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〈前編〉
6.嫌な予感というものは当たるもの
しおりを挟む「──」
信じていたものが根元から瓦解していく。
深く、暗い穴が私を引きずり込んでいく。
「赤毛の女の気性が荒い、っていうのは本当だね。思い込みが激しく、猪突猛進だ。僕はいつ、彼女に噛みつかれるか不安でならないよ」
「あら。だから、癒しを求めているのね?」
「そうだね。自然、あなたのようなブルネットの女性に惹かれてしまう。彼女の髪は──あまりに明るすぎて。疲れてしまう」
彼らの会話が、耳を通り過ぎていく。
キングスリーの象徴である、太陽と同じ、赤の髪。
『赤毛の女は、気性が荒い』
確かに、どこかで聞いた言葉ね。
(だけどまさか。あなたが。よりによって、私の婚約者である彼がそれを言うなんて、ね)
いつの間にかふたりはバルコニーの奥に消えてしまった。その先は、休憩室だ。
それの意味するところを知って、私は、自嘲した。
ついで、浮かんでくる感情は。
「……許せない」
とても、シンプルなものだった。
私を蔑ろにするのは──まだいい。
いや、嫌だけど、それ以上に。
それ以上に悔しかったのは、キングスリーの誇りを汚されたこと。
キングスリーの人間はみな、赤毛だ。
私が、マシューと婚約さえしなければ、彼はキングスリーを貶すようなことは言わなかったはず。言えなかったはず。
それなのに──。
それを、許してしまったのは。
「さいってい」
──私だ。
私の、せいだ。
私に、責任がある。
悔しさのあまり、涙が滲む。
彼の上辺の言葉に、見せかけの優しさに、逆上せあがった。盲目な恋に落ちた。
パメラのことがあり、ついバルコニーまで来てしまったけど。
それを、私の咎と言わず、なんと言おう?
「……酷い。最低。馬鹿。愚か。あまりにも頭が悪い」
それは、マシューに向けて言ったもの──ではなく、私個人への言葉だった。
私はこの時、初めて、強い後悔を覚えた。
(ちゃんと終わらせるなければ)
それには、正式な手順を踏む必要がある。
全て、終わらせる。
キングスリーの名は、マシューが傷つけられるほど軽いものではない。
あなた如きに、軽んじられるものではない。
それは、先祖代々、我が家が守り、慈しんできた家名。
それを、私のせいで貶められてしまった。
私には、責任がある。
この愚かな初恋の始末をつける、責任が。
ここで休憩室に飛び込んで騒ぎを起こす手もあるにはある。だけどそうすれば必然、それは、さらにキングスリーの名に泥を塗ることになるだろう。
私の身勝手な行動で、キングスリーの名を汚すことは出来ない。
……今更の話ではあるけれど。
私は大きく息を吐いた。
衝動を逃がすように。
この気持ちを、決して忘れないように。
(まずは、お父様に相談して……書類を用意していただかないと。お母様にも話す必要があるわ)
私は、まつ毛を伏せた。
そして、踵を返そうとした時。
ちょうど、後ろから誰かが来たのだろう。
ドンッ!と強く、私は鼻を殴打した。
それと同時に、ベチャ、という何か嫌な音も聞こえてきた。
「──」
比喩表現なしに、目の前に星が舞った。
間違いない。
今、私、絶対鼻の骨を殴打したわ……!
痛みのあまり呻きながら、私は顔を上げた。
そして、戸惑う。
そこには──
(……どなた?)
見覚えのない男性──でいいの、かしら?
一瞬、どちらか迷ったが、喉仏があるので男性だ。
ただ、見覚えがない。
本日の夜会は、隣国の使節団も参加しているので、その中の誰かだろうか。
中性的な雰囲気の彼は、とんでもなく焦っているようだった。
そして、その手にはソースがたっぷりかかった、サンドイッチが。
(……つまり?)
先程、ベチャって聞こえた音の発生源は──。
チクタクチクタク。
チーン!!
