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1巻

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「ドロシー、どうしたんだ? なぜ、そんなに悲しそうな顔をしているんだ」

 この優しく甘い声は、わたくしの婚約者のケネス様のものです。しかしわたくしはこんな風に優しく話しかけて頂いた事はありません。ケネス様が優しそうに話しかけるのは、妹のドロシーです。わたくしとケネス様の結婚まであと一週間という今日、婚約者と妹が抱き合う場面に遭遇してしまいました。
 二人はわたくしが発したわずかな音に気が付いていません。誰も見ていないと思っているのでしょう。大好きな婚約者のケネス様が、妹のドロシーを力強く抱きしめています。三年間も婚約者だったのに、わたくしは、一度たりともケネス様に抱きしめられた事がありません。なんだかとても、むなしい気持ちです。
 思わず身を隠して様子をうかがうと、ケネス様がドロシーをあやすように優しく微笑んでおられました。先程結婚式を楽しみにしていると笑っておられた顔を見たからこそ、わたくしに向けた言葉は偽りだったのだと分かります。ケネス様と過ごした日々を思い出しましたが、こんな風に優しく声を掛けて頂いた記憶は、一度もありません。ケネス様にお渡ししようと思っていた刺繍入りのハンカチが、静かに床に落ちました。
 ドロシーは、ハンカチで顔を隠して泣き声を上げています。だけど、あれは嘘泣きです。
 両親に甘える時、わたくしに責任を押し付ける時、妹のドロシーはいつも泣くのです。妹は、泣けば自分の思い通りになるとこれまでの人生で学習してしまいました。両親がドロシーだけを可愛がり、無遠慮に甘やかすからです。わたくしは姉として妹を正そうと何度も注意しましたが、無理でした。どれだけわたくしが注意してもドロシーが嘘泣きをすれば、両親がわたくしを責めるのですもの。
 そのうちドロシーは姉のわたくしをさげすむようになりました。挙句あげく、勝手にわたくしの部屋に入って物を奪っていくようになったのです。最初は注意していましたが、ドロシーが嘘泣きをするとすぐに父に殴られるので諦めました。
 今では、アクセサリーやドレスはられる前提で購入しています。必要な時に使用できればあとはドロシーにられても構いません。お友達からのプレゼントや、ケネス様からの大切な贈り物は、似た物や同じ物を用意し、ドロシーの目を誤魔化していました。
 いつもの事ですし、自衛していたので慣れっこだったのですが、まさか婚約者まで奪われるとは思いませんでした。信じられませんけど、これは現実なのですよね。ドロシーは、両親に強請ねだる時と同じようにハンカチで顔を隠し、悲しそうにケネス様に抱きつきました

「お姉様に、大事にしていた髪飾りをられてしまいましたの。結婚祝いに渡せと言われました。仕方ありませんわよね。お姉様はリンゼイ家に嫁ぐ大事なお方なのですから……」

 そう言ってハンカチでまぶたを押さえる妹は、何も知らないケネス様からすれば、庇護欲を刺激するのでしょう。けれど本当は、ドロシーがわたくしの髪飾りを持って行ったのですよ。髪飾りだけじゃない、ドレスも、アクセサリーも、これから他の家に嫁ぐお姉様には不要なものだと、ほとんど自分の物にしてしまったじゃありませんか。両親からのアクセサリーやドレスは、まだこの家にいる自分のものだというのが妹の言い分ですが、そもそもわたくしは一度も両親から物を貰った事はありません。わたくしの持ち物は、頂き物を除けば全てお義母かあ様と運営した商会で稼いだお金で買った物です。
 もっとも、両親がわたくしに何かを贈るなんてありえませんけどね。自分たちの贅沢と、ドロシーを可愛がる事にしかお金を使わず、領地に使うお金にも手を出そうとする両親には嫌悪感しかありませんもの。家族で信用出来るのは弟だけです。
 実の家族のほぼ全員と不仲だったからこそ、嫁ぎ先には期待しておりました。ケネス様がわたくしに暴力を振るうのはわたくしが生意気な口をきいた時だけです。普段は、優しい方でした。ですが、今目の前に広がる光景を見る限り、ケネス様が優しいと思っていたのはわたくしの勘違いだったようですね。お義母かあ様もたまに平手打ちをしますけど、力も弱いし、そこまで痛くありません。最近は、とてもお優しいです。弟は、ケネス様がわたくしに暴力を振るう事は知りません。だって、大事な弟に心配をかけたくありませんもの。弟のポールはとても優しい子なので、わたくしが暴力を振るわれていると知れば、悲しむし怒るでしょう。父がわたくしを殴った時も、何度も父に抗議しようとしてくれましたもの。けど、父の不興を買うと、ポールが家でわたくしのように冷遇されてしまいます。だから、いつもポールをなだめていました。貴族は傲慢な人が多いのですから、わたくしの境遇もそこまで酷いとは思いません。ポールのように、鍛錬を欠かさないにもかかわらず家族にも使用人にも丁寧に言い含める貴族のほうがまれなのです。父の友人達も社交の場では紳士ですけれど、陰で使用人を恫喝どうかつしておりますもの。
 ケネス様と結婚すれば、優しいお義母かあ様と暮らせますし、理由のない暴力に怯える事はなくなります。わたくしは、結婚する日をとても楽しみにしておりました。
 だけど、一週間後に夫になるはずだった大好きな人は妹とむつみ合っておられます。
 ケネス様は、ドロシーを抱きしめてわたくしの悪口を叫びました。

