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第6話:日記の聖域、光の侵食
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六条院の夜が明け、朝霧が庭園を白く包み込む頃。
藤原実資は、憑き物が落ちたような、あるいは魂の半分をどこかへ置き忘れたような足取りで自邸へと戻った。
彼はすぐさま書机(ふづくえ)に向かった。習慣とは恐ろしいもので、指先は勝手に筆を執り、墨を擦り始める。彼にとって、昨夜の出来事を『小右記』に記すことは、崩れかけた己の輪郭を繋ぎ止めるための、唯一の儀式であった。
『正月某日、天候。夜、六条院へ参じる。宮様は……』
筆が止まる。
書き記すべき事実は山ほどある。紀貫之の狂乱、宮様の不遜な振る舞い、そして何より、自分自身の心の揺らぎ。
だが、いざ文字にしようとすると、昨夜の輝子の吐息が紙の上から立ち上ってくるような錯覚に陥る。
「……書けぬ」
実資は筆を投げ出した。
「正しさ」を記録するための日記に、あのような「狂気」を混じらせることは、彼自身のこれまでの人生すべてを否定することに等しい。
ふと、部屋の隅に置かれた文箱に目が留まる。そこには、輝子から贈られた、あの血の滲んだ貫之の歌よりもさらに鮮烈な、紅い紙が残されていた。
そこには、一文字も書かれていなかった。
ただ、輝子が愛用する薫香の匂いと、彼女の唇の形をした、紅の跡が一つ。
「文字で語るまでもない、ということか。……おのれ」
実資は呻いた。彼女は知っているのだ。言葉を尽くして自分を律する男にとって、言葉のない誘惑こそが最大の暴力であることを。
業子の密かな愉悦
同じ頃、在原業子は、輝子の寝所である「春の対」を訪れていた。
輝子はまだ寝台の中で、しどけなく長い黒髪を零しながら、女房たちに髪を梳かせている。その姿は、昨夜の魔王のような冷徹さを微塵も感じさせない、無垢な少女のようでもあった。
「輝子様、朝から溜息が出るほどお美しいこと。実資様が、今頃自邸で悶え苦しんでいる姿が目に浮かびますわ」
業子は、輝子の枕元に腰を下ろし、親密な手つきで彼女の髪に触れた。
「業子、貴女も趣味が悪いわ。あの男を壊すのは、貫之のような脆い器を割るのとは、骨の折れ方が違うのよ」
「だからこそ、面白いのでしょう? ――ですが、輝子様。あまり深追いをしすぎると、帝が黙っておいでになりませんわよ」
輝子の手が、ぴたりと止まった。
「帝」――輝子の父であり、彼女をこの「六条院」という黄金の鳥籠に閉じ込めた張本人。
「父上が、私に何を仰ると言うの? 私はただ、父上の望み通り、誰の妻にもならず、誰の藤原の道具にもならず、この場所で『光』として存在し続けているだけだわ」
「ええ、表向きは。ですが、紀貫之に続いて藤原実資までもが貴女の虜になれば、宮中のパワーバランスが崩れます。特に、実資様の父である右大臣家は、貴女を『皇位を脅かす魔女』として廃そうと動き出すやもしれません」
業子の言葉には、ライバルとしての遊び心だけでなく、親友としての警告が含まれていた。
この平安の男女逆転社会において、女性の権力は「家格」と「知力」に支えられている。だが、あまりに強大な「美」は、時に政治そのものを焼き尽くす。
「廃せるものなら、廃してみればいいわ」
輝子は起き上がり、鏡の中の自分を冷ややかに見つめた。
「私は、誰かに愛されるために生きているのではない。この京の都、すべての男が私の影を踏むことさえ許されぬほどに、高く、遠い場所で輝き続けるために生まれてきたのよ。父上も、右大臣も、私の『光』を遮ることはできない」
その言葉に、業子はゾクりとするような昂揚感を感じた。
(ああ、やはりこの女は、私が愛した唯一の怪物だわ)
そこへ、騒がしい足音が回廊に響いた。
またしても、紀貫之である。
だが、今朝の彼は、昨夜の泥まみれの姿とは一変していた。輝子から贈られた縹色の直衣を完璧に着こなし、その手には、見たこともないほど豪華な、金銀を散らした料紙(りょうし)が握られている。
「宮様! 貫之にございます! 昨夜の失態、死してお詫びするつもりでしたが、あの一領の直衣に免じて、もう一度だけ、歌を献じさせてください!」
御簾の向こうで、輝子は小さく吹き出した。
「しぶとい男ね。ですが、そのしぶとさ、嫌いではないわ」
輝子は業子に視線を送り、悪戯っぽく微笑んだ。
「業子、勝負を少し変えましょうか。実資様を落とすのは私の仕事。貴女は、あの立ち直った貫之を、もう一度『恋の地獄』に叩き落としてみせて。……どちらの男がより無様に、私達のために命を捨てるか。それを見届けましょう?」
「ふふ、面白そうですわね。天才歌人と、氷の官僚。二つの魂が砕ける音、京の空に響かせて差し上げましょう」
二人の女王の密約。
それは、実資や貫之だけでなく、京の都のすべての男たちを巻き込む、巨大な恋の政変(クーデター)の幕開けであった。
