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巣ごもりオメガと運命の騎妃
40.サリム-1
しおりを挟むじっとりと嫌な汗をかいたうなじに髪が張り付く。気持ち悪い。それでもサリムは、髪の一筋すらどかすことができなかった。
「おい、そっちはどうだ」
「いない」
「くそ、あのオメガ……!」
ガサガサと草を分ける音と怒声が森中に響く。緊張に体がこわばったが、幸いにも足音は少しずつ遠のいているように感じた。
(大丈夫、見つからない。見つからない……)
自分に言い聞かせるように、祈りを捧げるように、ぐっと身を縮めてひたすら沈黙を守る。
男たちの声が聞こえなくなるまで、どれくらいそうしていたのだろう。背後にいた一人のうめき声にはっとして顔をあげたサリムは、あわてて周囲を見渡した。
サリムたちオメガをさらった男たちの姿は見えない。拾い上げた石を投げてわざと木に当て、コンと高い音を立ててみたが、やはり反応はなかった。
(行った……?)
そっと伸びあがってもう一度遠くを見たサリムは、誰もいないとわかるとすぐに振り返った。
「……痛みますか」
「はい……」
草むらの中に倒れこんでいるのは、二人のオメガだ。どちらも怪我をしていて、傷を抑える手は真っ赤に染まっていた。
国交のためにとミシュアルを先に逃がしたあと、山越えは困難を極めた。
馬が二頭いなくなったことで、四人いた人さらいのうちの二人はオメガたちと共に荷車に乗ることになったのだ。しかし重みが増え、悪路を走ったせいもあって荷車が軋みはじめたのは、ミシュアルと別れて少し経ったころだった。
このままでは遅かれ早かれ壊れると思ったのもつかの間、石にでも車輪を取られたのか、荷車は大きく跳ねて傾ぎ、そのまま横転した。
何かあればとすでに手のひらにナイフを握りこんでいたサリムも荷車から投げ出されたものの草がクッションになり、特に怪我はなかった。ナイフも取り落とさなかったため、この隙にと切って落としたところで、他に投げ出されたオメガたちと一緒に集められた。
結構な事故ではあったが、幸いにも死人は出ていない。
しかし、この事故が大きな引き金になってしまった。
「儲けが減るのは惜しいが、仕方ねえ。生かしておいても面倒だ」
横転した荷車から放り出された二人が怪我を負い、荷車も一部が壊れた。さっきと同じ重量では車輪が耐えられないかもしれないと、男たちは怪我をした二人に刃を向けたのだ。
とっさに数名が動き、乱闘になった。相手がアルファではなくベータで、さらに人数もこちらの方が勝っていることが幸いだった。
相手の剣を奪ったサリムが他のオメガと共に応戦している間に怪我をした二人は逃げ、それを男たちが追いかけようとするものだから、とっさにサリムは残っていた馬の尻を叩いた。すると一頭が駆けだし、その様子を見ていた他のオメガもサリムに倣って、残りの一頭の尻を叩いた。
唯一の移動手段である馬が駆けだしたことで男たちはあわてふためき、追いかけているうちにサリムたちは反対方向へ逃げ出した。
馬もいなければ、現在地もわからない。それでも男たちの気分や考え方次第で、自分の命が簡単に左右されることよりは良い気がした。
けれど実際、どう動けば最善だったのかなど、ことが起こってからでなければわからない。
今も、男たちがいなくなったところで問題がすべて解決したわけではない。怪我にうめく二人と、不安そうにしている六人の視線がサリムに縋りついてくる。
(どうにかしなければ……)
まずは現在の方角を知ることと、水の確保、それから怪我人の治療。他にもやらなければならないことがある。それなのに、
「……っ」
サリム自身の体調の悪さも治っていない。そのせいで男たちから辛うじて与えられていた乾いたパンも完食できず、空腹に足元もふらつきがちだ。
いまも思わず声を出しそうになって、ぐっとあがってきたものを必死で食い止める。吐くものなどないはずだし、あるならそれはそれでもったいない。ここから先、食料を確保することも難しいのだから。
それでも願いは届かず、とっさに口を覆ったサリムは、そのままくず折れた。
「だっ……大丈夫ですか、あの、あのっ……」
オメガの少女が泣きそうな声でサリムの背を撫でてくれる。その手の感触はまったく違うはずなのに、サリムが思い描く限り一番自分に優しく触れてくれた男が脳裏をよぎって、視界がじわりと歪んだ。
(ハイダル様……)
彼がいれば、こんな窮地でもきっと救ってくれただろう。
寄る辺ない生き方をしてきたサリムにとってハイダルは、世界を変えてくれた人だった。
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