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しおりを挟むこんな山奥にも、電波というのは届いているもんだなと妙なところに感心しながら、阿賀野は昨日よりもひどい山道を車で進んでいた。
結局のところ、昨日で契約を結ぶことは出来なかった。
直販所の食堂で昼食を終えた後、責任者である松前とはすぐに会えた。食堂の店主と同じように怪訝な顔をされはしたものの、副島から紹介されるとすぐに愛想よく名刺を渡してくれた。
「郁ちゃん……副島さんからお話は聞いてるよ。はあ、真柴ファームの件ね」
「ええ、副島からも説明があったかと思いますが、当社は都内を中心に飲食店を展開しております。今度、新規に野菜を中心にしたバル…バーを手がける予定でして」
「ああ、その辺も聞いてる。ただねえ…すごい人嫌いなんだわ。うちに野菜卸してるが、卸すときも極力人に合わないように、深夜に搬入してるくらいだ。家を教えてもいいけど、会わないと思うよ」
「お宅だけでも教えていただければ、後はこちらでどうにか交渉の席についていただけるよう、尽力いたしますので」
「尽力ねえ……そう簡単にはいかないと思うが、まあ頑張ってくれや」
遠いから気を付けてと松前が教えてくれた道は簡単なものだったが、すぐに陽が暮れるうえ、ガードレールもない山道には灯りがないから危険だと言われ、結局車で三十分以上かかる隣町まで戻り、そこで宿をとった。
予定外の外泊となってしまったものの、翌日は契約を結んでさっさと帰ろうと朝早く出て、今に至る。
松前から聞いた通りに車を走らせているが、もはや地面はアスファルトなどではない。道幅こそあるものの通行人も対向車も見当たらず、聞いていた通り、ガードレールもない。うっかりしてしまうと、谷底へ落ちてしまいかねなかった。
しばらく走り、教えられていた分かれ道を右に曲がると、やがて民家が見えてくる。
道を挟んで左右に広い畑があり、畑の向こうの行き止まりに古民家と、小さな小屋があった。
「ここ…でしょうか」
これ以上に行く道もないようで、畑の合間のあぜ道を進み、家の前に停められた軽自動車の隣に横付けする。家に人の気配はなく、とりあえずインターホンを押すも反応がない。
が、ふと覚えのある匂いがふわりと薫り、そこへ視線を向けると、家から少し離して建てられた小屋の金網状になった出入口から、青年が出てくるところだった。
がっしりした肢体を汚れたシャツと作業ズボンに包み足元は真っ黒なゴム長靴という出で立ちは、直販所にいた松前や村の中で見た農作業に従事する人々と一緒だったが、おそらくはベータであろう彼らとは全く違うように、阿賀野には見えた。
シャツを下から膨らませる分厚い胸筋や、普段からジムに通っている阿賀野と遜色ないどころか、実用性のある筋肉がついた太い腕。腰回りはしっかりとした筋肉がついているものの、硬そうな尻からすんなりと伸びた脚はそれほど太いわけではなく、けれど引き締まった良い造詣をしている。けれど、まるでアスリートのような派手な作りをした体に乗った顔は、素朴そのものだった。
突然の来客に驚いているのか少しばかり見開かれた目はまるで子どものような丸さで、短く切られて眉が見える髪型のせいで大分若く見えるが、実年齢まではわからない。けれど、驚きのあとに浮かんだのは明らかな怯えの表情で、尚更子どものように見えた。
しかし、体格や顔かたちよりも明確に阿賀野に伝わったのは、匂いだ。
あの、鼻腔を満たして脳を直接揺さぶり、本能を包み込む理性をどろどろに溶解させて、人間を動物にする匂い。
そして、阿賀野には尚更強く反応する匂いだ。
アルファの中でも上位にいる存在として負けたくないという競争心と、自分ならば出会える確率の極めて低い運命のつがいでも出会えるだろうという自信から、他のオメガとはつがい契約を結ばずに遊びだけで済ましてきた阿賀野だが、それでもビジネスライクな事だけを考えてきたわけでもない。
もし女性ならばおしとやかなお嬢様よりも、きびきびとしたキャリアウーマンや働き者がいいという希望があったし、男性ならばむしろ男社会でもまれるよりも、家にいて欲しい。容貌は良いに越したことはないし、オメガはだいたいがアルファよりも小柄なので、女性ならば自分の肩ぐらい、男性でも耳の高さくらいまでがいいと、それなりに夢を持っていた。
けれどそれも今は吹き飛んでいる。やっと見つけたオメガは男で、キャリアウーマンでもなければ大人しく家で在宅の仕事をしているような職種でもない。それに、今は発情期ではないのか、タグについていた発情期特有の性欲を刺激するための濃い匂いではなかったが、それでも今すぐに組み伏せてうなじを噛み、自分の所有であるという証を彼の肌に刻まなければと、それがまるで自然の事のように考えていた。
「……社長」
発情期の匂いではないものの、それにしても強い匂いに当てられて思わずぼうっとしていた阿賀野だったが、小さく抑えた須藤の声にはっと肩を揺らした。気付けば、じんじんと痺れを感じるほど強く手を握りしめていた。
一瞬で脳裏に、山奥までやってきた理由を思い出す。今日は仕事の契約を締結するだけでなく、運命のつがいとして迎えるための、最初の日だ。何事にしても一流のアルファである自分を見せつけなければならない。呆然自失で立ち尽くすなど、あってはいけないのだ。
