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第7話:残り香の罠、狂える筆先
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紀貫之は、自らの内に湧き上がる奇妙な高揚感に突き動かされていた。
輝子から贈られた直衣は、肌に吸い付くように馴染み、まるで彼女の腕の中にいるような錯覚を抱かせる。
「宮様は私を見捨ててはいなかった。あの堅物への接近は、私を試すための余興に過ぎぬのだ」
そう信じ込み、金銀を散らした豪華な紙に、心血を注いだ歌を書き連ねる。今の彼にとって、歌を詠むことは呼吸することと同義であり、その酸素を供給しているのは、源輝子という名の毒であった。
そんな彼の前に、一人の女が立ちはだかった。
在原業子である。
彼女は、輝子の六条院から続く回廊の影で、艶然と微笑んでいた。
「あら、貫之様。その直衣、本当によくお似合いですこと。輝子様も、貴方のその『従順な首輪』の似合いっぷりには、さぞかし満足されているでしょうね」
貫之は足を止め、不快げに眉を寄せた。
「在原の君。……首輪とは、言葉が過ぎます。私は、宮様の真実の心に触れた唯一の男です」
「真実の心? ふふ、貴方は何も分かっていないのね」
業子はしなやかな動作で歩み寄り、貫之の胸元にそっと指先を滑らせた。
「あの御方は、光なのよ。光は万物を照らすけれど、特定の何かに留まることはない。今、あの御方が最も熱心に照らしているのは……貴方ではなく、あの『日記の男』、実資様だというのに」
「嘘だ! あの堅物が、宮様の心に届くはずがない!」
「あら、嫉妬かしら? 見苦しいわ。……でも、そんなに疑うなら、今宵、もう一度六条院へ行ってみればいい。ただし、門からではなく、私が見せてあげる『秘密の道』からね」
業子の瞳に宿る、底知れぬ愉悦。
彼女は貫之を救おうとしているのではない。輝子との賭けを楽しむために、貫之という駒に「嫉妬」という名の火薬を詰め込んでいるのだ。
一方、藤原実資は、自邸の書斎で己の指を見つめていた。
輝子に顎を触れられ、耳元で囁かれたあの一夜から、彼の指は文字を綴ることを拒んでいた。
『小右記』の頁は白紙のまま、時間が止まっている。
「……耐えられぬ」
実資は立ち上がった。
彼を動かしたのは、恋心などという生温いものではなかった。自分の聖域である日記が、彼女の幻影によって汚され、書けなくなっている。この不名誉を、この不条理を、彼女に直接叩きつけてやらねばならない。
再び訪れた六条院。
だが今夜、実資を待っていたのは、池のほとりでの対峙ではなかった。
輝子の私的な空間である「帳台(ちょうだい)」――御簾(みす)と几帳(きちょう)に囲まれた、最も奥深い寝所へと案内されたのである。
「……宮様。これは、礼を失しているのではないですか」
実資は御簾越しに声を荒らげたが、その声は微かに震えていた。
「礼を失しているのは、どちらかしら? 実資様。約束もなしに、夜な夜な私の門を叩くのは……それは『規律』に叶った行いなのですか?」
御簾が、内側からゆっくりと上げられる。
そこには、透き通るような薄衣を幾重にも纏い、香炉の煙に巻かれた輝子がいた。彼女は手に一冊の冊子を持っている。それは、実資が大切にしていたはずの、古い儀式の写本……ではなく、実資が今日、屋敷に残してきたはずの『小右記』の最新の巻であった。
「なっ……! 何故、それを貴女が!」
「貴方の屋敷の従者たちも、私の美貌には勝てなかったようですわ。……読みましたわよ。昨夜のことが、一文字も書かれていない。白紙の頁が続く日記。……これこそが、貴方の『告白』ではありませんか?」
輝子は立ち上がり、実資の目の前まで歩み寄る。
彼女は日記の白紙の頁を、実資の目の前でゆっくりと指でなぞった。
「言葉にできないほどの情熱。文字にすれば壊れてしまうほどの畏怖。実資様、貴方は私を『魔物』と呼んだ。けれど、その魔物に魂を喰らわれ、何も書けなくなった自分を……本当は愛おしく思っているのでしょう?」
「違う……私は……」
「言い訳は、もう結構。……ほら、私の手に触れなさい。そうすれば、新しい言葉が浮かんでくるかもしれませんわよ?」
実資の理性が、最後の一糸で繋ぎ止められていたその時。
帳台の影から、ガサリと大きな音がした。
「……そこかッ! 誰だ!」
実資が叫ぶのと同時に、几帳が倒れ、そこから飛び出してきたのは――業子に導かれ、秘密の道を通ってきた貫之であった。
「宮様! 騙されてはいけません! この男は、貴女の尊さを記録に汚すだけの卑怯者です!」
泥を跳ね上げ、激情を剥き出しにした貫之。
規律を破り、自らの聖域を奪われた実資。
そして、それらすべてを「光」のなかで微笑みながら見下ろす輝子。
「あらあら、今夜は一段と賑やかですわね」
輝子は、二人の男の間に割って入るようにして、ゆっくりと扇を広げた。
「実資様、貫之。貴方たちのどちらが、より私の『真実』に近いのか。……今宵、この場で決めて差し上げますわ。負けた方は、二度と京の土を踏めぬ覚悟で、お相手なさい」
