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過去
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しおりを挟む三十分後か、一時間後か。あるいは、ほんの二、三分後か。
暗がりの中で、四谷が言った。
「若葉。起きてるか?」
自分から明かりを消したはずなのに、全く眠れていなかった。鼓動は落ちついていたが、眠気が訪れてくれない。
「……起きてる」
もしかしたら四谷も、僕と同じだったのかもしれない。
「若葉」
「何?」
「若葉んちって、父親は?」
「え? ああ、今単身赴任してる」
父は電子機器メーカーの会社に勤めていて、今年は中国にある工場に出向していた。
「そっか」
四谷が、息を吐くのが分かった。見えないと、ささいな音に敏感になる。
四谷が訊きたかったのはきっと、若葉のうちもシングルマザーなのか、と。そういったことだったのだろう。僕の答えにほっとしていた彼は、優しいひとだ。不本意ながら、そう思う。
「……何か、分かった気がする」
「え?」
「どうやったら、そんな、ばか正直でくそ真面目に育つんだろうと思ってたけど」
「……」
「今日、分かった」
四谷は、笑ったのだと思う。優しい空気の震えが、それを僕に教えてくれた。
「……じゃあ、四谷もうちにいたら、くそ真面目になるってこと?」
何だか照れてしまった僕が茶化すように尋ねると。
「試してみるか?」
試すかばか。こんな厄介な生き物、うちでは扱えない。
「僕も、分かった気がする」
「は?」
「どうやったら、そんなに自由で気ままになれるのか」
四谷のお母さんの、美しい横顔を思い出す。
「四谷は、自由でいないといけなかったんだね。そうしないと、あのひとに心配されてしまうから」
母子家庭の苦労は、僕には分からないが。謂れのないことで責められることも、時にはあったのかもしれない。それでも、四谷が笑っていてくれさえすれば、きっとお母さんはしあわせだっただろう。だから四谷は、自由なんだ。
何言ってんだか、と四谷が呆れたように笑った。
「若葉はほんと、考えすぎ」
「そうかな」
そうだよ、と四谷が言うので、僕はそれ以上は言わなかった。四谷が否定しようがしまいが、僕の中ではもう変わらない。
「今日、緑君と桃ちゃんと遊んでくれてありがとう。すごく楽しそうだった」
「どういたしまして」
「何か、少し意外だった」
「何が?」
「四谷が、あんなふうにこどもと遊ぶの」
「そうか?」
「うん」
夜の中で、僕は四谷と話し続けた。どうでもいいような話でも、四谷はきちんと聞いて応えてくれる。からかわれることもなくはなかったが、それも大して嫌ではなかった。ふいに僕は、四谷のことが嫌いではなくなっている自分に気がついた。そして、そのことはとてもよくないことのように思えた。
嫌いだと、思っていたかった。それ以外の感情なんて、欲しくなかったのに。
「……若葉? 寝たのか?」
僕は何も答えない。胸の音が、四谷に聞こえていないことを強く願った。
「おやすみ」
低くて、どことなく甘い声。四谷琉聖の声に、侵食されていく。どうして僕は、そのことを心地よく感じてしまうのだろう。
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