「──っ」
頭の中で、軽快な音がする。
私は、すぐさま音の発生源を推測した。
(さっき、ベチャって言ったのって!!)
バッと視線を下ろす。
そして私は自分のドレスを見下ろして絶句した。
(きゃあああ!!白のドレスにソースが!!ソースが……!!)
そこには、赤と、橙色が円を描くようにして胸元を彩っていた。
十中八九、先程ぶつかった時についたのだろう。
彼が持つ、サンドイッチのソース。それも恐らく、ケチャップとマスタード。
「っ──」
思わず、悲鳴をあげそうになった時。
目の前の男性によって、口を塞がれた。
「んっ……んんん!?」
「申し訳ない、ご令嬢!謝罪は後ほど──」
彼がまくし立てるようにそういった時。
背後から、カツン、カツン、と靴音が聞こえてきた。
音からして、恐らく女性。
それを聞いて、私の口元を抑えている彼の手が強ばった。
彼の緑色の瞳が一瞬躊躇いに揺れ、だけどすぐに彼は決断したように言った。
「……よし!仕方ない。緊急事態だ。このままだとあなたも大変な騒動に巻き込まれる。それは避けたい。僕も避けたい。つまりこうするのが最善だ!」
「え?あっ、ちょっ」
私が返答する間もなく、そのまま手首を引っ張られた。彼が向かう方向は──バルコニーの置く。
そして、その先の……
(休憩室!?)
彼は、廊下に出るとその一室の扉を開き、転がり込むように中に入った。
手首は変わらず掴まれているので、私も同様に。
「え!?ちょっ……」
「静かに。余計な騒動に巻き込まれたくはないでしょう」
鋭く彼に言われ、私は息を呑む。
私は、この時になってようやく、見知らぬ男性と休憩室に転がり込んでしまった事実に気がついた。
(どっ……どうしましょう……!?)
ザッと血の気が引く。
今からでもこのひとを蹴り飛ばしてここから出るべきだろうか。
いや、そんなことしたら騒ぎになってしまう?
それに彼、追われているようだわ──と、思ったその時。
先程の靴音が、バルコニーを超えて廊下に入ってきた。
「ノア様!?どちらにいらっしゃるの!!ここにいることはわかっていますのよ!!」
女性の、劈くような声が響き渡る。
この声はおそらく、休憩室中に響いているに違いない。
マシューと例の女性にも聞こえていることだろう。
およそ、休憩室で発するには相応しくない大声だった。
「ふぅん。そう。そちらがその気なら……私も」
女性の不穏な声が、扉越しに聞こえる。
思わず、状況も忘れて息を呑む。
ひとまず、今声をあげるのはやめるべきだということは理解した。
そして、女性は、どこかの扉のドアノブを掴むと、ガチャガチャとそれを回しだした。
「開けて!!開けなさい!!こちらにいるのでしょう!?」
「うわ!?」
「きゃああ!!」
突然、扉のドアノブが激しく回されたのだ。
愛を語らっていたと思われる彼らは、相当驚いたことだろう。
かくいう、私も動揺している。
ちら、と隣の彼を見れば──そのひとは、扉に背をつけ、背後の、つまり廊下の気配を窺っているようたった。
状況からして、彼は扉の向こうの女性に追いかけ回されているようだけど……。
(一体、彼女とこのひとって、どういう関係なの……?)
追いかけるにしても、休憩室に逃げ込んだ男性を探して扉を激しく叩くのは異常だ。
隣の彼は息を呑んで状況を見守っていたようだが、次々に女性は扉を殴打していく。
そしてついに──
「誰あなた!!憲兵は何をしているの!?」
「誰でもいいでしょう!あなたに用はないわよ!……あら?あなた」
「レイラ!放っておけって言っただろ……!」
「だってマシュー、こんなの常識外れよ!」
痺れを切らして出てきたのは、なんと、私の婚約者と──先程愛を語らっていた女性のようだった。
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