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○2章 仲居娘たちの日常
-7 『心の洗濯』
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旅館を出て裏口に向かうと、土を被った木組みの階段が斜面を下っていく。そこを下りてすぐの所に流れの静かな川があった。
階段から直接繋がっているそこは緩やかなカーブになっていて、上流からの土砂が堆積したおかげで砂利の足場ができていた。。
川は川底が見えるほど透明に澄んでいる。
大小さまざまな魚が泳いでいるのも見えた。
周りは背の高い木々に囲まれていて日陰になっていて、涼しい風が上流の方から流れるように吹き込んでいる。ここで渓流釣りでもすれば風情があって楽しいことだろう。
水の流れる音に時折、魚の跳ねる音がまじって聞こえた。
「あーあ。なんでサチがこんなこと」
車のタイヤほどの大きな桶に山盛りのタオルを乗せたサチが、口を尖らせてぶうたれた。
川べりに桶を置き、よいしょっと、と年寄り臭い声を漏らして座り込む。水面を指で引っかくと、短く溜め息を漏らした。
「盗み食いなんてするからだろ」
「だって、お腹がすいたんだもん」
「朝ごはんは食べたんだろ」
「食べたよ」
それがどうしたの、という顔でサチは俺を見てくる。
まだ昼前だというのに随分と燃費の悪い腹をしているようだ。
彼女たちは今が成長期なのだからそれが自然なのかもしれないが。
「まったくもう。せんせーがいなければ大丈夫だったのに。せんせー大っ嫌いー」
「……なに言ってんだ」
不貞腐れたように言い放ったサチの言葉に、俺は声を出して笑い返す。
だがそんな態度とは裏腹に、俺は心に棘が刺さったような痛みを覚えていた。
先ほどの言葉。
サチが本気で言ったわけではない冗談だとわかっている子どもの些細な愚痴のようなものだ。しかしそれのせいで俺はある言葉を思い出していた。
『そういう飾った態度、大っ嫌いだよ』
つい数日前、俺の脳を割れそうなほど揺さぶってきた言葉がリフレインする。
声の主は俺の思い人だった女性。
そして俺を振った女性、オカルトサークルの会長だ。
心霊現象から超能力、都市伝説に妖怪や怪談。世界中の超常現象に目がない生粋のオカルトマニアである。
自分が気になるもののためならば睡眠や飯すら後回しにするほどで、彼女を起点に大学のオカルトサークルは随分と活気付いている。
それほど重度なオタクなのに、読者モデルにいそうなくらい容姿は端麗で、残念美人と呼ばれているほどだ。
彼女に釣られて興味もないオカルトサークルへ足を踏み入れた男は数知れず。かくいう俺もその一人だった。
ずっと彼女のことしか考えられないくらいに熱中して、大学生活のほとんどを彼女のために使った。
サークル活動への呼びかけには二つ返事で、飲み会にも欠かさず出席。
一ヶ月も経った頃には名前も覚えてくれるようになり、それからは毎日がただただ楽しかった。
これはいける。そう思った。
彼女が俺に振り向いてくれている。
距離が縮まっている。俺はまるで物語の主人公のように特別で、意中の相手の心を簡単に貫けるほどの自信があった。
だが、その時の俺は何も知らなかったのだ。
満ち満ちた自信を携えて告白という名の戦場に赴いた俺に突きつけられたのは、逃れようのない現実だった。
自信満々に番えたキューピッドの矢は、実際は爪楊枝ていどに細く、脆く、とても相手の心を貫けるほどのものではなかったのだ。
『ごめんなさい。いまはそういうことに興味がないの。このサークルは私と同じ道を歩める人のために作ったんだよ。それなのに貴方はどうしてここにいるの。その道を歩めないのなら、貴方のその行動はただ私を馬鹿にしているようなもの。そういう飾った態度、大っ嫌いだよ』
