月時雨(つきしぐれ)が降る夜は きっと誰かが泣いている

寄賀あける

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逆鱗は あごの下

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 鳥たちは夜明け前、東雲しののめにはさえずり始める。僕と隼人はやとそうさんは、そんな鳥たちの声を聞きながら、長い階段を上って行った。さくみちるは階段下に停めた車で待っている。

 僕たちに聞こえているのは周囲の山の鳥たちの声だ。久喜里くきりほこらのある山にすむ鳥たちは声をひそめ、僕たちを見守っていた。龍神に異国の太陽神が面会を求める。前代未聞の出来事、一大事だ。

 山頂に着くと隼人は足を止めサングラスをはずし、眼下に広がる大松おおまつ湖を眺めた。湖を一望できるその場所はわずかに開け、片隅には五十センチほどの高さのコンクリートの土台に小さな祠が乗せらていた。奥にはさらに道が続いている。ここから尾根伝いに大松湖を周遊するハイキングコースへ、途中、分岐点で道を選べば高尾山まで続く。

 不意に隼人の左目が光を放った。ウジャトの目を使ったのだ。光は大松湖に届き、それから本松ダム、さらにダムの向こうの小さな祠、満が神は不在と言った祠を差した。そして目を閉じ、光も消えた。

「奏ちゃん、花束ちょうだい」
湖を見たまま隼人がつぶやくように言った。そして受け取った花束を、顔をうずめるように抱きかかえた。何か小声で言ったようだが僕には判らない言葉だった。そして再び湖を見る。

 花束を隼人は湖に向かって投げた。花束を放した隼人の手は追いかけるように花束に向かう。力を使って花束を導いているのだろう。花束は落下することなくクルクルとせんを描き、ある一点に向かっている。そして遠く、本松ダムに近いところで着水し、沈んでいった。見届けた隼人が振り返り、祠に近づいていく。その時、朝陽が一筋、山頂に差し込んだ。日の出だ。太陽神ホルスが本領を発揮する日中ときが始まる。

 祠に対峙して隼人が立った。

《われは古代エジプトの太陽神ホルス、ハヤブサの化身にてエジプトを守護する者、時に地上の支配者ファラオの象徴なり》
人には聞こえない隼人の声が木霊こだました。
《龍神久喜里くきりに尋ねたき事あり。あらわれたまえ》

 ズンッと、空気が重くなる。かすかかに地面が揺れ始める。するといきなり祠の扉が開き、隼人が驚いて一歩下がる。そして、やはり人には聞こえない声が聞こえた。
《吾を永き眠りから呼び醒ましし者よ。なに用か?》

 目をパチクリさせた隼人、少ししゃがんで祠を覗き込む。おい、おまえ、それは龍神に対して無礼なんじゃないのか?

「いやいやいや……久喜里くきりちゃん、嘘いちゃダメでしょ」
おーーーーい、隼人! 急に態度を変えるな! このニワトリ頭っ! もう少し我慢できないのかよ? てか、大丈夫なのかっ? 龍神に無礼討ちされないかっ?

「ボクが起こしたわけじゃない、久喜里くきりちゃん、ずっと起きてて大松湖と多々井たたい湖に沈んだ命を抱き締めてたよね」

 祠を覗き込むのをやめた隼人、今度は祠に触れようとして手を伸ばす。でも、こちらはすぐに引っ込めた。さすがに龍神もそこまでの無礼は許さなかったと見える。

《ふむ……異国の神よ、異国の守護者よ。が願い、聞き届けたのは貴殿か》
「水没した妖怪たちや、武者の魂のこと? うん、あれはボクがいるべきところに送ったよ。ボクを知ってて頼ってきたんじゃなかったんだね」

《力に導かれたのみ――哀れな乙女を許婚いいなずけのもとに送ってくれたのも貴殿……だがそれは、貴殿のがんでもあった》

「なんだ、判ってるんじゃん ――久喜里くきりちゃん、ほかにも何かボクにして欲しいことがある?」
《もう吾には願うことはない。貴殿はなぜここに来た? 見返りをほっしてか?》

「見返り? 久喜里くきりちゃん、振り返って見たって何もないよ」
隼人、見返りの意味が判らないのか? 龍神、おちょくられたと怒らないか?

「ボクはね、久喜里くきりちゃんに『もう頑張らなくっていい』って言いに来たの」
《うぬ……吾に消えろと言うか?》

「消えろ? ううん、そんなこと言わない。日本は龍の国だもの。龍神がいなくなれば国も亡びる」
《吾はそこまでの神にあらず。流域の氏神に並ぶ者》

「龍だけに流域? 久喜里くきりちゃん、面白いっ! 座布団あげたい」
隼人、それ、龍神には判らないんじゃ? いいや、元ネタ知らない人も多そうだぞ?

「人間って勝手だよね」
急に隼人が話題を変えた。
「自分たちじゃどうにもできなかった頃は、やい、雨を降らせろ、やませろ、氾濫はんらん起こすんじゃない、干ばつもダメだって、いちいち願ってきたくせに、ダム作って堤防作って、治水ですか? それなりにできるようになったら、神に頼っていたことなんか忘れ、神そのものまで忘れちゃう」
隼人……それはおまえの身にも起きたことだよね?

「でもね、祠がある限り、久喜里くきりちゃんはここに居てねってことだと思うよ。それとも、ここに居るのは嫌になった?」
《自ら籠ったこの地、否も応も今更あるものではない》

「でも、寂しいんでしょ?」
地面の揺れが僅かに大きくなったような気がする。隼人、久喜里くきりを怒らせちゃダメだってば。

「奥さん、もう、消えちゃったもんね……」
え? 小母妻おもつが消えた? 小松川は流れてるって言ったじゃないか。

 ピューッと風が急に吹き付けた。山肌から雲が湧き立つ。地揺れはさらに激しさを増し、雲は立ち込めポツポツと雨粒を落とし始める。

 隼人! 龍神の逆鱗げきりんに触れちまったんじゃないのか!?

 奏さんも同じことを考えたのか、
「隼人、山をおりよう、領域から出よう」
と、声をあげる。

 隼人は全く何も感じていないようで、キョトンとしている。
「なんで? まだお話、終わってないよ。ボク、久喜里くきりちゃんとお話ししてるの」

「隼人、おまえ、逆鱗に触れちまったんだよっ!」
「ゲキリン? なに、それ?」

「龍のあごの下にある逆さに生えてるうろこ、触られると龍が激怒するところ」
「ふーーん、猫ちゃんとは違うんだね。でもボク、そんなところ、触ってないよ」

「あぁ、めんどくさい! 龍を激怒させるようなことをおまえは言った、そういうこと!」
「変な奏ちゃん、久喜里くきりちゃんは怒ってなんかないよ」

 えっ? と奏さんが周囲を再確認する。僕も改めて周囲の様子を窺う。確かに、風が吹いて雨が降ってはいるものの、嵐になるような感じじゃない。

久喜里くきりちゃんは判ってても、今まで知らん顔してたことをね、やっと認める気持ちになったの。でも、悲しくて泣いてるの――泣き止むのを待ってあげようよ」
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