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07:『ありがちな物語』の始まり≫≫
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新しい目でこの世界をもう一度見る。
いつもの朝より少し余裕をもって家を出た私はゆっくりと、そして見慣れた景色をあれこれ観察しながら歩いていた。私が暮らしてきた家、毎日歩く学校への通学路、その途中にあるいつも立ち止まっては街を見渡す小高い岡。
この世界が本物でなく偽物であったら?
そんな妄想はこれまで何度もしたことはあった。しかし、本当に……本当に、自分が、仮想世界の中にいるだなんて、そんなこと急に言われたって信じられるわけないじゃん。
夏がすぐそこまでやってきている匂いがする。小学生たちが騒ぎながら駆けていく声が聞こえる。これも、全て偽物。今まで私が見てきたもの、いや、見てきたと思っていたものは全て、偽物……。
ならば偽物である証を探してみよう。そうやって“間違い探し”を私は試みるがどこにもそんな形跡など見当たらない。石をどければ虫も這う。切り株には年輪さえある。そんな、見れば見るほどに完璧な世界。
(さっさと物語を終わらせて、もとの世界へ戻るんだ──)
私ではない本当の私が住む現実の世界がある。
(君がそれを望むのであればの話だがね──)
私はそれを望んでいるのだろうか? そうなった時は、今の私の、奥田麗美としての記憶は消えてしまうのだろうか? 今の私が、本当の私の記憶を忘れてしまっているように。
私は岡の上に立ち、視界に広がる街を見下ろした。
するとどうしたことだろう? 地平線の向こう側からゴゴゴという地鳴りとともにビルよりも山よりも大きい、それはそれは巨大な黒猫の顔が昇ってきたではないか。
………… って ……………… へ? …………。
『この場面は必要だろうか?』
その巨大な黒猫は目を線のように細めると神々しくそう言い放ち、カッと目を見開いた。
『いや、こんな風にキミ自身が感慨に浸っている場面はいらないような気がしてきた。もう一度やり直そう。さあ、そしてさっさと物語を進めようじゃないか。なあ、麗美ちゃん』
て…………な、なんじ
ゃそりゃーーーーっ?!
やっちまったぁ! 久し振りに遅刻かも!
走る。私は必死に走っていた。そのため曲がり角から急に飛び出してきた自転車に反応するのが遅れてしまった。――って、ちょ……何これ! 急に展開変わりすぎだからっ!
「おわっ!」
自転車の方は急停止しようとして軽くスリップしたものの、なんとか運転者が足で踏ん張って転倒を免れたようだった。一方の私といえば前のめりによろめいたもののそのまま体をひねり、軽く尻餅をつく形になってしまった。
「だ、大丈夫ですか?!」と自転車を乗り捨てて慌てて駆け寄ってきたのは井戸部くんだった。こタイミングで偶然ぶつかった相手が他ならぬ井戸部くん。ということは──
あの”カミジョウ“って奴……。
ぬぁ~にが〈脚本家〉だっ!
こんな恥ずかしくなるようなベタベタな展開、今どきあるかいっ!
「あれ……奥田さん? 大丈夫?! ケガしてない?」
「いったたた。ご、ごめんね。遅刻しそうだったから」
私はテヘッと舌を出してみせた。さすがに頭をコツンとまではできなかったが……あ~、いいさいいさ、もうここまできたら何でもやってやろうじゃないの。
「へえ、奥田さんでもそんなことあるんだ」と井戸部くんは少年のように笑った。
「大丈夫! まだ間に合う。さ、乗って」
井戸部くんは自転車を起こし、素早くまたがると後部座席の方を首で促した。
「……え?」
こっ……これはアレじゃないのか? 全国の女子高生が一度は憧れるという好きな男子の自転車の後部座席に横座りして二人乗りするというアレではないのか?
「しっかり掴まっててな。……あ、何だったらしがみついてもらっても一向に構わないんだけど」
そう笑うと井戸部くんは陸上部で鍛え抜かれた健脚を使ってしっかりとペダルを踏み込み、かつ、安全を考慮した運転で走り始めた。
――ま…… まあ、時にはベタな展開も悪くない、かな?
