I don't like you.

広瀬 晶

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「──ごちそうさまでした」
「いえいえ」
「また来ます。来月になるかと思いますが」
「ん。待ってる」
    先輩に見送られ、店を出る。階段を上り切った先で、清涼感のある風が吹いた。
    忘れられると、思っていた。一時の恋愛感情なんて、いずれ薄れていくのだろうと。燻っていた想いを掻き消したくて、先輩と付き合った。自分が同性と付き合える人間なのかどうかも知りたかった。あの頃先輩に抱かれていたなら、もっと違う自分になれていたのだろうか。

    一駅戻って、自宅の最寄り駅で下車する。駅から自宅までは、徒歩五分。車を持たない分、交通機関へのアクセスを重視して選んだマンションだった。十二階建てのマンションの十階、エレベーターを降りてすぐ右手に、自分の部屋がある。部屋の中には、当然ながら誰もいない。服を着替え、テレビの前に置かれたソファへと沈み込む。
「恋人、か……」
    欲しいと思わないわけではない。ただ、怖い。また先輩のときのように、相手を傷つけてしまいそうな気がして。
    おかしな話だと思う。四谷とは、付き合ってさえいなかったのに。からかわれたり、いじられたりしているうちに、僕が勝手に特別な感情を抱いただけだ。彼とは何もなかった。忘れられない、なんておかしい。
    時々、彼の声を思い出す。自分よりずっと低くて、重たい声。あの声に名前を呼ばれると、いつも居心地が悪かった。
──若葉。
    ふいに、身体が疼くのを感じる。呼吸が苦しくなって、全身が熱を帯びる。
    こんなのは嫌だと思うのに、熱が収まってくれない。ソファに体重を預け、おそるおそる服の上から下肢に触れた。自身の形が変わっていることを自覚して、泣きそうな気持ちになる。
先輩にも、触れられたことはある。刺激され、快感を覚えた。ただ、最後は必ず目を閉じなければいけなかった。僕を追いつめるのはいつだってその声だった。四谷に、よく似た声。
    部屋着の中に手を入れ、僕はきつく目を閉じた。余計なことは考えずに、熱を吐き出すことに意識を集中させる。若葉、と僕を呼ぶ声。その震えを思い出すだけで、身体が反応する。直接触れると、とろりと濡れた感触がした。息を殺し、手を動かす。早く終わらせないと、また。
──若葉、いい?
    昔先輩としたときに言われた言葉が、脳内で勝手に四谷の声に変換される。罪悪感と、それを上回る快感とで、僕はどんどんおかしくなっていく。
──声、出して。
    溢れ出たものが白く指を汚すまで、僕は手を止めることができなかった。

    湯船に浸かりながら、こんなことではいけないと強く思う。こじらせて、引きずって。自分が誰かに抱かれることができたなら、四谷の声はもう聞こえなくなるだろうか。不透明な感情に、縛られずに済むのだろうか。


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