「ああ! 可哀想に! エリザベスはなんて酷い女なんだ! 泣かないでドロシー。僕が最高品質の髪飾りをプレゼントするよ!」
「ありがとうございます。ケネス様」

 ドロシーが可愛らしい笑みを浮かべます。
 ケネス様も、ドロシーを信じるのですね。また同じ事が繰り返されるのですね。心がスゥっと冷えていきました。

「楽しみにしていてくれ。明日には持って来るよ。あの悪女は、明日は母上と会うと言っていた。だからいつもの秘密の場所で会おう。結婚式が憂鬱で仕方ないよ。エリザベスがあんな悪女だと知っていたら婚約なんてしなかったのに……。僕は、ドロシーと結婚したかった。でも、母がエリザベスを気に入っていてね。家同士の婚約なのだから、ドロシーでも良いじゃないかと何度も言ったのだけど、母は許さなかった。だから、僕が意地悪なエリザベスをドロシーから引き離すよ。結婚はするけど、あんな女愛するものか。寝室は別だ! 三年で子が出来なければ、エリザベスの有責で離縁できる。母はエリザベスを気に入っているけど、子が出来ないなら諦めるだろう。そしたら、ドロシー……僕と結婚してくれるかい?」

 自分の耳を疑いました。
 この人は何をおっしゃっているのでしょうか? 百年の恋も冷める一言です。
 わたくしの貴重な三年間を無駄にこの浮気男に捧げろというのですね。自分勝手過ぎます。怒りが湧いてきましたわ。こんな男と結婚するのは絶対に嫌です。
 わたくしは現在十八歳、妹は十五歳です。妹は今年この国で結婚が許される年になったばかりですから、三年くらいはなんとかなりますけど、わたくしは三年後に二十一歳になります。平民ならまだしも、わたくしは男爵令嬢。結婚相手を探すのは難しいですわ。二十歳を超えてしまえば、結婚出来る相手は絞られます。しかも、子が出来ないと濡れ衣を着せられてしまえば、まともな婚姻は望めません。
 お義母かあ様はケネス様が生まれるまでの十年間、子爵夫人として立派に生きておられましたし、今も女子爵として辣腕らつわんを振るっておられますが、それはお義母かあ様に領地経営の才覚があり、かつ、今は亡き先代子爵がお義母かあ様を認めていたからです。夫となるケネス様があのような事を言っている以上、わたくしはお義母かあ様のように生きられません。このままでは、三年後に離縁されます。そうなれば、修道院に行くか、年上貴族の後妻になるか、平民として暮らす未来しかありませんね。
 わたくしは商会を運営しておりましたから平民の方との交流もありますし、平民になる方が良いかもしれませんね。がんじがらめの貴族と違って、平民の方は自由で輝いておられますもの。才能豊かな方も多いですし、貴族のように結婚が全てではありません。年齢なんて気にせずに好きな人と添い遂げておられますし、子どもは授かりもので子が産まれないから離縁されるなんて滅多に聞きません。一夫一妻ですから、仲良く過ごしているご夫婦も多いです。子が産まれないと跡取り問題などが発生するため、一夫多妻の貴族社会とは別世界のようですわね。
 とはいえ、我が国で第二夫人を持つことが許されるのは伯爵家の当主からです。我が家も一夫一妻ですもの。子爵、それも嫡男とはいえいまだ当主ではないケネス様には使えない権利です。……使えなくて本当に良かったですわ。
 そう考えると、貴族より平民の方が良いかもしれません。いっそ、今すぐ平民になりましょうか。ケネス様は大好きな妹と結婚出来て嬉しいでしょうし、両親も賛成するでしょう。
 いえ、お世話になったリンゼイ家のお義母かあ様に不義理はしたくありません。嫁入り教育と称して商売のやり方を教えて下さったお義母かあ様はわたくしの恩人です。たくさん苦労をしましたし、散々叱られもしましたが、多くの利益を出す事が出来るようになるまで、根気強く我が家との取引を続けてくださったのです。そのご恩に報いず、お詫びもお別れの挨拶もしないまま、黙って平民になるのは絶対に駄目です。
 それに、ドロシーの思い通りになるのはなんだか悔しいです。ドロシーに大切なものを取られたのは何回目でしょうか。まさか、婚約者まで取られるとは思いませんでした。ケネス様の腕の中で、ドロシーが甘く囁きます。