言われて当然だった。
俺の行動には下心しかなく、彼女が熱を入れているものへの関心なんて欠片も持ち合わせていなかったからだ。
そんな彼女の言葉を、サチに重ねて思い出してしまうなんて。
「ははっ。なんていうか、思ったよりもガラスのハートだな、俺」
あれからもう四日は経っている。
この旅館に来て忘れるつもりだったのに、こうやってふと思い出してはまだ引きずり続けているなんて情けない話だ。
結局あれから、俺はサークルの会長と一度も話していない。逃げるようにこの旅館に来て、今もただ、ずっと目を逸らし続けているだけだ。
「おりゃー」
張り詰めた俺の脳内に、素っ頓狂な可愛らしい声が響いた。かと思うと顔に水がかけられた。
冷たさに頭が冴える。
気づけば俺のすぐ目の前でしたり顔をうけべているサチの姿があった。まだ一枚も洗えていないタオルの山は放置されたままだ。
「なにするんだよ」とサチを捕まえようとするが、彼女は素足になって川の中へと入ってしまった。そしてまたくすりと笑い、こちらに水飛沫を飛ばしてきた。
今度は浴衣まで塗れてしまう。
「えへへ。なんだか暗い顔してたから、洗い流してあげたんだよー」とサチが満面の笑顔を輝かせて言った。
「……サチ」
「えい、隙ありー!」
「うわ、やめろ。ポケットのスマホにかかる」
「そんなのしらないもん。くらえー」
「ちくしょう。やりやがったな」
「きゃー。こわーい。あははっ」
「この野郎。大人の本気を見せてやるぜ」
「きゃー。ださーい。あはははははっ」
いつの間にか俺も童心に帰ったように川へと飛び込み、そうしてサチと何度も水を掛け合って遊んでしまっていた。
ついさっきまで考えていたこともすっかり忘れてしまっていた。
身体を動かすことと、冷たい水の爽やかさで、心も一緒に洗濯されているような気分だった。
初夏の日差しが肌を焦がす。
急かすような車のクラクションも電子機器の音も聞こえない大自然の中。俺の一瞬の気落ちも些末ごとだと言わんばかりに、絶え間ない少女の笑顔が俺の心を引っ張り上げていた。
階段から直接繋がっているそこは緩やかなカーブになっていて、上流からの土砂が堆積したおかげで砂利の足場ができていた。。
川は川底が見えるほど透明に澄んでいる。
大小さまざまな魚が泳いでいるのも見えた。
周りは背の高い木々に囲まれていて日陰になっていて、涼しい風が上流の方から流れるように吹き込んでいる。ここで渓流釣りでもすれば風情があって楽しいことだろう。
水の流れる音に時折、魚の跳ねる音がまじって聞こえた。
「あーあ。なんでサチがこんなこと」
車のタイヤほどの大きな桶に山盛りのタオルを乗せたサチが、口を尖らせてぶうたれた。
川べりに桶を置き、よいしょっと、と年寄り臭い声を漏らして座り込む。水面を指で引っかくと、短く溜め息を漏らした。
「盗み食いなんてするからだろ」
「だって、お腹がすいたんだもん」
「朝ごはんは食べたんだろ」
「食べたよ」
それがどうしたの、という顔でサチは俺を見てくる。
まだ昼前だというのに随分と燃費の悪い腹をしているようだ。
彼女たちは今が成長期なのだからそれが自然なのかもしれないが。
「まったくもう。せんせーがいなければ大丈夫だったのに。せんせー大っ嫌いー」
「……なに言ってんだ」
不貞腐れたように言い放ったサチの言葉に、俺は声を出して笑い返す。
だがそんな態度とは裏腹に、俺は心に棘が刺さったような痛みを覚えていた。
先ほどの言葉。
サチが本気で言ったわけではない冗談だとわかっている子どもの些細な愚痴のようなものだ。しかしそれのせいで俺はある言葉を思い出していた。
『そういう飾った態度、大っ嫌いだよ』
つい数日前、俺の脳を割れそうなほど揺さぶってきた言葉がリフレインする。
声の主は俺の思い人だった女性。
