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第4話:氷の貴公子と、紅(くれない)の挑戦状
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藤原実資という男を一言で表すならば、「歩く律令(りつりょう)」である。
右大臣を父に持ち、若くして蔵人頭(くろうどのとう)という要職に就く彼は、一分の隙もない正装を崩さず、常に眉間に深い皺を刻んでいる。彼にとって、人生とは儀式を過ちなく遂行し、それを正確に日記『小右記(しょうゆうき)』へ記録することに集約されていた。
「……不謹慎極まる」
実資は、執務室で届けられた報告書を放り投げた。
巷を騒がせている紀貫之の醜態。そして、それを裏で操る「光の君」こと源輝子の振る舞い。実資に言わせれば、それらはすべて国家の風紀を乱す害悪でしかなかった。
「女が政治の表舞台に立ち、男を玩具のように扱う。このようなことが許されれば、いずれこの国の秩序は崩壊しよう。私は断じて、あのような魔性に屈することはない」
彼がそう日記に綴り、筆を置いたその時である。
部屋の外から、えも言われぬ芳(かぐわ)しい香りが漂ってきた。それは昨夜、貫之を狂わせた「光」の残り香ではなく、もっと挑発的で、燃えるような残り火の匂い。
「……誰だ。許可なくここへ立ち入る者は」
実資が鋭い声を放つと、御簾がゆっくりと、音もなく持ち上げられた。
そこに立っていたのは、源輝子本人――ではなく、彼女の使いを自称する、業子の息がかかった少年であった。
「実資様。わが主(あるじ)、光の宮様より、貴方様へ『知恵比べ』のお誘いでございます」
差し出されたのは、真っ赤な紅葉を思わせる、深紅の薄紙。
実資は鼻で笑った。
「知恵比べだと? 私は公務で忙しい。宮様のような、遊びに飽きた御方に付き合っている暇など――」
「『もしお断りになるなら、貴方様が昨夜、こっそりと御所の蔵で調べられていた「古い儀式の書物」の写しを、都中にばら撒きますわ』……とも仰せでした」
実資の顔が、一瞬で土気色になった。
彼が密かに研究していたのは、今では禁じられた古い加持祈祷の作法。それは彼の学究心ゆえの行動であったが、公になれば「呪詛の疑い」をかけられかねない危険な代物だ。
「……あの女、どこでそれを」
「今宵、六条院にてお待ちしております。お一人で、お越しくださいませ」
少年は、実資の答えを待たずに闇へ消えた。
残された実資は、怒りに震えながら、手元の紅い文を握りしめた。
「おのれ、源輝子……! 弱みを握って人を動かすとは、どこまで卑劣な……!」
その夜、実資は重い足取りで六条院の門を潜った。
彼は決めていた。もし彼女が色香で自分を惑わそうとするならば、即座に立ち去り、たとえ身を滅ぼそうとも正義を貫くと。
案内されたのは、月明かりだけが照らす静かな池のほとり。
そこには、昨夜のような派手な装束を脱ぎ捨て、白い単(ひとえ)一枚という、驚くほど無防備な姿の輝子が座っていた。
「お待ちしておりましたわ。実資様」
輝子は、水面に映る月を見つめたまま、振り返りもしない。
実資はその背中に向かって、毅然と言い放った。
「宮様。脅迫まがいの手段で私を呼び出すとは、皇族の末裔として恥ずかしくないのですか。私は貴女のコレクションに加わるつもりはありません。さあ、証拠を返しなさい」
輝子が、くすりと笑った。
彼女はゆっくりと立ち上がり、実資の方へ歩み寄る。その足取りは幽霊のように静かで、けれど確かな圧倒感を持って彼を追い詰める。
「証拠? ああ、あんな紙切れのことかしら。……そんなもの、既に燃やして捨ててしまいましたわ」
「……何だと?」
「貴方を呼ぶための口実ですもの。用が済めば、ただのゴミですわ」
輝子は、実資の目の前で足を止めた。
実資は反射的に目を逸らそうとしたが、輝子の指先が、彼の頑なな顎を捉えた。貫之の時よりも強く、拒絶を許さない力強さで。
「実資様。貴方は『規律』が大好きね。でも、貴方が守っているのは、先人が作った死んだ言葉だけ。……本当の『生きた秩序』が、ここにあるとは思いませんか?」
輝子の顔が、実資の鼻先まで近づく。
彼女の瞳の奥には、彼が今まで一度も見たことのない、深い知性と、それを上回るほどの「狂気」が宿っていた。
「私の前では、日記に書くような建前はいりません。貴方のその凍りついた心臓が、どれほどの速さで脈打っているか……この指先には、筒抜けですのよ?」
「くっ……離せ……!」
実資は抗おうとした。だが、輝子の身体から放たれる圧倒的な熱量と、彼女が発する「力」そのものに、足がすくむ。
輝子は実資の耳元で、甘く、毒を含んだ声で囁いた。
「今夜は、貴方の『正しさ』が、いかに脆いものか教えてあげますわ。明日の日記には、何と書くのかしら? 『私は、今日、魔物に魂を売りました』……それとも、『初めて、生きていると感じました』、と?」
実資の理性が、音を立てて崩れ始める。
規律と正義。それらを積み上げて作ってきた彼の世界が、輝子という「個」の存在によって、ただの砂の城へと変えられていく。
その様子を、少し離れた御簾の陰から、在原業子が愉しげに眺めていた。
「あらあら、あの実資様が、借りてきた猫のように大人しくなって……。輝子様、貴女の『教育』は、少し刺激が強すぎるのではないかしら?」
京の夜は、まだ始まったばかり。
