込めた鉛色の夜だった。

 誰もが眠っている。誰もが夢の中にいる。鳥でさえも木々に集まって、身を寄せ合って身を隠している。月だってそうだ。けれどその闇の中を目が覚めるような速度で駆ける、夜鷹の仮面があった。

 学園都市の高台にあるとあるラボには、長身の男が立っていた。彼は窓際のくすんだガラス張りの壁の近くに立ち、その男の到来を待っていた。静かな足音が響くと、ようやく男は振り返る。細身に虹色の虹彩を持つ最終兵器――勘解由小路玄明である。

「すみません、玄明様。遅ればせながら参上致しました」

 低く響く麗しき声――零春の声である。零春は膝をついて頭を垂れると、玄明にかしずいた。

「来たかい、零春くん。もう、やだなぁ。そんなかしこまらなくてもいい。ぼくらは力を分け合った兄弟のようなものだ。仲間じゃないか。顔を上げてくれ」

 穏やかな口調で手を差し伸べられると、ようやく零春は恭しく顔を上げた。

「は、しかし玄明様。この度は如何様でございましょうか」
「つい先日、君に後山田ゴッ太郎を襲撃させた――しかし、君は取り逃してしまった」

「その件について、重ね重ね申し訳ありません。私のせいで妹君を危険に晒しましたことについても――」
「いい。気にしないでくれ。これはぼくの責任だ。だがあの飼い犬、なかなか悪運が強いと見える。下手な手を打ち続ければ、いずれこちらに乗り込んでこないとも限らない」

 零春の謝罪をぶつ切りにして、玄明は自らの責任と言い切った。

「では、いかが致しましょう。もう一度襲撃致しますか。それとも、飼い主の方を攻撃するのは……」
「――ぼくの目的は、知っているね?」
「……は。失礼致しました」

 みなまで言わずとも、その言葉の圧力に零春は屈した。玄明の言葉は、全てに意味がある。全てが目的の為に必要なだけ用意されている。そのことを知っていて口を挟んだことを、零春は後悔した。彼は穏やかでありながら冷徹だ。必要のないパーツを切り離すだけの胆力を十分に持ち合わせている。

「それで、反省したんだ。本来なら必要なパーツは君一人だと思っていたが――見積もりが甘かったということだからね。だから、パーツを増やすことにした。思いがけない協力者も手に入ったからね。それで今日は、君の新しい兄弟たちを紹介したかったんだ」

 玄明は零春の後ろの暗がりを手のひらで指した。瞬間、背後に殺気が湧き上がり零春は思わず跳躍して距離を取った。

「初めてお目にかかります。道哇姉タオ・ワジェと申します。以後お見知りおきを。あなたに埋め込まれたマータ、馴染んでいるようで何よりです」

 物陰から、品の良さそうな人形のように可憐な少女が現れた。白銀に光る前髪のフチをぐるりと周を描くように切り払い、襟足は層になるように長く伸ばしている。瞳は赫々たる輝きを湛えており、宝石じみていた。身長は小学生ほどにも見える小ささで、名前に反して華美な和服を召している。

「お前が腰抜けか。逃げて帰ってきたとかいう――俺はリーン・スピードボールだ。使えねえなら消えてもらうぜ。分け前が増えるからな」

 次は色黒な岩のような男だ。分厚い唇に、凶悪そうな剥いた目をしている。彼もまたデカい人間だが、ゴッ太郎の筋肉とはまた違う。『大きい』筋肉というよりは、『特化』した筋肉。使いこなされた金槌を思わせるような努力家な肉体をしている。体中には入れ墨が入っており、その雰囲気はアウトローのボクサーを思わせる。

「コケコッッッコココココ。ココ」

 最後は、鶏の声をした人間だった。深緑のアーミーパンツに蛍光オレンジのハイカットスニーカーを合わせ、上体にはタンクトップにマウンテンパーカーを羽織っている。そして極め付きには、頭には鶏の被り物を被っていた。不審だが、彼の纏う雰囲気が一番和やかに見えるのは被り物のおかげだろうか。

