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過去
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しおりを挟む午後の部は、グラウンドで一斉に行われる。各自昼食を取ってから、クラスごとに決められた場所に集まることになっていた。僕は再開時刻の十五分前にはもう所定の位置に着いていた。午後になって風が出てきて、日射しの割には居心地がいい。天気同様、午後は穏やかに終わりたいなあと思っていたら。
「若葉ちゃん、若葉ちゃん」
隣にやってきて、新田君が言う。
「琉聖、探しに行かなくていいの?」
「え?」
「あいつ、しばらく来ないかもよ? 自分が出るやつ、まだだし」
放っておいても構わないのではないかとは思ったが、バスケの試合で迷惑をかけたことについて謝りたい気持ちもあった。僕がいてもいなくても結果は変わらなかっただろうが、それでも。
行ってくる、と新田君に言い残し、僕は校舎の方へと踵を返した。
自分の教室で寝ている、というのがいちばんありそうなケースだと思ったのだが、中には誰もいなかった。ここにいないとなると、他の場所を探さねばならず、午後の部の開始には間に合わない。もしかしたら入れ違いになっていて、今頃集合場所にいたりするのではないだろうか。僕は深く息を吐いて、窓際へと近づいた。
開け放たれた窓から吹き込む風が、カーテンを揺らしている。眼下にグラウンドを見渡すことができたが、この位置からでは四谷がいるかどうかまでは分からない。僕は視線を教室の中へと戻し、窓際の最後尾の席に目を向けた。普段は四谷が怠そうに座っているその席に、好奇心からふと腰を下ろしてみる。四谷の席の右隣には、自分の席がある。そのことが、もう当たり前になってきていた。四谷のようなやつの側にいるのは、どう考えても普通ではないのに──
机の上に置いた腕の輪に横向きに頭を乗せて、僕はそっと目を閉じた。
目を瞑ったまま、淡い光を瞼の上に感じていると、ふいに教室の扉の開く音がした。
「……若葉?」
四谷の、声。四谷の席に座る僕は、目を開くことができなかった。
「寝てる……?」
息を潜め、近付いてくる四谷の足音を聴く。四谷の席になんか、座るんじゃなかった。この状況の不自然さを説明する言葉が思い付かない。ただただ気まずい。好奇心は、猫をも殺す。若葉、と彼が再び僕の名前を呼んだ。
机が微かに音を立てて軋む。四谷が手を着いたのだろう。僕は起きていることがばれやしないか、ひやひやしていて。呼吸が浅くなっていないか、心臓の音はうるさくないか、そんなことばかり気にしていた。だから四谷の気配が近付いてきたことに気づくことができなかった。
窓の方から感じていた光がふっと途絶えた次の瞬間、唇に、やわらかな感触を感じた。
本当に一瞬のことで、何が起きたのか理解できなかった。もしかして今のは、といちばんあり得そうにないことに思い至ったとき、遠くで小さく破裂音がした。午後の部開始の合図だった。早くグラウンドに戻らなければと思ったが、四谷が側にいるかと思うと動けない。
結局、四谷の足音が遠退いていき、完全に聞こえなくなるまで僕は、睫毛の一本さえ動かすことができなかった。
開始時間よりも遅くグラウンドに戻ってきた僕を見て、クラスメイトの女の子が首を傾げた。
「雪下君、遅かったね。具合でも悪い?」
「ううん。大丈夫」
「応援合戦、始まってるよ。次が、二組」
うちの体育祭は、縦割りでチームが組まれている。たとえば、一年一組、二年一組、三年一組が、同じチームとなるように。応援合戦はチームごとに行われ、上位三チームに得点が入ることになっていた。
「……あの、四谷戻ってる?」
小声で尋ねると、彼女は「うん」と頷いた。
「でもさっき、新田君に引っ張られて行っちゃったよ」
「え?」
「応援で太鼓叩く予定だった二年生が、怪我しちゃったんだって。代わりに四谷君を連れてったみたい」
新田君は、そういえば応援のメンバーだった。
「そうなんだ……」
「四谷君が出るとか、絶対盛り上がるよねー」
楽しそうに笑う彼女の横で僕は、今四谷と顔を合わせなくて済んだことに、心底ほっとしていた。ほんの少し、四谷のことが解ってきたような気がしていたのに、また振り出しに戻ってしまった。四谷を前にして、平常心でいられる自信がない。
「雪下君、見て。四谷君だよ」
「……っ」
名前を聞いただけで、心臓が締め付けられるように痛んだ。彼女の指差す先にいる四谷はジャージから着替えたらしく、黒一色の学ランに身を包んでいる。
「やっぱり、かっこいいよね……。雪下君がうらやましい」
「うらやましい……?」
「四谷君と普通に話せるなんて、すごいと思うよ。あたしだったら、絶対無理だなあ」
彼女はそう言うが、僕も彼女と同じ側の人間だ。目立つことも、目立つ存在も得意ではない。これまで普通に話せていたことの方がおかしなことだったのかもしれない。
応援合戦で太鼓を叩く四谷琉聖を見ながら、僕は真っ白な気持ちになった。四谷と自分は、違い過ぎる。自分には、四谷のように周囲を強く惹きつけるものはない。勉強については平均よりは上かもしれないが、容姿にも性格にも際立ったところはない。──四谷にキスされる、理由がない。
一際大きな歓声が上がったかと思うと、ちょうどパフォーマンスが終わったところらしく、応援のメンバーが退場し始めていた。新田君と四谷が戻ってくるのが見えたので、僕は深呼吸をして身構えた。
「若葉ちゃん、見てくれてた?」
「う、うん」
新田君に訊かれ、曖昧に頷く。実際は、目を開けていても、開けていないのと変わりないような状態だったのだから。
「そういえば、さっき、ごめん」
「え?」
彼は僕にそっと耳打ちした。
「琉聖、探しに行くように勧めたこと。行き違いになっちゃったみたいだから」
「あ、ああ……」
新田君は、向こうで女子に囲まれている四谷を見て言った。
「教室に探しに行ってたんでしょ? あいつ、いなかったんだ?」
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。過度の緊張からか、気温に反して指先が冷たくなっていく。
まだ整理しきれていない感情が溢れ出しそうで、僕は軽く唇を噛んだ。
「……うん。いると思ったんだけど、会えなくて。ちょっと休憩してから、戻ってきちゃった」
一部省略した事実を伝えると、そっか、と新田君は相槌を打った。
「さっき琉聖に、若葉ちゃんに会わなかった? って訊いたんだけど。琉聖、何も言わないから。もしかして、喧嘩でもしたのかなと思って」
「……してないよ」
あのとき、目を開くことができていたら。僕は四谷と喧嘩していたのだろうか。そうしたら、こんなふうにもやもやしたりせずに済んだのだろうか。
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