食パンをくわえさせられたわけでもなし、私はそう思ってやることにした。
さすがに始業時間間近のせいか通学路に学生は少なかった。それでも同じ高校の制服を着た生徒たちを追い抜いていくたび、なんだか恥ずかしいような、嬉しいような、そんなちょっとした優越感に私は浸っていた。
――ここは仮想世界なんだから……別に緊張することなんてないんだから。ドキドキなんてしてないんだから……。
さすがにしがみつくことはできなかったが井戸部くんのベルトの辺りを私はしっかり掴んでいた。
ギリギリセーフで校門前に到着したものの井戸部くんは駐輪場まで自転車を移動しなければならない。そのことを察したのか「俺のことはいいから先に行って!」と井戸部くんは校舎を指差した。その言葉が〈 REM 〉によって作り出されたものか、それともあのカミジョウという男が書いたものなのかは知らないが、確かに映画なんかでよくあるセリフだなと私は少し可笑《おか》しくなった。
「ありがとう」と言って自転車から降りる際、さほど自慢でもない胸を少しだけ彼の背中に押し付けてあげたのは井戸部くんへの細やかなお礼だった。
始業ベルまであと五分。私は校舎の時計でそれを確認し、ホッと息をついた。が、それも束の間、三階にある私のクラスの窓際で蘭がこちらを見ているのに気付いた時、私の心臓は再び跳ね上がった。
その蘭の目は図書館の階段で私をそっと見ていたあの時の目と似ているような気がした。私はひきつった口元をなんとか笑顔に変え、顔の横で軽く手を振ってみせる。まるで数秒遅れの鏡のように、蘭も私と同じ行動をとるとそのままカーテンの奥へと引っ込んでしまった。
▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲
「ねえねえ、もう、イトベーユにコクったの?」
そうやって蘭がようやく話しかけてきたのは三時限目の体育の授業で私が腱を伸ばしている時だった。今日は100m走のタイムを計る日である。二組ずつペアになった生徒たちがゴール脇でタイムを計る石橋先生の立つ方に順次走っていく姿が見える。
蘭はさも興味深々といったそぶりを装いニヤニヤと笑いかけてくる。が、私の脳裏にはさっき窓際でこちらを見ていた蘭の表情がまだ焼き付いていたままだった。
やはり蘭は井戸部くんのことが好きなのだろうか? というより私という突然の伏兵の出現によって井戸部くんに対する本当の気持ちに気が付いてしまった、そういうことなのだろうか……?
「へ? いや、そんな……まだだよ」
「そうなの? だって、二人で今朝ラブラブしながら登校してきたじゃーん」
「あれは、その、行き掛かりというか、なんというか……」
「ふーん……行き掛かりねぇ」と、蘭は意味ありげに目を細めると言葉を続けた。
「でも“まだ”ってことはこれからしちゃうってことなのかな? 麗美くん」
私がしどろもどろしていると、ゴール前で拡声器を握っている石橋先生の怒号が耳に届いた。
「次! モタモタするな。早くせんか!」
私は渡りに舟とばかりにスタートラインまで小走りするが蘭も私の後をひょこひょことついてくる。
「麗美、一緒に走ろ! 競争! 絶対負けないんだから」
そう放った蘭の言葉がやけに意味深げに聞こえるのは私の気のせいなのだろうか? いったいぜんたい『物語』はどこに私を運んでいこうというのか? まさか“あの展開”? もしくは“あの展開”じゃないよね?
蘭と私はスタートラインに並び、両手を地に付けるとクラウチングポーズをとる。
スターターピストルが鳴る前のあの独特な数秒間の中、私はあれやこれやとドラマなんかでよく見受けられるありがちな展開と今のこの現状を照らし合わせていた。『恋のライバル?』『不倫に浮気?』『嫉妬に喧嘩?』……いや、そんなドロドロしたのいらないし。現実だとめんどくさいだけだし。まあ現実じゃないんだけど。
が、それも束の間、轟音と共に私たちは駆け出していた。
余計なことを考えていたせいかスタートダッシュは蘭に一歩後おくれを取るかたちとなってしまった。
が、その後の伸びの凄さに自分でも驚いた。距離をつめ、追い越し、さらにぐいと加速する。
――え? ……え? 何これ?