「ケネス様、わたくしも、ケネス様をお慕いしております。でも、わたくしも貴族の娘。三年もお待ちできませんわ。父も、姉が嫁げばわたくしの番だと婚約者を選定しておりますもの。どうか、姉とお幸せに。わたくしは、ケネス様との思い出をかてに貴族として強く生きますわ」

 ドロシーの嘘つき。あなたが私から奪ったものを大切にしたことも、貴族として何かを我慢したことも、一度だってないじゃないですか。
 わたくし達の弟であるポールが生まれる前、わたくしは跡取りだから甘えてはいけないと、両親に可愛がられる事はありませんでした。その横で、ドロシーはいずれ家を出るのだからと甘やかされていましたわ。そしてポールが生まれた途端、ドロシーの扱いは変わらないまま、わたくしだけ簡単に切り捨てられたのです。
 その後、少女時代の楽しみを全て投げ捨てて、両親が面倒がってやらない領地の仕事を代行したのも、弟を育てたのも、わたくしと使用人達です。両親は、まるで男児を生みさえすれば勝手に育つとでも思っているかのように、ポールの教育には一切興味を持ちませんでした。危機感を覚えたわたくしは、幼い弟に様々な事を教え込みました。努力の甲斐あり、今年で十歳となったポールは、幼いながらに文武に秀で、両親にもドロシーにも可愛がられるほどの人あしらいの上手さを身につけています。弟の成長と、それをわたくしの成果だといたわってくれる使用人達だけが、わたくしの支えでした。
 ふわふわの金髪で可愛らしい顔だけを武器に、礼儀がなっていないことも、言葉遣いが粗雑であることも、マナーをろくに覚えていないことも誤魔化してきたドロシーにだけは、『貴族として』だなんて口にしてほしくありません。
 つくづく思い返すも、どうして両親は、ドロシーにだけお金をかけて甘やかすのでしょう。ドロシーは、そのお金をどぶに捨てるかのように、淑女らしくない振る舞いばかりするのでしょう。わたくしにもポールにもお金を出してくれないのに、ドロシーにだけは、いいところに嫁がせるのだとたくさんのドレスやアクセサリーを買い与え、立派な家庭教師を雇っていました。本当なら、跡取りとなるポールにたくさんの教師を付けないといけないのに。
 余談ですが、わたくしの当主教育は執事のセバスチャンと侍女長のリアが、ポールの教育はその二人に加えてわたくしが務めていました。ポールは身体能力が高いので、剣の訓練をきちんと行えば、護衛をつけずとも一人であしらえるほど強くなれるとセバスチャンが見抜いたときは、両親にポールの家庭教師を頼みました。しかし、受け入れてはもらえませんでした。だから、お義母様に教えて頂き設立した商会の儲けで、家庭教師を雇うお金を捻出しました。わたくしの教育は、全てセバスチャンとリアが行ってくれました。ふたりは元々貴族でしたから、様々な事を教えてくれました。本当に、感謝しています。
 ポールの家庭教師の費用を全て用意できたのが先月の事です。ポール以外はお金を使えないように手配しました。領地運営の資金捻出の為に設立した商会の運営をポールとセバスチャンに任せたのが、先週の出来事です。
 必要な引継ぎは全て終わり、来週には結婚して幸せになるのだと思っていました。リンゼイ子爵家に嫁ぐ日を楽しみにしていたのです。
 貴族である以上、我慢することは多いだろうけれど、ケネス様とお義母かあ様と暮らすのは楽しみでした。ケネス様となら、きっと幸せな家庭が築けると信じていました。
 だけど、これは無理です。

