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翌日の仕事は、スムーズに進んだ。クライアントは時間通りに打ち合わせに来てくれたし、こちらの提案をすんなりと受け入れてくれた。当初の予定では大分かつかつだったスケジュールも、それでいくらか余裕ができた。
「なっちゃん、そっち少し手伝おうか」
「え、いいんですか」
「うん。思ったより早く終わったから」
「助かります。じゃあ、これとこれの資料を添付していただけますか」
「了解」
四谷には仕事だと言ってあるし、早々に帰宅したところで時間をもて余すだけのような気がした。同じく休日出勤しているなっちゃんの仕事を、少しだけ減らしてから帰るとしよう。
仕事の手を止めることなく、そういえば、と彼女が言う。
「雪下さん、もうすぐお誕生日でしたよね」
「え? ああ、うん」
「やっぱり、恋人と過ごされるんですか?」
「……そう、かも」
はっきりと約束をしたわけではないので、僕の願望かもしれないが。
「かも、って何ですか」
なっちゃんは笑った。
「雪下さん、彼女に甘そうですね」
僕の相手は、「彼女」ではないが。もちろん、そんなことはなっちゃんには言えない。
「普通だと思うよ」
「恋愛に、『普通』なんてありませんよ」
その何気ない一言が、ふいに僕の胸を打つ。僕が四谷に抱く感情は、普通ではないと思っていた。しかし本当は、ずっと、ごく普通に彼に恋をしてきただけなのかもしれない。
なっちゃんと別れ、会社を出る頃には、辺りは暗くなり始めていた。藍色に色づき出した空が綺麗で、控えめに光を放つ星が綺麗で。僕はふと、四谷に会いたくなった。言いたいことがあるわけでもなく、したいことがあるわけでもななかったが。何をするでもなく、ただ側にいられたらなと思った。
四谷の塾の最寄り駅で下車したのは、ほんの気まぐれだった。四谷が普段降りる駅で降り、彼が以前話していた駅構内のカフェへと入る。休日だが、さほど混んではいない。とりあえずカフェラテを注文し、カウンターで受け取ってから席に着いた。
いろんな人達が、店のすぐ外の通路を通過していく。学校名入りのスポーツバッグを肩から下げている高校生たち。仕事帰りと見られる、スーツ姿のサラリーマン。ゆっくりとした足取りの、年配の女性。四谷が、普段目にしているかもしれない景色。どんなにたくさんのひとがいても、今会いたい相手はたったひとりなのだと思うと胸が苦しくなる。
今から会いに行ったなら、彼はどんな反応を見せるだろう? そんないたずら心が、胸の痛みを和らげる。
僕はその幼い思いつきに従って、カフェを出た後、ファストファッションの店を訪れた。明日着る分の服を一式購入し、値札を切った状態で袋に入れてもらう。これで着る服に困ることはない。要らないかもしれないが、歯ブラシなどの細々した日用品も念のため入手しておいた。もしこの襲撃が失敗したら、今夜は先輩の店で飲み明かすことにしよう。
買い物をした店から、再び駅の方へと戻る。信号の手前で足を止め、僕はそっと睫毛を伏せた。完全アポなし訪問というのはこれまでに経験がない。電話の一本くらい入れておくべきだろうか? いや、しかしそれだとサプライズにならない。
信号が青へと切り替わり、人の波が前へ前へと動き出す。悩みを一旦胸にしまい、焦点を前方へと合わせたとき、僕は一瞬自分の目を疑った。
視線の先にいるのは、今日はここにはいないはずの男だった。多少距離はあったが、それが彼だということはすぐに判った。こんな、遠目に見た横顔で四谷だと判るだなんて、僕も大概どうかしている。
「なっちゃん、そっち少し手伝おうか」
「え、いいんですか」
「うん。思ったより早く終わったから」
「助かります。じゃあ、これとこれの資料を添付していただけますか」
「了解」
四谷には仕事だと言ってあるし、早々に帰宅したところで時間をもて余すだけのような気がした。同じく休日出勤しているなっちゃんの仕事を、少しだけ減らしてから帰るとしよう。
仕事の手を止めることなく、そういえば、と彼女が言う。
「雪下さん、もうすぐお誕生日でしたよね」
「え? ああ、うん」
「やっぱり、恋人と過ごされるんですか?」
「……そう、かも」
はっきりと約束をしたわけではないので、僕の願望かもしれないが。
「かも、って何ですか」
なっちゃんは笑った。
「雪下さん、彼女に甘そうですね」
僕の相手は、「彼女」ではないが。もちろん、そんなことはなっちゃんには言えない。
「普通だと思うよ」
「恋愛に、『普通』なんてありませんよ」
その何気ない一言が、ふいに僕の胸を打つ。僕が四谷に抱く感情は、普通ではないと思っていた。しかし本当は、ずっと、ごく普通に彼に恋をしてきただけなのかもしれない。
なっちゃんと別れ、会社を出る頃には、辺りは暗くなり始めていた。藍色に色づき出した空が綺麗で、控えめに光を放つ星が綺麗で。僕はふと、四谷に会いたくなった。言いたいことがあるわけでもなく、したいことがあるわけでもななかったが。何をするでもなく、ただ側にいられたらなと思った。
四谷の塾の最寄り駅で下車したのは、ほんの気まぐれだった。四谷が普段降りる駅で降り、彼が以前話していた駅構内のカフェへと入る。休日だが、さほど混んではいない。とりあえずカフェラテを注文し、カウンターで受け取ってから席に着いた。
いろんな人達が、店のすぐ外の通路を通過していく。学校名入りのスポーツバッグを肩から下げている高校生たち。仕事帰りと見られる、スーツ姿のサラリーマン。ゆっくりとした足取りの、年配の女性。四谷が、普段目にしているかもしれない景色。どんなにたくさんのひとがいても、今会いたい相手はたったひとりなのだと思うと胸が苦しくなる。
今から会いに行ったなら、彼はどんな反応を見せるだろう? そんないたずら心が、胸の痛みを和らげる。
僕はその幼い思いつきに従って、カフェを出た後、ファストファッションの店を訪れた。明日着る分の服を一式購入し、値札を切った状態で袋に入れてもらう。これで着る服に困ることはない。要らないかもしれないが、歯ブラシなどの細々した日用品も念のため入手しておいた。もしこの襲撃が失敗したら、今夜は先輩の店で飲み明かすことにしよう。
買い物をした店から、再び駅の方へと戻る。信号の手前で足を止め、僕はそっと睫毛を伏せた。完全アポなし訪問というのはこれまでに経験がない。電話の一本くらい入れておくべきだろうか? いや、しかしそれだとサプライズにならない。
信号が青へと切り替わり、人の波が前へ前へと動き出す。悩みを一旦胸にしまい、焦点を前方へと合わせたとき、僕は一瞬自分の目を疑った。
視線の先にいるのは、今日はここにはいないはずの男だった。多少距離はあったが、それが彼だということはすぐに判った。こんな、遠目に見た横顔で四谷だと判るだなんて、僕も大概どうかしている。
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