氷の貴公子が、その冷徹な仮面の下で、どんな「獣」を飼っているのか。
輝子はそれを引き摺り出すため、さらに深く、彼を誘惑の迷宮へと引き込んでゆく――。
右大臣を父に持ち、若くして蔵人頭(くろうどのとう)という要職に就く彼は、一分の隙もない正装を崩さず、常に眉間に深い皺を刻んでいる。彼にとって、人生とは儀式を過ちなく遂行し、それを正確に日記『小右記(しょうゆうき)』へ記録することに集約されていた。
「……不謹慎極まる」
実資は、執務室で届けられた報告書を放り投げた。
巷を騒がせている紀貫之の醜態。そして、それを裏で操る「光の君」こと源輝子の振る舞い。実資に言わせれば、それらはすべて国家の風紀を乱す害悪でしかなかった。
「女が政治の表舞台に立ち、男を玩具のように扱う。このようなことが許されれば、いずれこの国の秩序は崩壊しよう。私は断じて、あのような魔性に屈することはない」
彼がそう日記に綴り、筆を置いたその時である。
部屋の外から、えも言われぬ芳(かぐわ)しい香りが漂ってきた。それは昨夜、貫之を狂わせた「光」の残り香ではなく、もっと挑発的で、燃えるような残り火の匂い。
「……誰だ。許可なくここへ立ち入る者は」
実資が鋭い声を放つと、御簾がゆっくりと、音もなく持ち上げられた。
そこに立っていたのは、源輝子本人――ではなく、彼女の使いを自称する、業子の息がかかった少年であった。
「実資様。わが主(あるじ)、光の宮様より、貴方様へ『知恵比べ』のお誘いでございます」
差し出されたのは、真っ赤な紅葉を思わせる、深紅の薄紙。
実資は鼻で笑った。
「知恵比べだと? 私は公務で忙しい。宮様のような、遊びに飽きた御方に付き合っている暇など――」
「『もしお断りになるなら、貴方様が昨夜、こっそりと御所の蔵で調べられていた「古い儀式の書物」の写しを、都中にばら撒きますわ』……とも仰せでした」
実資の顔が、一瞬で土気色になった。
彼が密かに研究していたのは、今では禁じられた古い加持祈祷の作法。それは彼の学究心ゆえの行動であったが、公になれば「呪詛の疑い」をかけられかねない危険な代物だ。
「……あの女、どこでそれを」
「今宵、六条院にてお待ちしております。お一人で、お越しくださいませ」
少年は、実資の答えを待たずに闇へ消えた。
残された実資は、怒りに震えながら、手元の紅い文を握りしめた。
「おのれ、源輝子……! 弱みを握って人を動かすとは、どこまで卑劣な……!」
その夜、実資は重い足取りで六条院の門を潜った。
彼は決めていた。もし彼女が色香で自分を惑わそうとするならば、即座に立ち去り、たとえ身を滅ぼそうとも正義を貫くと。
案内されたのは、月明かりだけが照らす静かな池のほとり。
そこには、昨夜のような派手な装束を脱ぎ捨て、白い単(ひとえ)一枚という、驚くほど無防備な姿の輝子が座っていた。
「お待ちしておりましたわ。実資様」
輝子は、水面に映る月を見つめたまま、振り返りもしない。
実資はその背中に向かって、毅然と言い放った。
「宮様。脅迫まがいの手段で私を呼び出すとは、皇族の末裔として恥ずかしくないのですか。私は貴女のコレクションに加わるつもりはありません。さあ、証拠を返しなさい」
輝子が、くすりと笑った。
彼女はゆっくりと立ち上がり、実資の方へ歩み寄る。その足取りは幽霊のように静かで、けれど確かな圧倒感を持って彼を追い詰める。
「証拠? ああ、あんな紙切れのことかしら。……そんなもの、既に燃やして捨ててしまいましたわ」
「……何だと?」
「貴方を呼ぶための口実ですもの。用が済めば、ただのゴミですわ」
輝子は、実資の目の前で足を止めた。
実資は反射的に目を逸らそうとしたが、輝子の指先が、彼の頑なな顎を捉えた。貫之の時よりも強く、拒絶を許さない力強さで。
「実資様。貴方は『規律』が大好きね。でも、貴方が守っているのは、先人が作った死んだ言葉だけ。……本当の『生きた秩序』が、ここにあるとは思いませんか?」
輝子の顔が、実資の鼻先まで近づく。
彼女の瞳の奥には、彼が今まで一度も見たことのない、深い知性と、それを上回るほどの「狂気」が宿っていた。
「私の前では、日記に書くような建前はいりません。貴方のその凍りついた心臓が、どれほどの速さで脈打っているか……この指先には、筒抜けですのよ?」
「くっ……離せ……!」
実資は抗おうとした。だが、輝子の身体から放たれる圧倒的な熱量と、彼女が発する「力」そのものに、足がすくむ。
輝子は実資の耳元で、甘く、毒を含んだ声で囁いた。
「今夜は、貴方の『正しさ』が、いかに脆いものか教えてあげますわ。明日の日記には、何と書くのかしら? 『私は、今日、魔物に魂を売りました』……それとも、『初めて、生きていると感じました』、と?」
実資の理性が、音を立てて崩れ始める。
規律と正義。それらを積み上げて作ってきた彼の世界が、輝子という「個」の存在によって、ただの砂の城へと変えられていく。
その様子を、少し離れた御簾の陰から、在原業子が愉しげに眺めていた。
「あらあら、あの実資様が、借りてきた猫のように大人しくなって……。輝子様、貴女の『教育』は、少し刺激が強すぎるのではないかしら?」
京の夜は、まだ始まったばかり。
氷の貴公子が、その冷徹な仮面の下で、どんな「獣」を飼っているのか。
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