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3 仲違い

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「研修を今日も休んだのか。通訳の資格,剝奪されっぞ」薄灰のレンズを傾けてみせる。「ちゃんと研修に出ろ。1週間後に初仕事があんだろ?」
「観空……」
「おう……」
「あんた,いつからそんな風に口喧しくなった? 年齢のせいかもね。男もオヤジになると,うるさくって仕方ないよ」
「……つっかかんなよ」
「つっかかってくるのは,そっちじゃないか。いちいち人にあれしろこれしろと――神経を逆撫でするのはやめてよ」
「俺は別におまえを心配して――」
「うるさいってば! 他人のことは放っておいてよ!」
「他人って,おまえ――」
「まあ,まあ,まあ,まあ――」山田が私たちを制止する。頰を強張らせ,小鼻をひくつかせながら――
「腹が立つ……」そう吐き捨てれば,目張りの入ったみたいな両眼を押し広げて言葉の真意を問うてくる。
「むかつくんだよ!」集中治療室前のベンチから立ちあがる。「他人も他人!――全く赤の他人のあんたが何でいけしゃあしゃあとこの場にいるんだ! え,ヤマダタロウよ,あんたがここにいる資格はない! ここにいたって一体何になる?――聴蝶の手話も読めないくせして!」
「失礼じゃないか――」観空が山田に頭をさげた。「学校の仕事もあるのに毎日お見舞いにいらしてくださってるのに」
「いや,僕のことなら全然大丈夫なんで……」人懐っこい笑顔で調子をあわせる。
「ふんっ――観空までとりこんじゃって。媚びるのがお得意な人間はみんなから贔屓ひいきされてラッキーだよね」
「結良――いい加減よせよ。聴蝶があんなで苛々するのは分かるけど,周囲にあたっても何にも変わんねぇよ」
 ガラス張りのむこうで眠る聴蝶を見た。祝杯の夜に倒れてから3週間も意識不明のままだ。
「あんた,聴蝶の兄さんのくせに,よくもそんなに冷静でいられるね……ああ,そうなのか。そうなのか,やっぱりね。いっそ聴蝶がいなくなれば楽になれると思っているんじゃないのかい」
 観空が立ちあがる。
「ちょっと,ちょっと,2人ともやめてください――」
 間に入ろうとする山田を突き飛ばした。「お荷物の妹がいなくなれば身軽になって自由に生きていけるからね」
「結良――冗談だろ――」夜間しか視力の戻らない観空がふらふらと近寄ってくる。「おまえが,聞こえない聴蝶のこと,俺のこと,そんな風に思ってるなんて信じねぇよ。俺を挑発するための戯言なんだよな」
 兄妹きょうだいと歩んできた人生で初めて投げつけた残酷な言葉だった。自分でも信じられない――こんな言葉が自分のなかから飛び出すとは――そんな言葉を発する地盤が自分のなかに微塵でも形成されていたとは――
 すぐに素直に謝りたい。一刻も早く!――「あんた,本当は見えているんだろ? だってきちんと歩けているじゃない」――違う,違う! こんなこと言いたくない! 観空と聴蝶に心から詫びたいのに!――「峰橋みねはしの実家が偽障害だと嘲るはずさ」
 終わった。禁句が出た――
 観空が1歩2歩と後退り,静かに背をむけて壁づたいに去っていく。
「峰橋さん!」山田が声をかけた。
 観空は尖った顎先だけを後方へむけて仕事の準備があるから店へ行くと告げると,エレベーターの扉のなかに消えた。
 1人でタクシーをつかまえられるだろうか……ヤクザな人間に目をつけられて絡まれたりしないだろうか……
「すぐに追っていけば間にあうよ」山田が言った。
「うるさいよ……放っておいて……」ベンチに戻り,腰をおろす。聴蝶を直視できない。
「峰橋さん,昼間は見えてないのに感覚で歩行するの上手だよね。杖もなしにすごいよ。きっと運動神経がいいんだな」
「だから,うるさいってば――あんたがここにいる魂胆はお見通しさ。観空に好印象をもってもらおうとポイント稼ぎしているんだろ。でもね,観空を味方につけたところで,聴蝶はあんたのことなんぞ好きにならない」
「好きになってもらえなければ……それは悲しいけれど,仕方ないよ。好きにさせてもらえただけで十分じゃない。好きな相手が幸せになれるように何かさせてもらうことで自分も幸せになれる。だから富総館さんも通訳としての務めをしっかり果たすべきだ」
「え……」
 山田は満面の笑みを浮かべていた。……この男,急所を突いてきたように思うが,単なる考え過ぎなのだろうか……
「富総館さんが通訳の仕事を頑張ることで,ろう者や手話や聴覚障害に対する理解が社会に浸透していく。そうなれば聴蝶さんたちの暮らしやすい環境が整備されていくよね」
「ろう者全体の生活環境が改善されても,恩恵を被るろう者のなかに聴蝶がいないなら意味はない。私は聴蝶のために通訳になったんだからね。通訳として働く意欲はもう失せた」
「恩恵を被るろう者のなかに勿論聴蝶さんはいるよ」
「気休めだね――眠ったままの状態が随分続いている。もう意識が戻らないかもしれない」全身をかかえた。
「1秒後に意識が戻るかもしれない――きっと,その可能性は高い。今まで重症化しないで頑張ってくれてるんだよ。僕は,聴蝶さんがもうじき目覚めてくれると信じてる」
 気持ちが軽くなっていくようだった。
「富総館さんも聴蝶さんを信じてるなら,通訳を辞めちゃ駄目だ。想像してみてよ。富総館さんは恥ずかしくないの?――通訳業務を怠り,おまけにお兄さんと仲違いしてる君を見て,目覚めた聴蝶さんはどう思うだろう」
 山田はガラス張りに顔面を押しつけて小鼻を一層平たくさせると,口中で一頻りぶつぶつと唱えた。いつもそんな風にして聴蝶の回復を祈っているのだ。
「日曜日の研修に出てみるよ」
 山田が振り返り何度も頷いた。「僕ずっとここにいるから安心して行ってきて!」
 集中治療室内で付きっきりの看病をする看護師の路傍ろぼうおとが腕をあげて合図する。その口形は伝えた――意識が戻った。
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