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第四章 朝闇の深林
石造りの饗庭
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斉明天皇の新たな王宮の造営と並行し、葛城王と鎌子は飛鳥の東側にある多武峰に百済の工人を集めた。
紅葉が盛りの秋の多武峰の山肌は、色とりどりの糸で織りあげた衣を広げたような美しさだった。以前、二人でこの地に狩りに来た時は初夏のみずみずしい青葉が風に揺れていた。
「あの時、鎌子とともに狩った熊の毛皮はまだ吾の手元にある」
鎌子と馬を並べる葛城王が、当時を思い出していた鎌子の心を読んだかのようにそう言った。
「また熊が出たら今度も葛城王が狩ってください」
鎌子は微笑しながら葛城王の言葉に応えてから、
「葛城王、やはり百済の工人たちは石城を造れないようです」
鎌子が手の平で指し示した先には崩れた石の山があった。
蘇我連子は約束通りに百済の工人の中でも扱いやすい者達を選んで多武峰によこしてくれた。だが、彼等は倭国での暮らしが長すぎて、本来持っていたはずの技術を忘れつつあった。
田の水路を掘り、畑に流れる川の流れを妨げる岩を砕くといった農業にまつわる作業が中心の倭国での生活は、百済の工人に母国での戦乱の記憶を薄れさせるのに十分だった。百済では一般的だという石城を工人たちに造らせようとしたものの、石垣は積まれたままの形を保てず、石の多くが谷の下へと転がり落ちていった。
「鎌子、今現在城を造っている工人を倭国に献上するよう百済に命じるべきだろうか」
「それは断られるかと思います。現在、百済は戦乱の中に有ります。城を築く工人はすべて戦場に駆り出されているのではないでしょうか」
「それでも石造りの技術を多くの工人に習わせて、東国で蝦夷と戦う阿倍比羅夫や上毛野稚子らに送らなければ。新羅に頼むのはどうだろうか」
「新羅の技術も優れています。けれど武烈王(金春秋のこと)はこちらに取引を持ち掛けて来るでしょう」
葛城王は諦めた目で積まれた石の山を見た。
「しばらくは様子を見た方が良いか」
「はい。けれど次に百済や新羅から貢献の使者が来た時に、内々に要求してみましょう」
「頼んだ。比羅夫や稚子には武器を送り、しばらく耐えてもらうことにしよう」
「それから葛城王、蘇我連子殿が右大臣への就任を少し待ってほしいと言ってきました。連子殿は王宮が完成し、年が改まってからの着任を望んでいます」
「構わないが、それまでは鎌子が忙しくなる」
「最近、一族の中で私の仕事を手伝ってくれる者を雇いました」
鎌子は以前、佐伯子麻呂に云われたことが引っ掛かっていた。
子麻呂は、葛城王と鎌子の二人だけで物事をすすめてしまっていないか、と懸念していた。だが人を増やそうにも大学寮での官人の育成はもう少し時間がかかる。待っている余裕は無く、鎌子は一族の中で文字の読み書きができ神祇に通じているものを側で使うことにしたのである。
葛城王はどこか安心した様子で鎌子に尋ねた。
「そうか。その者の名はなんという」
「……中臣兎子と申します」
やや言い淀む様子の鎌子に気づかないまま葛城王は、
「一度、会ってみたい。鎌子が信頼する者ならば才があるのだろう」
「申し訳ありませんが、彼の者を葛城王のお目にかけることはできません」
にべなく断る鎌子に葛城王は苦笑いを浮かべた。
「理由を聞いておこう」
「私が身内を贔屓しているという評判は避けたいのです。葛城王がお決めになられた冠位位階の決まりごとを私が破るわけにはいきません。兎子がほんとうに優秀ならば、自らの才で世に出るでしょう」
「分かった。だがその兎子に鎌子の仕事を補佐するために必要な位は与えよう」
