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○3章 家族のかたち
3-1 『来客』
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俺が旅館を訪れてすでに四日が経っていた。
あっという間のようで、まだそれだけなのかという不思議な感覚だ。
電波の届かないスマホは、昨日の川での水浴び以来部屋に置いたまま開いてすらいない。
予定の確認もせず、今日が何日か、何曜日かすらどうでもよくなる。
誰に急かされるでもなく過ごすこの旅館は、今の俺にとってひどく心地の良い場所だった。
「ありがとうナユキちゃん」
昼食後、部屋にお茶を入れに来てくれたナユキに礼を言うと、彼女は慎ましやかに首を振った。
「ナユキちゃん、ちょっとずつ俺の顔を見れるようになってきたね」
「……はっ」
はいと答えようとしたナユキが声を喉に詰まらせ、代わりにこくりと頷いた。
また咄嗟に鼻をつまもうとするが、その手をとめる。そして胸の前で手を握り、背を丸めて上目遣いに俺を見てくる。
これでも目すら合わせられなかった最初の頃に比べれば大きな進歩だ。お茶もちゃんと凍らずに温かいままでいる。
思わず「よしよし」と彼女の頭を撫でたくなったが、それをすると恥ずかしがって一目散に逃げていってしまう。
我慢だ。
ただ不用意に近づかず、彼女の落ち着ける距離を保って接する。
当初は大人一人分くらい常に距離を置かれていたが、今では手が届く距離程度にまでは近づけていた。
彼女たち仲居少女の接客練習に付き合うことになってから、これといった指導も何もなく、ただお持て成しを受けているだけの日々だ。
これで果たして彼女たちにためになれているのだろうか不安である。
失敗ばかりする仲居娘たちを見ていると、その情けなさにこそばゆさを感じることもあった。
特にナユキは俺の前では人一倍緊張して空回りしてばかりだ。だが、それでも挫けずに接客を挑戦し続けている姿は、失敗から逃げてここに留まることを選んだ俺なんかよりもずっと凄いと思った。
ナユキの入れてくれたお茶を飲みながら広縁の椅子に腰掛けてくつろいでいると、どたどたと騒々しい足音が聞こえてくる。
やがて音は部屋の前で止まり、無遠慮に勢いよく扉が開かれた。
顔を出したのは、やはりというか、サチだった。
正座をしていたナユキが、驚くあまり腋に挟んでいたお盆を落とす。
これでも俺は客として居座っている立場だ。
そんな客の部屋を訪れる態度としては一週回って花丸を付けたいくらい最低なサチの様子に、俺は呆れた顔で溜め息を漏らした。
満面の笑顔でサチが溌剌に叫ぶ。
「新しいお客さんがきたんだってー! 見に行こうよ!」
もちろん行くよね、と言葉にせずともそう続いているのがわかる。俺たちが拒否するという想定は欠片もしていないのだろう。
「……あ、あの。わたし、まだ……お片づけが」
「なんとかなるって。だいじょーぶ、だいじょーぶー」
「……そ、そんな」
「いっしょに怒られてあげるからー」
「……うぅ」
涙を浮かべるナユキを、サチは問答無用に引っ張って部屋を出て行く。
どうしてこうも彼女はお気楽なのか。
わんぱくな身勝手でどれだけ周りにに迷惑をかければ気が済むのだろう。
「なあサチ。お前、疫病神……とかじゃないよな?」
「えー。サチが何の妖怪かわからないからって適当言ってー」
「いや、冗談だよ。うん。冗談だ」
願わくば本当に疫病神でないことを祈るばかりだ。
◇
途中でクウと出会い、四人の大所帯でフロントへ向かうことになった。
サチとクウが率先して前を歩き、俺とナユキがその少し後ろに続く。
前と後ろで関心の差が出ているのだろう。
先を歩く二人の歩調は随分と弾んでいるように見えた。
「お客様、こんなに来るの久しぶりだね、クーちゃん」
「そうだな」
「そういえばせんせーはどうしてここに来たんだろうね」
「どうせ女にでも振られたんだろ」
振り向きもせずに言うサチに、クウが興味なさそうに返す。
適当に茶化したつもりなのだろうが、その通り過ぎて無駄に俺の心が傷付けられた。遠慮がない子どもの言葉はこわい。
「じゃあ独身だね。恋にうえちゃってるね。もしせんせーがおかーさんを狙ってたらどうしよう」
サチの言葉に、俺の心臓が飛び跳ねそうなほどに脈打った。
たしかに女将さんはとても美人だ。
それでいて接客の様子からも多分に優しさが垣間見える。異性としては文句なしだろう。
この旅館で気持ちをリセットさせて再出発するのなら、恋も再出発させる手もありだろう。その相手として、女将さんは十分すぎるほどに魅力的だ。
「おかーさんとせんせーが夫婦になったりするのかな」
面白半分にはしゃいで話すサチの言葉に、俺は煩悩のごとくその光景を頭に思い浮かべた。