藤原実資は、憑き物が落ちたような、あるいは魂の半分をどこかへ置き忘れたような足取りで自邸へと戻った。
彼はすぐさま書机(ふづくえ)に向かった。習慣とは恐ろしいもので、指先は勝手に筆を執り、墨を擦り始める。彼にとって、昨夜の出来事を『小右記』に記すことは、崩れかけた己の輪郭を繋ぎ止めるための、唯一の儀式であった。
『正月某日、天候。夜、六条院へ参じる。宮様は……』
筆が止まる。
書き記すべき事実は山ほどある。紀貫之の狂乱、宮様の不遜な振る舞い、そして何より、自分自身の心の揺らぎ。
だが、いざ文字にしようとすると、昨夜の輝子の吐息が紙の上から立ち上ってくるような錯覚に陥る。
「……書けぬ」
実資は筆を投げ出した。
「正しさ」を記録するための日記に、あのような「狂気」を混じらせることは、彼自身のこれまでの人生すべてを否定することに等しい。
ふと、部屋の隅に置かれた文箱に目が留まる。そこには、輝子から贈られた、あの血の滲んだ貫之の歌よりもさらに鮮烈な、紅い紙が残されていた。
そこには、一文字も書かれていなかった。
ただ、輝子が愛用する薫香の匂いと、彼女の唇の形をした、紅の跡が一つ。
「文字で語るまでもない、ということか。……おのれ」
実資は呻いた。彼女は知っているのだ。言葉を尽くして自分を律する男にとって、言葉のない誘惑こそが最大の暴力であることを。
業子の密かな愉悦
同じ頃、在原業子は、輝子の寝所である「春の対」を訪れていた。
輝子はまだ寝台の中で、しどけなく長い黒髪を零しながら、女房たちに髪を梳かせている。その姿は、昨夜の魔王のような冷徹さを微塵も感じさせない、無垢な少女のようでもあった。
「輝子様、朝から溜息が出るほどお美しいこと。実資様が、今頃自邸で悶え苦しんでいる姿が目に浮かびますわ」
業子は、輝子の枕元に腰を下ろし、親密な手つきで彼女の髪に触れた。
「業子、貴女も趣味が悪いわ。あの男を壊すのは、貫之のような脆い器を割るのとは、骨の折れ方が違うのよ」
「だからこそ、面白いのでしょう? ――ですが、輝子様。あまり深追いをしすぎると、帝が黙っておいでになりませんわよ」
輝子の手が、ぴたりと止まった。
「帝」――輝子の父であり、彼女をこの「六条院」という黄金の鳥籠に閉じ込めた張本人。
「父上が、私に何を仰ると言うの? 私はただ、父上の望み通り、誰の妻にもならず、誰の藤原の道具にもならず、この場所で『光』として存在し続けているだけだわ」
「ええ、表向きは。ですが、紀貫之に続いて藤原実資までもが貴女の虜になれば、宮中のパワーバランスが崩れます。特に、実資様の父である右大臣家は、貴女を『皇位を脅かす魔女』として廃そうと動き出すやもしれません」
業子の言葉には、ライバルとしての遊び心だけでなく、親友としての警告が含まれていた。
この平安の男女逆転社会において、女性の権力は「家格」と「知力」に支えられている。だが、あまりに強大な「美」は、時に政治そのものを焼き尽くす。
「廃せるものなら、廃してみればいいわ」
輝子は起き上がり、鏡の中の自分を冷ややかに見つめた。
「私は、誰かに愛されるために生きているのではない。この京の都、すべての男が私の影を踏むことさえ許されぬほどに、高く、遠い場所で輝き続けるために生まれてきたのよ。父上も、右大臣も、私の『光』を遮ることはできない」
その言葉に、業子はゾクりとするような昂揚感を感じた。
(ああ、やはりこの女は、私が愛した唯一の怪物だわ)
そこへ、騒がしい足音が回廊に響いた。
またしても、紀貫之である。
だが、今朝の彼は、昨夜の泥まみれの姿とは一変していた。輝子から贈られた縹色の直衣を完璧に着こなし、その手には、見たこともないほど豪華な、金銀を散らした料紙(りょうし)が握られている。
「宮様! 貫之にございます! 昨夜の失態、死してお詫びするつもりでしたが、あの一領の直衣に免じて、もう一度だけ、歌を献じさせてください!」
御簾の向こうで、輝子は小さく吹き出した。
「しぶとい男ね。ですが、そのしぶとさ、嫌いではないわ」
輝子は業子に視線を送り、悪戯っぽく微笑んだ。
「業子、勝負を少し変えましょうか。実資様を落とすのは私の仕事。貴女は、あの立ち直った貫之を、もう一度『恋の地獄』に叩き落としてみせて。……どちらの男がより無様に、私達のために命を捨てるか。それを見届けましょう?」
「ふふ、面白そうですわね。天才歌人と、氷の官僚。二つの魂が砕ける音、京の空に響かせて差し上げましょう」
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それは、実資や貫之だけでなく、京の都のすべての男たちを巻き込む、巨大な恋の政変(クーデター)の幕開けであった。
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