そして俺を振った女性、オカルトサークルの会長だ。
心霊現象から超能力、都市伝説に妖怪や怪談。世界中の超常現象に目がない生粋のオカルトマニアである。
自分が気になるもののためならば睡眠や飯すら後回しにするほどで、彼女を起点に大学のオカルトサークルは随分と活気付いている。
それほど重度なオタクなのに、読者モデルにいそうなくらい容姿は端麗で、残念美人と呼ばれているほどだ。
彼女に釣られて興味もないオカルトサークルへ足を踏み入れた男は数知れず。かくいう俺もその一人だった。
ずっと彼女のことしか考えられないくらいに熱中して、大学生活のほとんどを彼女のために使った。
サークル活動への呼びかけには二つ返事で、飲み会にも欠かさず出席。
一ヶ月も経った頃には名前も覚えてくれるようになり、それからは毎日がただただ楽しかった。
これはいける。そう思った。
彼女が俺に振り向いてくれている。
距離が縮まっている。俺はまるで物語の主人公のように特別で、意中の相手の心を簡単に貫けるほどの自信があった。
だが、その時の俺は何も知らなかったのだ。
満ち満ちた自信を携えて告白という名の戦場に赴いた俺に突きつけられたのは、逃れようのない現実だった。
自信満々に番えたキューピッドの矢は、実際は爪楊枝ていどに細く、脆く、とても相手の心を貫けるほどのものではなかったのだ。
『ごめんなさい。いまはそういうことに興味がないの。このサークルは私と同じ道を歩める人のために作ったんだよ。それなのに貴方はどうしてここにいるの。その道を歩めないのなら、貴方のその行動はただ私を馬鹿にしているようなもの。そういう飾った態度、大っ嫌いだよ』
言われて当然だった。
俺の行動には下心しかなく、彼女が熱を入れているものへの関心なんて欠片も持ち合わせていなかったからだ。
そんな彼女の言葉を、サチに重ねて思い出してしまうなんて。
「ははっ。なんていうか、思ったよりもガラスのハートだな、俺」
あれからもう四日は経っている。
この旅館に来て忘れるつもりだったのに、こうやってふと思い出してはまだ引きずり続けているなんて情けない話だ。
結局あれから、俺はサークルの会長と一度も話していない。逃げるようにこの旅館に来て、今もただ、ずっと目を逸らし続けているだけだ。
「おりゃー」
張り詰めた俺の脳内に、素っ頓狂な可愛らしい声が響いた。かと思うと顔に水がかけられた。
冷たさに頭が冴える。
気づけば俺のすぐ目の前でしたり顔をうけべているサチの姿があった。まだ一枚も洗えていないタオルの山は放置されたままだ。
「なにするんだよ」とサチを捕まえようとするが、彼女は素足になって川の中へと入ってしまった。そしてまたくすりと笑い、こちらに水飛沫を飛ばしてきた。
今度は浴衣まで塗れてしまう。
「えへへ。なんだか暗い顔してたから、洗い流してあげたんだよー」とサチが満面の笑顔を輝かせて言った。
「……サチ」
「えい、隙ありー!」
「うわ、やめろ。ポケットのスマホにかかる」
「そんなのしらないもん。くらえー」
「ちくしょう。やりやがったな」
「きゃー。こわーい。あははっ」
「この野郎。大人の本気を見せてやるぜ」
「きゃー。ださーい。あはははははっ」
いつの間にか俺も童心に帰ったように川へと飛び込み、そうしてサチと何度も水を掛け合って遊んでしまっていた。
ついさっきまで考えていたこともすっかり忘れてしまっていた。
身体を動かすことと、冷たい水の爽やかさで、心も一緒に洗濯されているような気分だった。
初夏の日差しが肌を焦がす。
急かすような車のクラクションも電子機器の音も聞こえない大自然の中。俺の一瞬の気落ちも些末ごとだと言わんばかりに、絶え間ない少女の笑顔が俺の心を引っ張り上げていた。
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