「彼はココ。鶏のココだ。彼らが君の兄弟で、今まで君が行っていた業務をに行ってくれる。どうだい、素敵な人選だと思わないか? これで、君の失敗はにできるから、安心してくれ」

 玄明の素早い対応に驚きつつ、零春は後退りした。全員の視線がこちらを向いていたのだ。そして新入りの三人は、少しずつ零春に向かって近付いてくる。

「なるほど、玄明様。流石です。しかし、彼らはなぜわたしの元へ?」
「言ったじゃないか。君の代わりだって」

 玄明の表情は、一段と穏やかになった。初めてこの人と会った時と同じ顔だ。しかしその意図は、真逆だった。

「な、なぜです。玄明様――! わたしはあなたの見る夢の為にこの体を差し出したというのに……!」

「君に試練を与えよう。この三人を打ち倒してくれ。それができれば、君を唯一のコマとして置くのも悪くない。それに――始末しろと命令した人間を庇うような裏切り者は、ぼくのコマとして相応しくないからね。さあ、やってみるんだ。上手にやれば生きて帰れるかもしれないよ」

 あの時――ゴッ太郎を救ったのがバレていたのか。零春の仮面の下では、絶望の表情が張り付いて取れなかった。死を覚悟する――玄明が追加した戦力だ。今度は念入りに調整されたものに違いない。

 玄明は確信しているのだ。既にここから逃げ出せる可能性はゼロだということを。

「ヒョウア!」

 零春は壁面に張り付いた。このまま壁を伝って、闇の中を逃げれば良い。たとえどれだけ戦うのが強い人間たちだとしても、追いかけ合いが得意なわけではあるまい――!

 壁面を手が掴んだ瞬間のことだった。零春は急激に上下の感覚が失われて地面に激突した。

「……っくく。あなたの能力を、わたくしたちが聞かずに居たと思いましたかぁ? 逃げるのなんてとっくに想定済みです♡ ざぁこ♡」

 零春の頭上では、真っ赤な瞳が燃えるような愉悦を孕んでこちらを見ていた。零春はすぐに舌が縺れるような感覚と共に、呼吸が急激に浅くなっていくような感覚に苦しんでいた。

「コケッ!? ココココ……ココ?」

 暗がりでは、鶏頭が恐怖しているのか喚き立てる。その声を不快そうにツバを吐いたダルマのような大男は、零春に向かって歩みを進める。

「おいおい、逃げる前に潰したのかよ。面白くねえな、お前。もうツラ見んのも不快になってきたぜ。お前を見てるとヒステリックなババアを思い出すんだ。いっちょ死んどけや」

 ものぐさな表情で、腕を振るった大男は、そのまま零春に向かって拳を振り落とす。もはやパンチとも言えないような破壊行為は、拳ではない。手首を鎌のように固めた叩き潰しである。しかも狙いは顔の中でも額だった。

 もっとも分厚い骨がある部分に容赦なく落とす一撃は、それがいとも簡単に破壊可能なものであるということの証明に他ならない。零春は酸欠の苦しみに悶えながら、その拳を目を剥いて見ていた。

 声にならない声で零春は叫ぶ。

 ――助けて、死にたくない。まだ、死にたくない。いやだ。

 目元に涙が滲む。呼吸の苦しみで、走馬灯さえも許されないまま、拳は落ちてくる。

 それが目の前に到達した、その刹那――。

 零春は、

 ばちり、その場に居た全員が聞いていた。それはまるで空刃が巻き起こったかのような圧縮音だった。

「――!」
「――ぁア!?」
「コケ?」

 誰もが目で追えなかったその閃光は、遅れて遠ざかる足音で認知されることになった。小人のような小さな体が、まるで犬が自分より大きな人形を引きずりながら走るように遠ざかっていくのだ。

 その背中には誰も見覚えがない。呆気に取られた三人は、一呼吸の後追いかけようとしたが、それを制したのは玄明だった。

「ははは、やられたね。あの速度だ、もう間に合わないよ。これはこれは一本取られたな。相手も手札が多いみたいだ」

 夜闇に遠ざかる背中を見つめながら、玄明は振り返った。

「持って帰ってくれるなら、まだ使しね」
 
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