「くそっ……あの悪女……エリザベスさえ……いなければっ……」

 ケネス様は、わたくしが嫌いなのですね。お義母かあ様と共にわたくしに会いに来てくださった頃は優しかったけれど、あの時の優しさは、演技だったのでしょう。結局、彼も両親と同じく、ドロシーの言葉だけを信じる人なのですわ。
 すすり泣く妹と彼女を優しくあやす婚約者様は、今も抱き合っておられます。それどころか、口付けまで交わし始めました。
 わたくしには、一度も口付けなんてして下さらなかったのに。ケネス様は奥手だと聞いておりましたが、違ったのですね。
 そもそもここは我が家の廊下ですよ、誰かに見られたらどう説明なさるの?
 そんな皮肉めいた言葉をかける余裕すらなく、婚約者と妹の裏切りに、呆然と立ち尽くすしかありませんでした。


 わたくしこと、男爵令嬢エリザベス・ド・バルタチャと、子爵家の嫡男であるケネス・デ・リンゼイ様の婚約が整ったのは三年前のことです。
 わたくしを気に入ったご当主からの打診でした。リンゼイ家は先代のご当主がお亡くなりになり、ケネス様のお義母かあ様が跡を継がれました。女性の当主は珍しいのですが、その物珍しさよりもやり手の経営者として有名な方です。つり合いはとれるとはいえ格上の子爵家からの婚約の申し入れに最初は驚きましたが、持参金は不要な上に高額の支度金まで頂けるという破格の申し出に、両親は大喜びでした。初めてお会いした時のケネス様は、とても優しかったことを覚えています。

「母がすすめる子なら間違いないよね。これからよろしく」

 そう言って、この国では婚約の証となるブローチを手渡して下さいました。そのブローチは、今もわたくしの胸でむなしく輝いております。ですが、冷静になるとケネス様は、わたくしの事をお好きではなかったのでしょう。ドロシーの前で見せている優しい笑顔……あんなに嬉しそうな顔、初めて拝見致しました。わたくしと話す時も笑っておられましたけど、あの時の笑みとは全く違います。ケネス様は、間違いなく妹がお好きなのです。
 冷静になってみれば、前々からおかしな点が多かったと思います。最初はお互いの家を行き来していたのに、一年ほど前から交流の場所はいつも我が家になり、お義母かあ様もまじえてお話しするのではなく、ケネス様がお一人で来られるようになりました。そして、以前は何時間もお話をして下さったのに、最近は三十分程度お茶を飲むだけで、結婚の準備があるからとすぐ帰ってしまっておりました。結婚が近いから、子爵家に会いに来る移動時間や自分と過ごす時間を家族との時間にあてて欲しいのだとおっしゃっておりましたけど、きっとドロシーに会いたかったのですね。
 最近はお義母かあ様に、ケネス様とどんな話をしたのかと聞かれるたび、ケネス様がお義母かあ様に叱られないよう、いつも必死で誤魔化しておりました。交流の時間が少ないと分かると、ケネス様が叱られてしまうと思っておりましたのに、余計な心配でしたね。ケネス様はわたくしがお義母かあ様と話している間、たっぷりドロシーと逢瀬を重ねていたのでしょう。あの浮気男、本当にどうしてやりましょうか。
 そんなことを考えていると、わたくしと同行していた侍女長のリアが声をかけてきました。