葛城王は鎌子の手の甲に軽く触れ、鎌子の反論を封じた。
「鎌子には多くの仕事を任せてしまっている。人が足りないなら、財が足りないなら、遠慮することなく吾に申し出てほしい」
鎌子は拱手して葛城王に感謝した。
あの初夏の山狩りのとき、葛城王まだどこか不安定さのある若者だった。だが今は王族の威厳を備えるようになっている。
――私は、あの頃から何か変わっているのだろうか
鎌子は先に山を下り始めた葛城王の馬上の背中を見ながら自問し、あまり変わっていないという単純な答えに、焦りとも安堵ともつかない感情を微かに憶えた。
斉明天皇は王宮の造営とともに大規模な工事を数多く行った。
三輪山から切り出した石材を運ぶために河川を拡張して運河の機能を持たせた。川から運びあげた巨大な石材を岡の上に運び、据え置いた巨岩を加工する。それはこれまで百済の工人だけが持っていた技術を倭国の民に学ばせるための事業でもあった。
新しい宮がまだ出来上がらないうちに高句麗、百済、新羅からそれぞれ貢献の使者がやってきて、斉明天皇はそこだけ出来上がっていた朝堂の周囲に紺色の幔幕を張り巡らせて彼らを饗応した。
大王である斉明天皇の左右には鏡が掛けられた真榊が立てられ、王座の後ろには唐渡来の旗と大幣があった。榊の木を用いた大幣には紺色と白色の幣が掛けられていて人の動きによる空気の微かな動きにも柔らかく揺れた。
これらの装飾は仏教や道教の影響を受けながら倭国の神祇を継承した装飾であり、中臣の長である中臣国足が整えたものだった。
孝徳天皇によって王宮から一時期遠ざけられていた中臣の一族は、斉明天皇によって再び呼び戻されていた。
三韓の使者が帰ってから日を置くことなく、新たな王宮の造営が終わった。
飛鳥後岡本宮と名付けられたこの王宮は、瓦葺でこそないが石の技術をふんだんに用いていた。これまでにない堅牢さを誇りながら、どこか難波宮の華麗さが漂う王宮は王権の中心が再び飛鳥に戻ったことを示していた。
紅葉が盛りの秋の多武峰の山肌は、色とりどりの糸で織りあげた衣を広げたような美しさだった。以前、二人でこの地に狩りに来た時は初夏のみずみずしい青葉が風に揺れていた。
「あの時、鎌子とともに狩った熊の毛皮はまだ吾の手元にある」
鎌子と馬を並べる葛城王が、当時を思い出していた鎌子の心を読んだかのようにそう言った。
「また熊が出たら今度も葛城王が狩ってください」
鎌子は微笑しながら葛城王の言葉に応えてから、
「葛城王、やはり百済の工人たちは石城を造れないようです」
鎌子が手の平で指し示した先には崩れた石の山があった。
蘇我連子は約束通りに百済の工人の中でも扱いやすい者達を選んで多武峰によこしてくれた。だが、彼等は倭国での暮らしが長すぎて、本来持っていたはずの技術を忘れつつあった。
田の水路を掘り、畑に流れる川の流れを妨げる岩を砕くといった農業にまつわる作業が中心の倭国での生活は、百済の工人に母国での戦乱の記憶を薄れさせるのに十分だった。百済では一般的だという石城を工人たちに造らせようとしたものの、石垣は積まれたままの形を保てず、石の多くが谷の下へと転がり落ちていった。
「鎌子、今現在城を造っている工人を倭国に献上するよう百済に命じるべきだろうか」
「それは断られるかと思います。現在、百済は戦乱の中に有ります。城を築く工人はすべて戦場に駆り出されているのではないでしょうか」
「それでも石造りの技術を多くの工人に習わせて、東国で蝦夷と戦う阿倍比羅夫や上毛野稚子らに送らなければ。新羅に頼むのはどうだろうか」
「新羅の技術も優れています。けれど武烈王(金春秋のこと)はこちらに取引を持ち掛けて来るでしょう」
葛城王は諦めた目で積まれた石の山を見た。