疾風のように走り抜けている自分自身に得も言われぬ高揚感を覚え、私は全身にぶわりと鳥肌が立つのを感じた。
――私って、こんなに足、速かったっけ?
一秒を何分割もしたようなそんな小刻みな時間を肌で感じた時、やはりここが仮想現実の世界だなんて私は信じられなくなった。これがヴァーチャルだと言うのならば、いったい何が現実なのだ?
どちらせよさほど変わりがないというのなら、もとの世界になど戻りたくないような気もする。だってそれって住み慣れたこの街を離れて見知らぬ外国へ行くようなものじゃないか。
ゴールラインを駆け抜けるとタイムを計っていた石橋先生が近寄ってきた。石橋先生は陸上部の顧問も務めており、しごきが厳しいため生徒からは“ビシバシ”先生とあだ名されている。自分でも気に入ってるのか「よし、今日もビシバシいくぞ!」とダジャレ的に強調してくることもしばしばだ。
「13秒08。また、少し上がったな」
私は胸の前で小さくガッツポーズをしてみせる。「くっそ~!」と蘭が息を切らせながらやってくる。
「どうだ、奥田。陸上、本当にやってみる気はないか?」
――陸上。井戸部くんと同じ部活か。
またもや井戸部くんに関わるキーワードだ。これは、もしや……。
「今だったら九月の新人戦にも間に合うかもしれん。だが、決断するならできるだけ早い方がいいぞ」
そう言ってくる“ビシバシ”に対し「考えておきます……」と曖昧に答えながら、私は黒猫の姿をしたカミジョウが昨夜ベッドで言っていた言葉を思い出していた。
(いや、飼ってないぞ。その設定はさっき俺が付け加えておいた――)
おそらくはそうだ。私が“足が速い”という設定もきっと後から付け加えられたものなんだ……あのカミジョウという〈ストーリー・ライター〉に。
……どうして?
いつもの朝より少し余裕をもって家を出た私はゆっくりと、そして見慣れた景色をあれこれ観察しながら歩いていた。私が暮らしてきた家、毎日歩く学校への通学路、その途中にあるいつも立ち止まっては街を見渡す小高い岡。
この世界が本物でなく偽物であったら?
そんな妄想はこれまで何度もしたことはあった。しかし、本当に……本当に、自分が、仮想世界の中にいるだなんて、そんなこと急に言われたって信じられるわけないじゃん。
夏がすぐそこまでやってきている匂いがする。小学生たちが騒ぎながら駆けていく声が聞こえる。これも、全て偽物。今まで私が見てきたもの、いや、見てきたと思っていたものは全て、偽物……。
ならば偽物である証を探してみよう。そうやって“間違い探し”を私は試みるがどこにもそんな形跡など見当たらない。石をどければ虫も這う。切り株には年輪さえある。そんな、見れば見るほどに完璧な世界。
(さっさと物語を終わらせて、もとの世界へ戻るんだ──)
私ではない本当の私が住む現実の世界がある。
(君がそれを望むのであればの話だがね──)
私はそれを望んでいるのだろうか? そうなった時は、今の私の、奥田麗美としての記憶は消えてしまうのだろうか? 今の私が、本当の私の記憶を忘れてしまっているように。
私は岡の上に立ち、視界に広がる街を見下ろした。
するとどうしたことだろう? 地平線の向こう側からゴゴゴという地鳴りとともにビルよりも山よりも大きい、それはそれは巨大な黒猫の顔が昇ってきたではないか。
………… って ……………… へ? …………。
『この場面は必要だろうか?』
その巨大な黒猫は目を線のように細めると神々しくそう言い放ち、カッと目を見開いた。
『いや、こんな風にキミ自身が感慨に浸っている場面はいらないような気がしてきた。もう一度やり直そう。さあ、そしてさっさと物語を進めようじゃないか。なあ、麗美ちゃん』
て…………な、なんじ
ゃそりゃーーーーっ?!
