白雉の微睡

葛西秋

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第四章 朝闇の深林

牟婁の出湯

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  斉明天皇の王宮である飛鳥後岡本宮では働く女官の数が大幅に増えた。

 斉明天皇が女帝だからその身の回りの世話をする女官が増えた、というだけではない。女帝自体は先の推古天皇や斉明天皇自身の重祚である皇極天皇もそうだった。だが当時、政治の実権は蘇我氏のような有力豪族に握られていた。推古天皇も皇極天皇も政を決める話し合いにはほとんど関与できなかったのである。

 ところが大化の改新によって有力豪族の合議による政治決定の仕組みは廃止された。大王が全権を執る政の仕組みが始まったため斉明天皇が自ら執行する政務が増加し、その政務と私生活を繋ぎ助けるための女官が必要とされるようになった。当然、そのような女官には読み書きの能力が求められることになる。

「むかしお父様がご存命だったとき、一度いっしょに王宮の外に出たことがあるの。大臣や臣たちを連れての狩りの日のことで、お父様は弓を手に馬に乗って颯爽と駆けていらしたわ。あの時の思い出を歌に詠んでみたいの」

 柔らかに夢見がちな声音で語るのは間人皇女まひとおうじょだった。間人皇女の父は葛城王と同じく舒明天皇である。柔らかな敷物を重ね、その上に何枚もの鮮やかな衣を重ねた上に座る間人皇女は、板敷の床に侍る一人の女官を手招いた。

額田王ぬかたのおおきみ、どうかしら」

 間人皇女に指名された額田王は、涼しい目元、澄んだ肌に紅唇が映えるその容貌に露ほどの動揺も浮かべることなく間人皇女の前に進み出た。

「間人皇女様、他にどのような思い出がございますか。お聞かせください」
「お父様が弓の張り具合を確かめるために弦を軽く弾いた音が聞こえたわ。朝の草原にその音が響いてとても清らかな気持ちになったのを憶えているの」
 間人皇女は両手の指先を合わせながら自らの思い出を語った。
「あの時は宝皇女様の、おや、今は大王でございましたね、大王の御加減が悪くて、幼いながら間人皇女様がその代わりを務められたのです」
 長く仕えている高齢の女官がいかにも懐かし気にそう言った。
「あの頃と比べて今は随分と様変わりしていますが、間人皇女様が御変わりにならないので我々は皆、安心してお仕えできます」
 老女官の言葉にその場に侍る女官たちが揃って頭を下げた。

 それからあまり間を置かないうちに額田王は伏せていた顔を上げた。
「間人皇女様、こちらを元に歌を作られてみてはいかがでしょうか」
「額田王、もう思いついたの。どうぞ聞かせて」
 額田王は姿勢を正しその場で歌の一節を歌い上げた。

――朝狩に今立たすらし 夕狩に今立たすらし 御執らしの梓の弓の 中弭はかはずの音すなり
(朝の狩りに今、立たれるのでしょうか 夕方の狩りに今、立たれるのでしょうか お手に取られた梓の弓の中弭の音がきこえてくるのです)

「あら、そうよ、そのとおりの景色だったのよ。素敵だわ、額田王。まるで貴女もあの場所にいたみたい」
 間人皇女は素直な笑みを満面に浮かべて額田王を褒めた。額田王はその場で深く頭を下げた。
「この歌はまだ出来上がっておりません。どうぞ皇女様ご自身で歌を完成させてくださいませ」
「ええ、ええ、額田王が素晴らしいお手本を作ってくれたのですもの、頑張って仕上げてみましょう」
「間人皇女様、御父上のことを詠む歌ですので、歌の初めには八隅知やすみしし我が大王の、とお付けください」
 間人皇女は額田王が献上した一節を何度も繰り返しながら、歌の残りの部分を考え始めた。

 間人皇女の様子を見ていた女官たちも、やがてそれぞれが歌を作り始めた。
「額田王さま、あ、というこの音は、どのような字を書くのでしょう」
「庭の木の枝に飛んでくる黄色い羽が可愛らしいあのヒワという鳥は、どんな字で書けばいいのかしら」
「字が分からないわ、誰か大学寮から博士を呼んで来て頂戴」
 筆と木簡を手に手に持った女官たちがさわさわと交わす言葉のさざ波が間人皇女の部屋を満たしていく。