「真柴要さんですか? 押しかけてしまって申し訳ない。初めまして、阿賀野徳磨と申しま…」
「帰ってください!」
「えっ」
まずはスマートに挨拶をし、名刺など渡しながら相手に近寄ろうとした阿賀野だったが、ガシャンという耳障りな音共に耳に届いた声に、自分でも思わぬほど間抜けな声をあげた。
言われた言葉は理解出来ず、渡すつもりで胸元にしまっていた名刺ケースから取り出した名刺を差し出しかけたまま、阿賀野は金網の扉を閉めて、奥へ奥へと後ずさろうとしている青年を見た。
「ええと……あの、真柴さん」
「帰ってください! 今すぐ、帰ってください!」
ガサガサという草が擦れるような音と、小屋の中にいるらしい鶏が騒いでバサバサと動き回りながらコケーッとけたたましく鳴く声、工具でも倒したのがガタンという大きな音を立てながら、おそらく真柴であろう青年は悲鳴のような声をあげていた。
「いえ、あの、真柴さん。今日私たちが来たのはぜひとも契約を」
「ひっ」
生まれてこの方、近寄っただけで悲鳴をあげられたことなど一度もない。小さいながらも確実に耳に届いた詰まった声に、阿賀野は自らの自尊心に大きな亀裂が走ったのを感じた。
渡す相手が逃げてしまったため、行き場を失った名刺を差し出した姿勢のまま、それでもじりじりと近寄ろうとしたが、小屋の中では鶏が更に騒ぎ立て、いやだああと情けない声まであがる。一体なぜ、と口を開きかけたが、後ろから伸びてきた手に押しやられて、阿賀野はようやくはっと我に返った。
「社長、逆効果よ。人嫌いなのよ、そんなんじゃ嫌がる。ちょっと退いて。……真柴さん。今日は突然押しかけて申し訳ありませんでした。日を改めて…また明日、今度はこちらにいる副島に一人で伺わせます。その時にまた、詳しいお話をさせていただけませんか?」
ぐいと後ろに追いやられて咄嗟に、俺のオメガになる相手なのにと声に出しそうになって慌てた阿賀野が自分の口を思わず押えている間に、須藤が落ち着いた声をかけると、帰ってくださいと言う懇願は静かになり、代わりにコケッと鶏がまた鳴いた。
「名刺などはこちらに置いておきますので、もしなにかあればご連絡ください」
まだ手に持っていた名刺を奪われ、その上に更に副島と須藤の名刺が重ねられる。それをそっと地面に置いて、須藤がくるりと振り返った。
「さあ帰りましょう。長居しては失礼ですよ、社長。さあさあ」
「あっ、こら、俺はまだ彼と話をしてな」
「帰りますよ」
さあさあと有無を言わさず手のひらで追いやられて、更に副島もさっさと車のドアを開けてしまう。あっという間に後部座席に押し込められた阿賀野は、須藤の肩越しに見える小屋の中の人影に届けと、大きく息を吸い込んだ。
「真柴さん! あなただってわかったはずだ、俺はあなたのうんめ」
「失礼します。車出して、副島」
「はいっ」
最後まで言わせてなるものかとばかりにぐいと奥へ押し込められ、横に須藤が乗り込むや否や、副島がぎゅんとアクセルを踏む。あっと言う間に畑の合間を走り抜けて飛ばしたせいで、尻が痛くなるほどに揺れる車内で舌を噛まないように口をつぐんでいる間に、山道を抜けた先にぽつんと建っていた古民家は遠くなってしまった。
阿賀野は子どものように後部座席から身を乗り出して、遠ざかっていく古民家を眺めていたが、須藤は説教モードの空気を隠しもせず腕を組み、あのね、と低い声を出した。
「真柴さんは怯えてる。ただでさえ人嫌いなんだから、社長みたいに、俺はアルファだって匂いプンプン撒き散らしてるような男に寄ってほしいわけないでしょ。それに、一応名目上は契約締結のための挨拶なのよ。運命だなんだは、後にするべきよ」
「そうは言っても、彼は俺の運命で間違いない。ピンと来たんだ。多分、タグの匂いについてたのは発情期の時の匂いだったんだ。だから俺だって引きずられた。でも今日は抑制剤も飲んだ」
「ねえ、話聞いてる? 私は、運命だなんだは二の次にしろって言ってんのよ」
いらつきを隠さずに須藤が組ん右手の指先で腕をたんたんと叩くが、阿賀野も苛立ちはあった。
「仕事の契約が大切なことなんてのは当たり前だ。けど、彼が目の前にいたんだ。もし俺がつがいに出来なかったらどうする? 考えただけで気が狂いそうだ」
今まで恋人がいなかったわけではない。アルファもベータもオメガも抱いてきたし、男も女も関係なかった。けれどそれほど執着を持ったことはなく、いつか運命のつがいに出会うまでの繋ぎとしか考えていなかった。可愛がってはいたものの愛情はなかったし、相手が浮気をしようが別れ話を突きつけられようが、まったく気に留めなかった。おそらく情愛に関して、自分は淡白なたちなのだろうと、阿賀野は自分を客観的に推論していた。
けれど、いざ見つけてみたら、淡白などとんでもなかった。
すぐにでも抱いてしまいたいし、自分のものである証を付けなければならない。それが出来ない今はどこか焦燥感さえ感じていて、肌がひりひりするような感情の高ぶりが抑えられなかった。
「須藤、俺は彼をつがいにする。もちろん、契約も必ず取る。絶対だ」
生まれも育ちも輝かしい中をずっと歩き続けてきた。その中に、挫折などあってはならない。
ぐっと拳を握りしめた上司を見て、須藤は隠しもせずに深々とため息を吐いた。
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