やっちまったぁ! 久し振りに遅刻かも!
走る。私は必死に走っていた。そのため曲がり角から急に飛び出してきた自転車に反応するのが遅れてしまった。――って、ちょ……何これ! 急に展開変わりすぎだからっ!
「おわっ!」
自転車の方は急停止しようとして軽くスリップしたものの、なんとか運転者が足で踏ん張って転倒を免れたようだった。一方の私といえば前のめりによろめいたもののそのまま体をひねり、軽く尻餅をつく形になってしまった。
「だ、大丈夫ですか?!」と自転車を乗り捨てて慌てて駆け寄ってきたのは井戸部くんだった。こタイミングで偶然ぶつかった相手が他ならぬ井戸部くん。ということは──
あの”カミジョウ“って奴……。
ぬぁ~にが〈脚本家〉だっ!
こんな恥ずかしくなるようなベタベタな展開、今どきあるかいっ!
「あれ……奥田さん? 大丈夫?! ケガしてない?」
「いったたた。ご、ごめんね。遅刻しそうだったから」
私はテヘッと舌を出してみせた。さすがに頭をコツンとまではできなかったが……あ~、いいさいいさ、もうここまできたら何でもやってやろうじゃないの。
「へえ、奥田さんでもそんなことあるんだ」と井戸部くんは少年のように笑った。
「大丈夫! まだ間に合う。さ、乗って」
井戸部くんは自転車を起こし、素早くまたがると後部座席の方を首で促した。
「……え?」
こっ……これはアレじゃないのか? 全国の女子高生が一度は憧れるという好きな男子の自転車の後部座席に横座りして二人乗りするというアレではないのか?
「しっかり掴まっててな。……あ、何だったらしがみついてもらっても一向に構わないんだけど」
そう笑うと井戸部くんは陸上部で鍛え抜かれた健脚を使ってしっかりとペダルを踏み込み、かつ、安全を考慮した運転で走り始めた。
――ま…… まあ、時にはベタな展開も悪くない、かな?
食パンをくわえさせられたわけでもなし、私はそう思ってやることにした。
さすがに始業時間間近のせいか通学路に学生は少なかった。それでも同じ高校の制服を着た生徒たちを追い抜いていくたび、なんだか恥ずかしいような、嬉しいような、そんなちょっとした優越感に私は浸っていた。
――ここは仮想世界なんだから……別に緊張することなんてないんだから。ドキドキなんてしてないんだから……。
さすがにしがみつくことはできなかったが井戸部くんのベルトの辺りを私はしっかり掴んでいた。
ギリギリセーフで校門前に到着したものの井戸部くんは駐輪場まで自転車を移動しなければならない。そのことを察したのか「俺のことはいいから先に行って!」と井戸部くんは校舎を指差した。その言葉が〈 REM 〉によって作り出されたものか、それともあのカミジョウという男が書いたものなのかは知らないが、確かに映画なんかでよくあるセリフだなと私は少し可笑《おか》しくなった。
「ありがとう」と言って自転車から降りる際、さほど自慢でもない胸を少しだけ彼の背中に押し付けてあげたのは井戸部くんへの細やかなお礼だった。
始業ベルまであと五分。私は校舎の時計でそれを確認し、ホッと息をついた。が、それも束の間、三階にある私のクラスの窓際で蘭がこちらを見ているのに気付いた時、私の心臓は再び跳ね上がった。
その蘭の目は図書館の階段で私をそっと見ていたあの時の目と似ているような気がした。私はひきつった口元をなんとか笑顔に変え、顔の横で軽く手を振ってみせる。まるで数秒遅れの鏡のように、蘭も私と同じ行動をとるとそのままカーテンの奥へと引っ込んでしまった。
▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲
「ねえねえ、もう、イトベーユにコクったの?」
そうやって蘭がようやく話しかけてきたのは三時限目の体育の授業で私が腱を伸ばしている時だった。今日は100m走のタイムを計る日である。二組ずつペアになった生徒たちがゴール脇でタイムを計る石橋先生の立つ方に順次走っていく姿が見える。
蘭はさも興味深々といったそぶりを装いニヤニヤと笑いかけてくる。が、私の脳裏にはさっき窓際でこちらを見ていた蘭の表情がまだ焼き付いていたままだった。
やはり蘭は井戸部くんのことが好きなのだろうか? というより私という突然の伏兵の出現によって井戸部くんに対する本当の気持ちに気が付いてしまった、そういうことなのだろうか……?
