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現在
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しおりを挟む夜の繁華街に足を踏み入れるのは、二年振りだった。あのときは、上司の行きつけの店に連れて行かれたのだったか。押しの強い女性と、アルコール度数の強いお酒に辟易した記憶がある。
目的の場所は、以前永嶋さんに教えてもらった店だった。その手の男性が集まるバーで、彼曰く雰囲気のよい店らしい。今夜は、その情報に賭けてみることにした。
──最初に話したひとを、誘う。
相手にも好みというものがあるだろうし、どう転ぶかは分からない。上手く行けば、四谷を忘れることができるかもしれない。その一心で、僕は店の扉を開いた。
雰囲気は、確かによかった。繁華街の喧騒から距離を置いた、程よい静けさがある。初めての店で勝手が分からずにいると、バーテンダーの男性がカウンター席を勧めてくれた。
「ありがとうございます」
「もしかして、こちらは初めてですか?」
「あ、はい。そうです。友人に教えてもらって……」
「そうでしたか。ゆっくりされていってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
お酒を注文し、また僕はひとりになる。さて、これからどうしたものか。店内には何人か客がいるが、カウンターには僕しかいない。身体が、緊張で強張っていくのが分かった。
もしバンジージャンプの台の上に立たされたら、こんな気持ちになるのかもしれない。強気と弱気の波が、交互に押し寄せてくる。何とかしなければと思いつつも踏み出せず、酒量だけが増えていった。
そろそろと意気込んで、グラスにわずかに残っていたお酒をぐいっと煽ると、後方で扉の開く音がした。
「あ、いらっしゃい。今日は……二人?」
「うん。カウンター、いい?」
「もちろん。そっちは、まさかサトルくんの恋人?」
「全く、そんなんじゃないです。俺、こんなでかいやつ、嫌だし」
どうやら常連客らしい。入口に背を向けて座っているので顔は見えないが、親しげな様子が伝わってくる。でかいやつ、と呼ばれた男性が、うるせえと小さく言い返した、そのとき。
僕の身体に、小さな震えが走った。何だろう、この感じ。どこかで。
「四谷、カウンターでいいよな?」
常連さんが連れの男性にそう告げた瞬間、僕は本当に心臓が止まるかと思った。
まさか、と僕は思う。まさか自分の知る四谷が、こんなところにいるはずがない。ただ、僕の心は既に「彼だ」と叫んでいる。
「四谷、俺端っこがいいんだけど」
「お好きにどうぞ」
着席したらしい二人と僕との間には、数席分の間隔が空いている。今そっと帰ってしまえば、何も悪いことは起きない。確かにそう思うのに、僕はその席に留まり続けた。
彼が本当に四谷だったとして。僕は、何がしたいんだろう。好きだっただなんて、今さら言うつもりもない。だったらどうして僕は今、ここにいるのだろう。
少しずつ、少しずつ、グラスの中で溶けていく氷を見つめる。僕はただ、忘れたかっただけだ。四谷への想いを。綺麗に忘れて、最初からなかったことみたいにしたかった。今からでも遅くはない。ひとりで飲んでいる客に声をかけ、一緒に店を出ればいい。断られてしまったときは、諦めて自宅に帰る。簡単なことだ。僕はカウンター以外の席に目を向けた。単独で飲んでいる客は、今のところ二人。どちらに声をかけようか考えていると、右手のカウンター席から声がした。
「あー……四谷ごめん。呼び出し」
「今からか」
「そう」
「自分から誘っておいて?」
「ほんと、ごめん。今度埋め合わせするからさ」
一方が、席を立つ。残されたのは「四谷」と呼ばれた客の方だった。
「じゃあ、また連絡するわ」
「分かった」
常連客が立ち去ったことにより、気づけばカウンター席にいるのは、僕と彼の二人だけになっていた。無性に不安に駆られ俯いていると、再び、席を立つ際の物音が聞こえてくる。位置的に、彼だと分かった。
帰る、のかな。
友人が先に帰ったことで、店に留まる意味が失われたのかもしれない。だとしたら僕は、落ち着いて相手を探すことができる。そう、思ったのだが。
席を離れた彼の足音は、遠ざかるのではなく徐々に近づいてきて、僕のすぐ側で止まった。
「すみません。隣、いいですか」
何も考えられず反射的に頷くと、彼が僕の右側に座る。それなりに年齢を重ねてきていてよかった。内心は驚きと戸惑いでぐちゃぐちゃだったが、表にはそれほど出さずに済んだ。
「ひとり?」
「あ……はい」
問われ、短く答えを返す。切れ長の、案外長い睫毛に縁取られた瞳。すっと整った鼻梁。ダークブラウンの髪。とても、懐かしい。
彼は僕に気づいているのだろうか。その表情からは何も読み取ることができなかった。高校以来会っていない同級生のことなんて、よく覚えていないのが普通かもしれない。
「俺も今、ひとりになったので」
「そう、なんですか」
「よかったら、場所を変えて飲みませんか」
四谷の提案に、僕は息を呑んだ。彼が僕を誘う意味が分からず、言葉に詰まる。
「ひとりで飲むのも味気ないしな。もし誰かを待っているのでなければ、ぜひ」
「待っては、いませんが……」
相手は、これから探すつもりだった。視線をさまよわせる僕に、彼が言う。
「じゃあ、いい?」
この強引さには、覚えがある。懐かしくて、恋しくて。きゅうっと胸が締めつけられるのを感じて、僕はまたおかしくなった。
「……僕は、既に大分飲んでしまっているので。これからお酒にお付き合いするのは難しいと思います」
一度だけ。
今夜だけでいい。
「それでもよければ──」
彼はまっすぐ、僕の目を見つめている。口に出してしまえば、もう後戻りはできない。
「今夜、僕と一緒にいてください」
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