――あの花は新羅にも咲くのかしら、唐でも咲いているのかしら、あの鳥は百済では何という名でよばれているのかしら

 渡来の献上品を眺めながら歌を詠み、話す言葉と文字の関係を理解する者が王宮の女官の中にも次第に増えていった。

 斉明天皇四年正月、年明け早々に左大臣巨勢徳陀古こせ とくだこが亡くなった。
 これにより左右の大臣はともに空席となり、内臣である鎌子がその職務を一手に担うことになった。

 四月には阿倍比羅夫が強力な水軍の力で齶田浦まで軍を進め、当地の蝦夷の長である恩荷を降伏させた。
 蝦夷攻略の吉報が飛鳥に届けられて間もなく、葛城王の御子の一人である健皇子が亡くなった。不具に生まれつき手厚い世話を受けて八歳まで育ったものの、幼く潰えたその命を最も嘆き悲しんだのは斉明天皇だった。

「あんなに稚く、清らかな命が失われてしまうのは本当に悲しいことだ」
 斉明天皇の嘆きは深かった。
「わたしの陵には健皇子も合わせて葬ってほしい」
 斉明天皇は孫である健皇子を失った悲しみを歌に詠み、何回も繰り返し唱えては涙をこぼした。

 夏が過ぎて秋の気配のもの寂しさが深まると、斉明天皇は再び春に亡くなった健皇子を思い出すようになった。悲しみに心が塞いで体調を崩すようになった高齢の女王を間人皇女や女官たちは深く心配し、手を尽くして介抱した。
 そのうちに斉明天皇は、しばらく健皇子の思い出が残る王宮を離れることを決意した。

「大王は紀国の牟婁湯むろのゆに行くおつもりだ。なんでも有間皇子から強く勧められたのだというが、吾も随行を命ぜられた。鎌子、吾とともに牟婁湯に来れるか。政務は大丈夫か」
 秋の夜長にも明かりの火が絶えることが無い執務部屋で、葛城王は軽く眉を寄せながらそう鎌子に尋ねた。

 葛城王が云う有間皇子とは、先に亡くなった孝徳天皇の皇子である。後ろ盾のない若い王族は、かつての葛城王がそうであったように不安定な身分を強いられる。若干十九歳という若さで有間皇子は斉明天皇への機嫌取りを折に触れ欠かさずに行っていた。

 その斉明天皇が政権の頂きにいるとはいえ実務は皇太子である葛城王が引き続き担っている。左右の大臣が空席となった今、葛城王を補佐しているのは鎌子だけになっていた。葛城王と鎌子は毎夜遅くまで各地からの報告に目を通し、各々に与える命令や施策を考え続けていた。

「今のところ差し迫って対応が必要なことはありません。新羅も百済も、倭に対しては何ら変化無く、唐は高句麗との争いに手を取られています」
「そうか。……ならば倭の内部にこそ問題があるだけか」
 それだけのやり取りだったが、葛城王の心の機微に敏くなっている鎌子は直ぐに反応した。
「葛城王、何かありましたか」
「大王は牟婁湯に大海人を連れていかないのだそうだ」
「では大海人皇子様が王宮の留守官を務められるのですか」
「違う、母上は蘇我赤兄を留守官に任命した。牟婁湯から戻るまでに王宮の北側に新たな役所と庭園を造っておくようにと命じたそうだ」
「大海人皇子様を王宮に残して、蘇我赤兄殿が留守官ですか」
「そうだ」
 しばらくの間、葛城王と鎌子は二人して黙り込んだ。灯りの油が燃える音が聞こえるほどの静寂が続いて、
「……母上は、何かお考えのようだが」
 声音に困惑を隠し切れない葛城王に鎌子は、
「葛城王、私は王宮に残り大海人皇子様の側にいます。決して目を離しません」
 強くそう言い切った。葛城王は深く頷き鎌子に信頼の目を向けた。
「吾は、そうだな、母上から少し遅れていこう。吉野に寄ってから行くといえば許してもらえるだろう」
「何かあればすぐに知らせて下さい」
「分かった。吾の方も何かあればすぐに鎌子を呼ぶ」

 斉明天皇四年十月、大王は間人皇女と皇太子である葛城王を連れて紀国の牟婁湯へと向かった。
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