「へ? いや、そんな……まだだよ」
「そうなの? だって、二人で今朝ラブラブしながら登校してきたじゃーん」
「あれは、その、行き掛かりというか、なんというか……」
「ふーん……行き掛かりねぇ」と、蘭は意味ありげに目を細めると言葉を続けた。
「でも“まだ”ってことはこれからしちゃうってことなのかな? 麗美くん」
私がしどろもどろしていると、ゴール前で拡声器を握っている石橋先生の怒号が耳に届いた。
「次! モタモタするな。早くせんか!」
私は渡りに舟とばかりにスタートラインまで小走りするが蘭も私の後をひょこひょことついてくる。
「麗美、一緒に走ろ! 競争! 絶対負けないんだから」
そう放った蘭の言葉がやけに意味深げに聞こえるのは私の気のせいなのだろうか? いったいぜんたい『物語』はどこに私を運んでいこうというのか? まさか“あの展開”? もしくは“あの展開”じゃないよね?
蘭と私はスタートラインに並び、両手を地に付けるとクラウチングポーズをとる。
スターターピストルが鳴る前のあの独特な数秒間の中、私はあれやこれやとドラマなんかでよく見受けられるありがちな展開と今のこの現状を照らし合わせていた。『恋のライバル?』『不倫に浮気?』『嫉妬に喧嘩?』……いや、そんなドロドロしたのいらないし。現実だとめんどくさいだけだし。まあ現実じゃないんだけど。
が、それも束の間、轟音と共に私たちは駆け出していた。
余計なことを考えていたせいかスタートダッシュは蘭に一歩後おくれを取るかたちとなってしまった。
が、その後の伸びの凄さに自分でも驚いた。距離をつめ、追い越し、さらにぐいと加速する。
――え? ……え? 何これ?
疾風のように走り抜けている自分自身に得も言われぬ高揚感を覚え、私は全身にぶわりと鳥肌が立つのを感じた。
――私って、こんなに足、速かったっけ?
一秒を何分割もしたようなそんな小刻みな時間を肌で感じた時、やはりここが仮想現実の世界だなんて私は信じられなくなった。これがヴァーチャルだと言うのならば、いったい何が現実なのだ?
どちらせよさほど変わりがないというのなら、もとの世界になど戻りたくないような気もする。だってそれって住み慣れたこの街を離れて見知らぬ外国へ行くようなものじゃないか。
ゴールラインを駆け抜けるとタイムを計っていた石橋先生が近寄ってきた。石橋先生は陸上部の顧問も務めており、しごきが厳しいため生徒からは“ビシバシ”先生とあだ名されている。自分でも気に入ってるのか「よし、今日もビシバシいくぞ!」とダジャレ的に強調してくることもしばしばだ。
「13秒08。また、少し上がったな」
私は胸の前で小さくガッツポーズをしてみせる。「くっそ~!」と蘭が息を切らせながらやってくる。
「どうだ、奥田。陸上、本当にやってみる気はないか?」
――陸上。井戸部くんと同じ部活か。
またもや井戸部くんに関わるキーワードだ。これは、もしや……。
「今だったら九月の新人戦にも間に合うかもしれん。だが、決断するならできるだけ早い方がいいぞ」
そう言ってくる“ビシバシ”に対し「考えておきます……」と曖昧に答えながら、私は黒猫の姿をしたカミジョウが昨夜ベッドで言っていた言葉を思い出していた。
(いや、飼ってないぞ。その設定はさっき俺が付け加えておいた――)
おそらくはそうだ。私が“足が速い”という設定もきっと後から付け加えられたものなんだ……あのカミジョウという〈ストーリー・ライター〉に。
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