「お嬢様、ここは場所がよろしくありません。こちらに」

 そう言って彼女はわたくしを空き部屋に連れて行ってくれました。

「本日は、この部屋を使う予定はありません。鍵をかけたので、誰も入って来ません。本日はリンゼイ子爵との面会予定含め、お嬢様の予定は一切ありません」
「ポールは……?」
「剣術の先生と騎士団に課外授業に行っておられます。旦那様と奥様は、お買い物で夜まで戻られないでしょう。ここなら馬車の出入りも分かります」
「リア……」
「この部屋は密談などに使われるので防音されています。一人がよろしければすぐに出て行きます。どうぞ、エリザベスお嬢様のお好きなように」

 ああ、この優秀な侍女長はいつもそうです。
 最低限の救いの手を差し伸べて、あとは自分で考えるように促してくれます。リアのおかげで、こんな理不尽な家でも強く生きられました。

「リア……わたくし、ケネス様とドロシーが許せないの」
「はい。私も腹が立っております。どうぞお嬢様のお好きなように。私も、夫も、ポール様もお嬢様の幸せを願っております」

 夫、とは執事のセバスチャンのことです。

「……いつから……だったのかしら?」
「私も初めて見ましたのでなんとも……すぐに調査致します」
「お願い。それから、リア」
「はい。なんでございましょうか?」
「わたくしが結婚せずにリンゼイ家のお義母かあ様に恩を返す方法はあるかしら?」
「……それは」

 リアが口ごもるということは、現実的な手段としては何もないのでしょう。

「難しいわよね。でも、もう一秒たりともケネス様に会いたくないわ。幸い、今日で訪問は終わり。次に会うのは結婚式よね?」
左様さようでございます」
「元々は、お義母かあ様と商会の準備にてるつもりの時間だったけど……そうだわ! 明日はお義母かあ様と商談を兼ねた観劇の予定。ねぇ、ドロシーはわたくしの予定を知っている?」
「いえ、ご存知ないと思います」
「そうよね。絶対バレないようにして頂戴。本当は、リアとセバスチャンを招待しようと思って二枚余分にチケットを購入しておいたのだけど、観劇はまた今度で良い?」

 まずは、お義母かあ様に現実を知って頂きましょう。わたくしとケネス様の仲は修復不可能で、我が家と縁を繋ぐのであればドロシーとケネス様を結婚させるしか無いと分かって頂きます。そうなれば、お義母かあ様は、ドロシーを厳しくしつけると思いますし、ドロシーだって『心からケネス様と結ばれたい』のなら頑張るでしょう。だって、あんなに熱い口付けを交わすほど『本気で愛し合っている』のですから。
 ありえないとは思いますが、お義母かあ様がドロシーとの結婚を認めず、予定通りケネス様とわたくしを結婚させようとするなら……別の対策を考えましょう。とにかく、何がなんでもケネス様との婚約を解消します。
 リアは、わたくしが取り出したチケットを見て頭を下げました。

「お嬢様……使用人にそのような気遣いは必要ありません」
「リアとセバスチャンが教えてくれたから、貴族としての教養が身に付いたわ。嫁ぐ前に恩返ししたいと思っていたの」
「私の望みは、お嬢様がお幸せになる事です。夫も、そう思っていますよ」

 子どもがいない二人は、わたくしとポールを自分の子のように可愛がってくれました。ドロシーが産まれてから両親はわたくしに構わなくなりましたけど、二人のおかげで寂しくなかったのです。

「じゃあ、わたくしは絶対幸せにならないとね。まずはドロシーと愛し合っている婚約者様をどうにかしましょう。あんな男と結婚するのだけは避けたいわ。いくらお義母かあ様が素晴らしい方でも、愛する努力すらしようとしない男と結婚はしたくないもの」

 貴族の結婚は政略結婚が主流です。ですから、はじめから愛せとは申しません。ですけど、夫婦になるのですから愛する努力はして頂きたいですわ。わたくしは、ケネス様を愛する努力をしました。最初は探り探りでしたが、ケネス様を愛していました。お優しい笑顔が、大好きでした。
 たった今ケネス様への愛は冷めましたけどね。もう二度と顔も見たくありませんわ。

「それがよろしいかと。ドロシー様に観劇のチケットをお渡しすればよろしいですか?」
「わたくしからとは言わずに渡して。ドロシーの好きそうな演目だし、に行くと言い出すと思うわ。きっとケネス様と一緒に行きたがる」

