I don't like you.

広瀬 晶

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現在

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 初夏の夕暮れ、空には綺麗な夕焼けが広がっていた。薔薇の花弁にも似た、生命力に溢れた赤。
「雪下」
    声のした方を振り返る。そこには、ここ数日の僕の相棒が立っていた。
「沢木さん。どうでした?」
「許可は出た。後は製作に回すだけだよ」
「よかった……。お疲れさまでした」
「雪下も」
    やわらかな声音に頭を下げ、僕は帰り支度を始めた。

    地元の国立大に進学した僕は、大学卒業後、小さな文房具メーカーに就職した。新人研修を受けた後に配属された営業部での仕事を、この十年間せっせと続けている。
    今回デザイナーの沢木さんと組んで行っていたのは、予備校から依頼されたオリジナルボールペンと消しゴムの製作だった。それ自体は特に問題のない仕事だったのだが、沢木さんも僕も既に他の仕事をいくつか抱えていたため、期日に間に合うかどうかという懸念があった。懸念が杞憂に終わったことに安堵しつつ、僕は周囲に挨拶をしてから会社を後にした。

    まっすぐ帰宅してもよかったのだが、あえて自宅の最寄り駅を通り越し、ひとつ先の駅で電車を降りた。駅から少し離れたところにあるビルの、地下一階に目的の店が入っている。看板を確認し、階段を下りる。扉を開けると、よく見知った顔が出迎えてくれた。
「……雪下」
「ご無沙汰していました」
「確かに。最近来てなかったな」
「仕事でばたばたしていたので。カウンター席、空いてますか」
「ああ。座って」
    カウンターには、二人の客がいた。僕は客のいない、奥の席へと腰を下ろす。
「今日は飲みに来た? それとも……」
「飲みに来ました」
    微笑んで告げると、そっとスパークリングワインを差し出される。受け取り、一口口に含む。細やかな泡が、口の中で爽やかに弾けた。
「……おいしいです」
「よかった」
     彼はかつては大学時代の先輩だったひとで、一時、付き合っていた相手でもあった。
「仕事、忙しい?」
    カウンター越しに問いかけられ、曖昧に頷く。
「少しだけ、忙しくしていました。来月には多少落ち着く予定です」
「そっか」
    初めて友人から先輩のことを紹介されたとき、似ていると思った。声が──彼に。
「何食べる?」
「食べるということは、前提なんですね」
    思わず、くすっと笑ってしまう。
「この時間だし、まだ飯食ってないんだろ?」
「はい。じゃあ……」
    そういえば最近、ちゃんとした食事が取れていなかったことに気づく。メニューを見て、頼み慣れた品をいくつか注文した。

 先輩とは、別れてからずっと連絡を取っていなかった。別れたいと言ったのは自分の方だったので、そう切り出した以上、もう会うべきではないと思っていた。
 先輩は一貫して優しかった。付き合っていた頃も、別れるときでさえも。
    街中で再会して、この店を紹介されたのが一年前。以来、定期的に飲みに訪れている。
「そういえば、今日は永嶋さんいらっしゃらないんですね」
    カウンターにいることが多い、常連客の姿が見られない。通ううちに顔見知りになり、年が近いということもあって、言葉を交わす機会が増えてきていたのだけれど。
「ああ、うちに来る頻度は減ったかな。恋人ができたそうだから」
「そうなんですか」
「うん。一度ここにも連れて来たことがあるけど、なかなかイケメンだったよ」
    永嶋さんは僕と同年代の男性で、ゲイだった。先輩自身がゲイだということを特に隠していないせいか、この店では男性同士のカップルがいる光景も、それほどめずらしくはない。
「仲よくしていただいていたので、少し寂しいです」
    正直に心情を吐露し苦笑すると、二杯目のグラスをこちらに差し出しながら先輩が言った。
「雪下は?」
「え?」
「そういう相手、いないの?」
「いたら、週末の夜、こんなふうにひとりで食事したりしませんよ」
    にこりと笑って告げると、先輩は呆れたように息を吐いた。
「誰か、紹介しようか?」
「いえ……。今はいいです」
    反射的に断ってしまうのは、自分が臆病だからだ。我ながらばかみたいだなと思う。
「じゃあ、俺とやり直してみる?」
「それも、遠慮しておきます」
    また先輩に甘えても、結局以前と同じ結果になってしまう気がする。
「相変わらず、ガードが固いな」
「そんなつもりはないんですけど」
    固い、と言われれば、そうかもしれない。人付き合いは元々あまり得意な方ではない。恋愛において身体の関係にまで進んだのは、先輩だけだ。それも、最後まではできなかった。
「軽くなったら、雪下じゃなくなる気もするけど」
    先輩はそう言って笑った。

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