もしも光源氏が絶世の美女だったら、在原業平も絶世の美女なので、ふたりとも夜這いをしますしイケメン貴族を囲い込みます。

あめの みかな

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​第3話:血の涙を墨に代えて

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​ 六条院の門前で、泥と雨にまみれて夜を明かした紀貫之の姿を、京の住人たちは嘲笑混じりに語り合った。
「あの才人が、光る君の毒に当てられたか」「憐れなことだ、もう二度とまともな役人には戻れまい」と。
​ だが、当の貫之には、そんな雑音すら届いていなかった。
 彼の脳裏にあるのは、昨夜、自分を拒絶したあの冷たい木の門と、その向こう側にいるであろう、この世の誰よりも美しく、残酷な女の横顔だけだった。

​ 屋敷に這い戻った貫之は、着替えもせず、食事も摂らず、ただひたすらに硯(すずり)に向かった。
 墨を擦る手が震える。何度も何度も、紙を丸めては投げ捨てた。
 並大抵の歌では、あの方の心には届かない。彼女が求めているのは、洗練された技巧ではない。自分という人間が、彼女のためにどれほど壊れ、どれほど絶望しているかという「真実」なのだ。

​「……これだ」

​ ついに、貫之の筆が止まった。
 紙に記されたのは、歌のプロとしてのプライドをすべて捨て去り、一人の「囚われの男」として、剥き出しの心臓を差し出すような言葉だった。


​『命さえ 惜しからざりし 昨夜(よべ)の雨 君に汚され 生きてある身よ』

(昨夜の雨に打たれ、死んでも構わないと思っていた。けれど、貴女に蔑まれ、泥を塗られたこの身でさえ、貴女に繋がっていると思うと、死ぬことさえできずに生き長らえているのです)


​ それは、恋歌という名の敗北宣言。
 貫之は自らの指を噛み、その一滴の血を墨に混ぜた。わずかに紅く滲んだその文を、彼は使いの者に託した。

「これを……宮様に。もし受け取っていただけぬなら、私はここで腹を切ると伝えよ」

​ 輝子は、届けられた文を、爪紅を施した指先でつまみ上げた。
 墨のなかに混じる、微かな鉄の匂い。彼女はその匂いを深く吸い込み、うっとりと目を細めた。

​「あら、血を混ぜるなんて。随分と使い古された手口だこと」

 口ではそう切り捨てながらも、輝子の唇には愉悦の笑みが刻まれている。

「けれど、この歌の歪み方は、なかなかどうして。……左京、この男に、古い縹(はなだ)色の直衣を一領(いちりょう)贈ってあげなさい。昨夜、泥で汚したお詫びだと言ってね」

​ それは「許し」ではない。「飼育」の合図だ。
 新しい服を贈るということは、その服を着て、また私の前に現れなさいという意味。貫之はこれで一生、輝子の手のひらの上で踊らされる「美しき犠牲者」として確定したのだ。

​「ふふ、おめでとうございますこと。輝子様。また一つ、壊れやすくて上質なコレクションが増えましたわね」

​ 脇で見ていた在原業子が、軽やかに扇を鳴らした。
 彼女は、輝子のこの「支配欲」を好ましく思いつつも、自分はもっと別の遊び方を好む女だった。

​「貫之のような繊細な小鳥を育てるのも一興ですが、私はもっと……こう、噛み応えのある獲物を狙いたいわ」

「あら、業子。貴女の言う『噛み応え』とは、あの藤原の堅物のこと?」

​ 輝子が問いかけると、業子は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。

「そう。右大臣の嫡男、藤原実資(さねすけ)様。あの方は、女性を『政治を乱す魔物』と決めつけ、日記を付ける以外に楽しみを知らないような御方。……どうかしら、輝子様? どちらが先に、あの鉄面皮を剥がして、私達の足元に膝まずかせるか」

​ 輝子の瞳に、新たな火が灯った。
 紀貫之のような「感性の男」を落とすのは容易い。だが、実資のような「論理と規律の男」を、その規律ごと破壊するのは、また別の喜びがある。

​「面白そうね。その勝負、乗ってあげてもいいわ。……ただし、負けた方は、自分が一番大切にしている『男』を、相手に差し出す。それでどう?」

​「いいわ。望むところよ」

​ 二人の女王が交わした、あまりに不謹慎で、美しき賭け。
 
 その頃、自分の屋敷で「光の君」から贈られた直衣を抱きしめ、狂喜の涙を流している貫之は、まだ知る由もなかった。
 自分が、さらに巨大な権力抗争と、女たちの美しき遊戯のなかの、ほんの駒の一つに過ぎないということを。

​「実資……。あの理屈屋の眉間が、苦悩に歪むところを想像するだけで、お酒が進みそうだわ」

​ 輝子は立ち上がり、庭に咲き乱れる女郎花(おみなえし)を見つめた。
 京の夜が、また動き出す。
 
 次の獲物は、決して恋などしないと誓った、氷の貴公子。
 その氷を、輝子の「光」がじりじりと、残酷に溶かし始める。
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