嫉妬が殺意に変わり、愛が絶望へと昇華される。
平安の夜は、女たちの残酷な遊戯によって、赤く染まってゆく。
輝子から贈られた直衣は、肌に吸い付くように馴染み、まるで彼女の腕の中にいるような錯覚を抱かせる。
「宮様は私を見捨ててはいなかった。あの堅物への接近は、私を試すための余興に過ぎぬのだ」
そう信じ込み、金銀を散らした豪華な紙に、心血を注いだ歌を書き連ねる。今の彼にとって、歌を詠むことは呼吸することと同義であり、その酸素を供給しているのは、源輝子という名の毒であった。
そんな彼の前に、一人の女が立ちはだかった。
在原業子である。
彼女は、輝子の六条院から続く回廊の影で、艶然と微笑んでいた。
「あら、貫之様。その直衣、本当によくお似合いですこと。輝子様も、貴方のその『従順な首輪』の似合いっぷりには、さぞかし満足されているでしょうね」
貫之は足を止め、不快げに眉を寄せた。
「在原の君。……首輪とは、言葉が過ぎます。私は、宮様の真実の心に触れた唯一の男です」
「真実の心? ふふ、貴方は何も分かっていないのね」
業子はしなやかな動作で歩み寄り、貫之の胸元にそっと指先を滑らせた。
「あの御方は、光なのよ。光は万物を照らすけれど、特定の何かに留まることはない。今、あの御方が最も熱心に照らしているのは……貴方ではなく、あの『日記の男』、実資様だというのに」
「嘘だ! あの堅物が、宮様の心に届くはずがない!」
「あら、嫉妬かしら? 見苦しいわ。……でも、そんなに疑うなら、今宵、もう一度六条院へ行ってみればいい。ただし、門からではなく、私が見せてあげる『秘密の道』からね」
業子の瞳に宿る、底知れぬ愉悦。
彼女は貫之を救おうとしているのではない。輝子との賭けを楽しむために、貫之という駒に「嫉妬」という名の火薬を詰め込んでいるのだ。
一方、藤原実資は、自邸の書斎で己の指を見つめていた。
輝子に顎を触れられ、耳元で囁かれたあの一夜から、彼の指は文字を綴ることを拒んでいた。
『小右記』の頁は白紙のまま、時間が止まっている。
「……耐えられぬ」
実資は立ち上がった。
彼を動かしたのは、恋心などという生温いものではなかった。自分の聖域である日記が、彼女の幻影によって汚され、書けなくなっている。この不名誉を、この不条理を、彼女に直接叩きつけてやらねばならない。
再び訪れた六条院。
だが今夜、実資を待っていたのは、池のほとりでの対峙ではなかった。
輝子の私的な空間である「帳台(ちょうだい)」――御簾(みす)と几帳(きちょう)に囲まれた、最も奥深い寝所へと案内されたのである。
「……宮様。これは、礼を失しているのではないですか」
実資は御簾越しに声を荒らげたが、その声は微かに震えていた。
「礼を失しているのは、どちらかしら? 実資様。約束もなしに、夜な夜な私の門を叩くのは……それは『規律』に叶った行いなのですか?」
御簾が、内側からゆっくりと上げられる。
そこには、透き通るような薄衣を幾重にも纏い、香炉の煙に巻かれた輝子がいた。彼女は手に一冊の冊子を持っている。それは、実資が大切にしていたはずの、古い儀式の写本……ではなく、実資が今日、屋敷に残してきたはずの『小右記』の最新の巻であった。
「なっ……! 何故、それを貴女が!」
「貴方の屋敷の従者たちも、私の美貌には勝てなかったようですわ。……読みましたわよ。昨夜のことが、一文字も書かれていない。白紙の頁が続く日記。……これこそが、貴方の『告白』ではありませんか?」
輝子は立ち上がり、実資の目の前まで歩み寄る。
彼女は日記の白紙の頁を、実資の目の前でゆっくりと指でなぞった。
「言葉にできないほどの情熱。文字にすれば壊れてしまうほどの畏怖。実資様、貴方は私を『魔物』と呼んだ。けれど、その魔物に魂を喰らわれ、何も書けなくなった自分を……本当は愛おしく思っているのでしょう?」
「違う……私は……」
「言い訳は、もう結構。……ほら、私の手に触れなさい。そうすれば、新しい言葉が浮かんでくるかもしれませんわよ?」
実資の理性が、最後の一糸で繋ぎ止められていたその時。
帳台の影から、ガサリと大きな音がした。
「……そこかッ! 誰だ!」
実資が叫ぶのと同時に、几帳が倒れ、そこから飛び出してきたのは――業子に導かれ、秘密の道を通ってきた貫之であった。
「宮様! 騙されてはいけません! この男は、貴女の尊さを記録に汚すだけの卑怯者です!」
泥を跳ね上げ、激情を剥き出しにした貫之。
規律を破り、自らの聖域を奪われた実資。
そして、それらすべてを「光」のなかで微笑みながら見下ろす輝子。
「あらあら、今夜は一段と賑やかですわね」
輝子は、二人の男の間に割って入るようにして、ゆっくりと扇を広げた。
「実資様、貫之。貴方たちのどちらが、より私の『真実』に近いのか。……今宵、この場で決めて差し上げますわ。負けた方は、二度と京の土を踏めぬ覚悟で、お相手なさい」
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