I don't like you.

広瀬 晶

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    駅のホームで、桃ちゃんと別れた。明日は土曜日だが仕事が入っている。先週の出社分も含め、年度内に振り替えて休みを取らなければならない。いっそ正月休みにくっつけて十日ほど休んでしまおうか……。休みについて思いを馳せている内に、降りるべき駅に着いた。ICカードをタッチして、改札を出る。
 頬を撫でる風が冷たい。桃ちゃんにもらったプレゼントは、すぐにも活躍することになるだろう。
    自宅マンションに帰り着いた僕は、郵便受けを確認してからエレベーターに乗り込んだ。
    結婚。将来。これからのこと。大人になっても、いや、むしろ大人になったからこそ難しい問題だと思う。
    鍵を開けて部屋に入った途端に、携帯の振動が衣服越しに身体に伝わってきた。靴を脱ぎ、玄関先に鞄を置き、コートのポケットから携帯を取り出す。
──四谷琉聖。
    最近会話していなかったので、妙に緊張してしまう。深呼吸をしてから電話に出た。
「……もしもし」
『若葉』
    二週間振りに聞く彼の声が、僕の名前を紡ぐ。重く、甘く、身体に響く。
『今どこにいんの?』
「え?」
『誰と、どこにいる?』
「ひとりで、自宅にいるけど……」
    平日の夜は、四谷と会う以外で外出することはほとんどない。それは彼も知っているはずだった。
「四谷?」
『……った』
「え?」
『女といるのかと思った』
「女……?」
    他に誰もいない廊下に、自分の声が吸い込まれていく。四谷の考えていることが分からないのはいつものことだが、顔が見えない分、心細さが募る。
『駅で、一緒にいた女は?』
「駅……ああ、桃ちゃんのこと?」
『誰?』
「従姉妹だよ。昔、四谷がうちに来たときに遊びに来てた子」
『……』
「覚えてない?」
    覚えてる、と彼は不機嫌そうに言った。
「四谷、さっき駅にいたの?」
    四谷が何も言わなくなってしまったので、その間に僕はリビングへと移動した。電気をつけ、エアコンの電源を入れる。
「よつ……」
『他のやつと、するのかと思った』
「は?」
『否定、しなかっただろ』
──俺以外の誰かとは、するって意味?
──さあね。
    ああ、あのとき。確かに、否定はしなかったが。
「だからって、するわけないだろ」
    付き合っている相手以外のひとと、関係を持ったりしない。四谷が僕のことをどう思っていようと、僕は四谷以外のひとに抱かれる気はないし、抱く気だってない。言葉にして伝えたことはないかもしれないが。
「……それくらい分かれ、ばか」
    電話でよかった。きっと今僕は、人に見せられない顔をしている。外の空気によって冷やされていた肌が、たちまち熱を持ち始める。僕は冷えきっていた左手を頬に押し当てた。
『そうか』
    困ったように、あるいは焦ったように、四谷が呟く。四谷らしくない声色に、きゅうっと胸が締めつけられるのが分かった。
 もしかしたら四谷は、僕が思うより僕のことが好きなのかもしれない。そう思ったら、顔の火照りがより一層ひどくなった。
「四谷。えっと……何であの駅にいたの?」
『あの辺で私立高校の説明会があったから、参加してきて、その帰り』
    塾の生徒に進路指導を行う関係で、学校説明会にも顔を出したりするらしい。
『他にもその周辺でいくつか用事があったから、ついでに済ませて。帰ろうと思ったら、駅で若葉が女と歩いてた』
    言い方に、刺がある。誤解なのに。
「声をかけてくれれば……」
『電車の時間が迫ってたんだよ。塾の方を村上に任せてたから、遅くなるわけにも行かねえし』
    村上というのは、四谷の塾に勤めている事務の男性のことだろう。何度か話題に上ったことがある。
「まだ、仕事中?」
『一応』
    仕事中に職場を一旦離れて、わざわざ僕に電話する四谷の姿を想像し、僕はふふっと笑った。
『何だよ』
「何でもない」
    今なら、訊けるだろうか。僕は静かに息を吐いた。
「……四谷は?」
『え?』
「四谷は、他のひととその……そういうこと、しない?」
    ずっと知りたかった。以前は複数の女性と関係を持つこともあったという彼が、今はどうなのか。祈るような気持ちで返事を待つ。ほんの少しの間が、異様に長く感じた。
    しない、と彼は言った。
『若葉以外とは、しない』
「本当に……?」
    彼は、小さく溜め息をついた。
『昔はともかく、今はしない。若葉と付き合うことにしたときに、他のやつは全部切った。若葉じゃないと、もう抱きたいと思えない』
    過去のことを思うと正直気分はよくないが、今は自分だけだというその言葉が、胸の奥にほんのりとした温かさをくれる。直接的には身体の話しかしていないのに、間接的に、好きだと言われたような気がした。
『明日、会える?』
「ごめん。仕事……」
   本当は会いたかったが、いつ終わるか分からないのに待たせる気にはなれなかった。
『来週は?』
「大丈夫。多少仕事も落ち着くと思うし」
『じゃあ、時間できたら連絡して』
    分かった、と了承して電話を切る。次に会うときは、ちゃんと四谷に自分の気持ちを伝えよう、と僕は思った。何ひとつ上手く伝えられる自信はないが、それでも。好きだと素直に言えたら、何かが変わるかもしれない。

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