 次に出す店は、夫婦や恋人をターゲットにするつもりでした。だから、勉強の為に恋人に人気の劇を観に行く事にしたのです。本当はケネス様と行きたかったのですが、断られました。日程や演目をお伝えする前に断られてしまって、落ち込んでおりましたわ。嫌われたのではないかと不安でしたが、それ以前の問題でしたね。

「浮気男とドロシー様が一緒に劇を観覧している様子を、リンゼイ子爵に目撃させるおつもりですね?」

 リアは優秀です。
 何も言っていないのに、わたくしの意図を察してくれました。

「お願い出来る?」
「はい。お任せ下さいませ。演目は恋人や夫婦向きですので、ドロシー様は浮気男と行きたがるでしょう。あの方は見栄っ張りですから、ひとりで観劇したりなさいませんもの。すぐに渡して参ります。浮気男に明日の予定がない事は把握しております。お嬢様がお誘いしているのに、日程も聞かず断ったので腹が立ち、さりげなくうかがいましたところ、予定は無いが観劇に興味がないのだとおっしゃいましたので」

 ドロシーは、使用人をあまり信用していません。けど、我が家の全てを把握し取り仕切るといっても過言ではないリアとセバスチャンは別です。リアから渡されたチケットなら、ドロシーは喜んで行くでしょう。急だから、お友達も誘いにくいことですし、恋人に人気の演目なので、見栄っ張りのドロシーは男性と行きたがるでしょう。きっと、ケネス様を誘うはずですわ。

「まあ。ケネス様は嘘吐きね。この演目は、ケネス様もお好きな筈よ。大好きな俳優も出ているのですもの」
「あの浮気男は、リンゼイ子爵からお声掛け頂いた時しかお嬢様と観劇に行きません。以前から、不審に思っておりました。もっと調査すべきでした。申し訳ありません」
「言われてみれば、チケットをお渡しした時は受け取って頂けるのに、一緒に行こうとお誘いしたらいつも断られていたわね。わたくし、鈍いわね。こんなに嫌われていたのに……」

 予定がなくても、わたくしとは行きたくないのですね。ドロシーと一緒なら、喜んで行くのでしょう。そう思うと、涙が止まりません。

「ごめんね……リア。面倒をかけて」
「面倒ではありません。ご安心下さい。お嬢様、私は部屋を出ますので、私が出たら鍵をかけて下さい。こちらに水桶も、タオルも、お化粧道具もあります」

 本当に、リアは優秀です。
 彼女から学んだ事はたくさんあります。淑女はいつでも凛として、弱みは人前で見せてはいけないというのも、幼い頃に叱られたことのひとつ。
 泣くのは信頼できる人の前だけにしなさい、そして、泣き崩れるのは一人の時だけにするようにと指導してくれました。何があっても泣くな、ではなく、泣いていい場所を作り、そこで泣きなさい、と教えてくれたのです。

「うっ……くっ……わぁ……わぁぁぁん‼」

 リアが出て行って、鍵を掛けてから胸のブローチを投げ捨て、わたくしは泣き続けました。


 涙が枯れた頃に、リアが戻って来ました。
 弟からのプレゼントだと言って、ドロシーにチケットを渡してくれたそうです。ポールは、ドロシーに好かれていますので、より信用して貰えるでしょう。
 ちなみに、リアがドロシーの部屋を訪ねると、長々と待たされたそうです。押し問答の末、ようやく部屋に入ると、クローゼットから男性の服がはみ出していたそうですわ。
 侍女もドロシーも焦っていたそうですから、ケネス様が隠れていたのは間違いありません。隠れるなら上手く隠れて頂きたいですわ。服がはみ出しているなんて、お粗末です。

「あんな人達に無駄な時間は使えません。部屋にこもっているようでしたので、私が強引に押し入れば、慌てて隠れると思いました。これで、あの浮気男が聞いている場でドロシー様が二人分のチケットを受け取ったことになり、誘う相手に選択の余地がなくなりました。目的は達成です」

 リアは淡々と状況を説明してくれました。
 わたくしが泣いている間に使用人の調査も済ませてくれたそうです。


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