着物を纏った女将さんが俺に寄り添って「好きです、あなた」と囁いてくれる。顔が近づいて彼女の黒髪が俺の肩にかかり、華やかなシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。肩が触れ、吐息が掛かるような距離。潤んだ瞳が俺を心ごと射抜くように見つめてくる。瑞々しい桃色の唇が震え、彼女が心を決めてそっと瞼を閉じる。
「無理でしょ。こんなスケベに女将さんが惚れるとは思えないけど」
妄想をばっさりと切り捨てるようにクウが言った。
俺の脳内の女将さん像が音を立てて崩れていった。
本気だったわけではないが、言葉にされるとショックなものだ。
肩を落としていると、隣を歩いていたナユキが俺を見上げていた。
胸の前で両手の拳をぐっと握って息むようなポーズをして、それから顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。元気を出せという彼女なりの気遣いだろうか。
たしかに失恋して逃げてきたダメ男と女将さんでは釣りあわないかもしれない。
しかしそれ以上に、彼女もこの旅館の例に漏れず妖怪なのだ。普通の人間である俺がどうこうできる相手なのだろうか。
それに、俺は彼女について何一つ知らない。
クウ曰く、彼女が『垢嘗め』であるというくらいしか。
「結局、女将さんってどんな妖怪なんだ」
単刀直入に俺が尋ねると、うーん、とサチとクウは首をひねった。
「おかーさんは垢嘗めと言っても、お風呂を嘗めたりとかはしないよ」
「そうだな、そういうところは見たことがないな」
二人の言葉に、後ろのナユキも頷く。
「でもたまーに、サチたちを嘗めてくるよね」
「あれは気持ち悪いよな」
続いてまたナユキが首を縦に振る。
「え、みんなを嘗めるの?」
思わず聞き返した俺に、そうだよ、とサチは頷いた。
「たまーにだけど、サチたちの身体の垢を嘗めてくるの。栄養補給代わりなんだってー。妖怪としての性? とかいうやつだって。おかーさんはほとんど妖怪の血が薄まってるから滅多にはしてこないんだけどねー」
俺はサチたちの言葉を聞いてまた妄想を膨らませてしまった。
隣に寄り添いあった女将さんが、今度は舌を出して俺の胸板を嘗めようとしてくる光景。舌先から唾液が垂れ、火照った俺の身体にひんやりと水溜りを作らせる。
――えっちだ。
「気持ち悪い顔してるぞ」と冷めた目でクウに睨まれた。
「う、うるさい」と茶化すつもりで俺はクウの背中を上から叩こうとする。
しかしクウが中途半端に避けようとしたせいで背中を外してしまった。その勢いのまま、まるで女の子みたいに突き出ていた小ぶりのおしりだけを撫でるようにかすめてしまう。
「ひゃんっ!」とクウが可愛らしい短い悲鳴をあげた。
「あ、ごめ――」
事故だ。
そんなつもりはなかった。弁明させてくれ。
「この変態! 最低! クズ!」
目尻に涙を浮かべて顔を上気させたクウは、それから力強く振り返って俺のみぞおちに容赦ないエルボーをかましてきたのだった。
あっという間のようで、まだそれだけなのかという不思議な感覚だ。
電波の届かないスマホは、昨日の川での水浴び以来部屋に置いたまま開いてすらいない。
予定の確認もせず、今日が何日か、何曜日かすらどうでもよくなる。
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我慢だ。
ただ不用意に近づかず、彼女の落ち着ける距離を保って接する。
当初は大人一人分くらい常に距離を置かれていたが、今では手が届く距離程度にまでは近づけていた。
彼女たち仲居少女の接客練習に付き合うことになってから、これといった指導も何もなく、ただお持て成しを受けているだけの日々だ。
これで果たして彼女たちにためになれているのだろうか不安である。
失敗ばかりする仲居娘たちを見ていると、その情けなさにこそばゆさを感じることもあった。
特にナユキは俺の前では人一倍緊張して空回りしてばかりだ。だが、それでも挫けずに接客を挑戦し続けている姿は、失敗から逃げてここに留まることを選んだ俺なんかよりもずっと凄いと思った。
ナユキの入れてくれたお茶を飲みながら広縁の椅子に腰掛けてくつろいでいると、どたどたと騒々しい足音が聞こえてくる。
やがて音は部屋の前で止まり、無遠慮に勢いよく扉が開かれた。
顔を出したのは、やはりというか、サチだった。
正座をしていたナユキが、驚くあまり腋に挟んでいたお盆を落とす。
これでも俺は客として居座っている立場だ。
そんな客の部屋を訪れる態度としては一週回って花丸を付けたいくらい最低なサチの様子に、俺は呆れた顔で溜め息を漏らした。
満面の笑顔でサチが溌剌に叫ぶ。
「新しいお客さんがきたんだってー! 見に行こうよ!」
もちろん行くよね、と言葉にせずともそう続いているのがわかる。俺たちが拒否するという想定は欠片もしていないのだろう。
「……あ、あの。わたし、まだ……お片づけが」