「しばらくは様子を見た方が良いか」
「はい。けれど次に百済や新羅から貢献の使者が来た時に、内々に要求してみましょう」
「頼んだ。比羅夫や稚子には武器を送り、しばらく耐えてもらうことにしよう」
「それから葛城王、蘇我連子殿が右大臣への就任を少し待ってほしいと言ってきました。連子殿は王宮が完成し、年が改まってからの着任を望んでいます」
「構わないが、それまでは鎌子が忙しくなる」
「最近、一族の中で私の仕事を手伝ってくれる者を雇いました」
鎌子は以前、佐伯子麻呂に云われたことが引っ掛かっていた。
子麻呂は、葛城王と鎌子の二人だけで物事をすすめてしまっていないか、と懸念していた。だが人を増やそうにも大学寮での官人の育成はもう少し時間がかかる。待っている余裕は無く、鎌子は一族の中で文字の読み書きができ神祇に通じているものを側で使うことにしたのである。
葛城王はどこか安心した様子で鎌子に尋ねた。
「そうか。その者の名はなんという」
「……中臣兎子と申します」
やや言い淀む様子の鎌子に気づかないまま葛城王は、
「一度、会ってみたい。鎌子が信頼する者ならば才があるのだろう」
「申し訳ありませんが、彼の者を葛城王のお目にかけることはできません」
にべなく断る鎌子に葛城王は苦笑いを浮かべた。
「理由を聞いておこう」
「私が身内を贔屓しているという評判は避けたいのです。葛城王がお決めになられた冠位位階の決まりごとを私が破るわけにはいきません。兎子がほんとうに優秀ならば、自らの才で世に出るでしょう」
「分かった。だがその兎子に鎌子の仕事を補佐するために必要な位は与えよう」
葛城王は鎌子の手の甲に軽く触れ、鎌子の反論を封じた。
「鎌子には多くの仕事を任せてしまっている。人が足りないなら、財が足りないなら、遠慮することなく吾に申し出てほしい」
鎌子は拱手して葛城王に感謝した。
あの初夏の山狩りのとき、葛城王まだどこか不安定さのある若者だった。だが今は王族の威厳を備えるようになっている。
――私は、あの頃から何か変わっているのだろうか
鎌子は先に山を下り始めた葛城王の馬上の背中を見ながら自問し、あまり変わっていないという単純な答えに、焦りとも安堵ともつかない感情を微かに憶えた。
斉明天皇は王宮の造営とともに大規模な工事を数多く行った。
三輪山から切り出した石材を運ぶために河川を拡張して運河の機能を持たせた。川から運びあげた巨大な石材を岡の上に運び、据え置いた巨岩を加工する。それはこれまで百済の工人だけが持っていた技術を倭国の民に学ばせるための事業でもあった。
新しい宮がまだ出来上がらないうちに高句麗、百済、新羅からそれぞれ貢献の使者がやってきて、斉明天皇はそこだけ出来上がっていた朝堂の周囲に紺色の幔幕を張り巡らせて彼らを饗応した。
大王である斉明天皇の左右には鏡が掛けられた真榊が立てられ、王座の後ろには唐渡来の旗と大幣があった。榊の木を用いた大幣には紺色と白色の幣が掛けられていて人の動きによる空気の微かな動きにも柔らかく揺れた。
これらの装飾は仏教や道教の影響を受けながら倭国の神祇を継承した装飾であり、中臣の長である中臣国足が整えたものだった。
孝徳天皇によって王宮から一時期遠ざけられていた中臣の一族は、斉明天皇によって再び呼び戻されていた。
三韓の使者が帰ってから日を置くことなく、新たな王宮の造営が終わった。
飛鳥後岡本宮と名付けられたこの王宮は、瓦葺でこそないが石の技術をふんだんに用いていた。これまでにない堅牢さを誇りながら、どこか難波宮の華麗さが漂う王宮は王権の中心が再び飛鳥に戻ったことを示していた。
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