「なんとかなるって。だいじょーぶ、だいじょーぶー」
「……そ、そんな」
「いっしょに怒られてあげるからー」
「……うぅ」
涙を浮かべるナユキを、サチは問答無用に引っ張って部屋を出て行く。
どうしてこうも彼女はお気楽なのか。
わんぱくな身勝手でどれだけ周りにに迷惑をかければ気が済むのだろう。
「なあサチ。お前、疫病神……とかじゃないよな?」
「えー。サチが何の妖怪かわからないからって適当言ってー」
「いや、冗談だよ。うん。冗談だ」
願わくば本当に疫病神でないことを祈るばかりだ。
◇
途中でクウと出会い、四人の大所帯でフロントへ向かうことになった。
サチとクウが率先して前を歩き、俺とナユキがその少し後ろに続く。
前と後ろで関心の差が出ているのだろう。
先を歩く二人の歩調は随分と弾んでいるように見えた。
「お客様、こんなに来るの久しぶりだね、クーちゃん」
「そうだな」
「そういえばせんせーはどうしてここに来たんだろうね」
「どうせ女にでも振られたんだろ」
振り向きもせずに言うサチに、クウが興味なさそうに返す。
適当に茶化したつもりなのだろうが、その通り過ぎて無駄に俺の心が傷付けられた。遠慮がない子どもの言葉はこわい。
「じゃあ独身だね。恋にうえちゃってるね。もしせんせーがおかーさんを狙ってたらどうしよう」
サチの言葉に、俺の心臓が飛び跳ねそうなほどに脈打った。
たしかに女将さんはとても美人だ。
それでいて接客の様子からも多分に優しさが垣間見える。異性としては文句なしだろう。
この旅館で気持ちをリセットさせて再出発するのなら、恋も再出発させる手もありだろう。その相手として、女将さんは十分すぎるほどに魅力的だ。
「おかーさんとせんせーが夫婦になったりするのかな」
面白半分にはしゃいで話すサチの言葉に、俺は煩悩のごとくその光景を頭に思い浮かべた。
着物を纏った女将さんが俺に寄り添って「好きです、あなた」と囁いてくれる。顔が近づいて彼女の黒髪が俺の肩にかかり、華やかなシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。肩が触れ、吐息が掛かるような距離。潤んだ瞳が俺を心ごと射抜くように見つめてくる。瑞々しい桃色の唇が震え、彼女が心を決めてそっと瞼を閉じる。
「無理でしょ。こんなスケベに女将さんが惚れるとは思えないけど」
妄想をばっさりと切り捨てるようにクウが言った。
俺の脳内の女将さん像が音を立てて崩れていった。
本気だったわけではないが、言葉にされるとショックなものだ。
肩を落としていると、隣を歩いていたナユキが俺を見上げていた。
胸の前で両手の拳をぐっと握って息むようなポーズをして、それから顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。元気を出せという彼女なりの気遣いだろうか。
たしかに失恋して逃げてきたダメ男と女将さんでは釣りあわないかもしれない。
しかしそれ以上に、彼女もこの旅館の例に漏れず妖怪なのだ。普通の人間である俺がどうこうできる相手なのだろうか。
それに、俺は彼女について何一つ知らない。
クウ曰く、彼女が『垢嘗め』であるというくらいしか。
「結局、女将さんってどんな妖怪なんだ」
単刀直入に俺が尋ねると、うーん、とサチとクウは首をひねった。
「おかーさんは垢嘗めと言っても、お風呂を嘗めたりとかはしないよ」
「そうだな、そういうところは見たことがないな」
二人の言葉に、後ろのナユキも頷く。
「でもたまーに、サチたちを嘗めてくるよね」
「あれは気持ち悪いよな」
続いてまたナユキが首を縦に振る。
「え、みんなを嘗めるの?」
思わず聞き返した俺に、そうだよ、とサチは頷いた。
「たまーにだけど、サチたちの身体の垢を嘗めてくるの。栄養補給代わりなんだってー。妖怪としての性? とかいうやつだって。おかーさんはほとんど妖怪の血が薄まってるから滅多にはしてこないんだけどねー」
俺はサチたちの言葉を聞いてまた妄想を膨らませてしまった。
隣に寄り添いあった女将さんが、今度は舌を出して俺の胸板を嘗めようとしてくる光景。舌先から唾液が垂れ、火照った俺の身体にひんやりと水溜りを作らせる。
――えっちだ。
「気持ち悪い顔してるぞ」と冷めた目でクウに睨まれた。
「う、うるさい」と茶化すつもりで俺はクウの背中を上から叩こうとする。
しかしクウが中途半端に避けようとしたせいで背中を外してしまった。その勢いのまま、まるで女の子みたいに突き出ていた小ぶりのおしりだけを撫でるようにかすめてしまう。
「ひゃんっ!」とクウが可愛らしい短い悲鳴をあげた。
「あ、ごめ――」
事故だ。
そんなつもりはなかった。弁明させてくれ。
「この変態! 最低! クズ!」
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