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第1話 春、3人の始まり
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第1話 春、3人の始まり
春の風が、桜須学院高校の門をくぐる生徒たちの髪を揺らしていく。
校庭の桜は散りかけ、薄い花弁がアスファルトの上にひっそりと積もっていた。
「ラスト一本、集中! フォーム重視!」
陸上部主将、**川瀬涼賀(かわせ・りょうが)**の声が響く。
涼賀は滝溝中学校出身。100m10秒45、200m20秒97、中学3年の県大会で100m、200mで優勝。その両種目の県中学記録保持者。高校2年のインターハイでも2位という驚異的なタイムと実績を持つ、県内屈指のアスリートだ。温厚で誠実な彼は、部員たちからも絶大な信頼を寄せられている。
部活の片付けが始まった頃、校舎から一人の生徒が歩いてきた。
「涼賀、お疲れさま。今日もストップウォッチが壊れそうな速さだったな」
気さくに声をかけたのは、科学部部長の**坂上大夢(さかがみ・ひろむ)**だ。
滝溝中学校出身。科学オリンピック県大会で1年生で2位、2年生で3位という実績を持つ。
気さくで優しい性格で、涼賀とは小学校からの付き合いになる。
「大夢、部活も今終わったのか?」
「ああ。新しい試薬の反応を見てたら遅くなっちゃって。どうだ、体の調子は」
「絶好調だよ。今年は、去年獲り逃した『一番』を必ず獲りに行く」
涼賀はタオルで汗を拭きながら、爽やかに笑った。二人の間には、長年の友情に裏打ちされた穏やかな時間が流れていた。
2. 届かない水しぶき
その時、校舎の反対側にあるプールから、高く鋭い水しぶきの音が上がった。
涼賀の肩が、微かに跳ねた。
視線を向ければ、そこには水泳部主将・**渡邊拓海(わたなべ・たくみ)**がいるはずだ。彼も滝溝中学校出身で、かつては陸上競技でも全国大会に涼賀と共に出場した、保育園からの親友。
拓海は小学時代から水泳をやっており、中学時代には50m自由形で入賞経験のある実力の持ち主。
涼賀はプールの方を見ようとはせず、ただじっと自分のスパイクの先を見つめた。
(……まだ、練習してるんだな、拓海)
胸の奥が、ちりりと疼く。
高校一年時のある日を境に、二人は言葉を交わすことを止めた。廊下ですれ違っても、視線すら合わせない。決して憎み合っているわけではない。ただ、お互いの存在を感じるだけで、触れてはいけない記憶の蓋が開きそうになるのを、無意識に避けているのだ。
大夢は、そんな涼賀の横顔を静かに見守っていた。
二人の間に何があったのか。なぜこれほどまでに避けるようになったのか。その理由を、大夢が一番知っている。しかし、それを口にすることは決してなかった。
3. 川瀬家の食卓
その夜。川瀬家のリビングには、炒め物の香ばしい匂いが漂っていた。
「涼賀、飯だぞ。今日は親戚の叔母さんが送ってくれた肉を使ったからな」
父・**由嗣(よしつぐ)**が、大皿をテーブルに置いた。由嗣は涼賀が小さい頃に離婚してから、男手一つで涼賀を育ててきた。仕事で忙しい時も、身内の助けを借りながら、涼賀に寂しい思いをさせまいと深い愛情を注いできた。
「ありがとう、父さん。いただきます」
親子二人の静かな夕食。テレビのニュースが流れる中、由嗣がふと箸を止めて切り出した。
「……部活はどうだ。順調か?」
「ああ、仕上がりはいいよ。記録も安定してるし、周りもみんな気合が入ってる」
「そうか。涼賀が頑張ってる姿は、身内のみんなも喜んでる。……大夢くんとも、相変わらず仲が良いんだな」
「うん。今日も部活の後に少し話したよ。あいつ、相変わらず実験ばっかりしてるみたいだけどさ」
涼賀は少し表情を和らげた。大夢の話題は、この家では定番の安心できる会話だ。しかし、由嗣が次に続けた言葉に、涼賀の箸が止まった。
「……そういえば、拓海くんはどうだ。最近、この辺りで見かけないが。あんなにいつも一緒だったのに、不思議なもんだな」
部屋の空気が、ふっと密度を増したような気がした。
父には悪気はない。ただ、幼い頃から家を行き来していた「もう一人の息子」のような拓海のことを、懐かしんでいただけだ。
「……あいつも、水泳で忙しいみたいだよ。練習、きついって聞くし」
涼賀は努めて冷静に、短く答えた。
嘘ではない。だが、本当のことは何一つ言えていない。
高校に入ってから、拓海がこの家の玄関を叩くことは一度もなくなった。その事実を、父はどう思っているのだろうか。
「そうか……。みんなそれぞれ、自分の道で必死なんだな。無理だけはするなよ。辛くなったら、いつでも周りに頼るんだぞ」
「……分かってる」
涼賀は白米を口に運び、父の視線を避けるように俯いた。
温かい食事、自分を信じてくれる父。その幸福の中に、拓海という欠片だけが、どうしても噛み合わないまま残っている。
翌朝。
校庭を走る足音がまだ少ない時間。
涼賀は一人、トラックを走っていた。
春の空気は冷たく、吐く息が白く浮かぶ。
一歩、一歩。
ただ、前を見て走る。
タイムを測るために腕時計を見る。
11.00。
悪くはない。けれど、満足もしていない。
「もう一回いくか」
そう呟いたとき、遠くのプールから、水を切る音が響いた。
規則正しいターン、力強いストローク。
——あの音を、聞き間違えるはずがない。
涼賀は思わず足を止めた。
視線の先に見えるのは、青い水面。
そこに、ひとりの背中があった。
息を吸い、目を逸らす。
再び走り出す足は、少しだけ早かった。
教室に戻ると、大夢が窓際で空を見上げていた。
「また走ってたのか。朝から元気だな」
「体が鈍ると落ち着かないんだ」
「ふーん……」
大夢は何かを察したように、目を細めた。
けれど、それ以上は何も言わない。
その沈黙が、涼賀にはありがたかった。
窓の外では、春の風が再び吹き抜けていった。
まるで何かを運んでくるように。
最強と謳われる三人の部長。
彼らの最後の夏が、すぐそこまで来ていた。
春の風が、桜須学院高校の門をくぐる生徒たちの髪を揺らしていく。
校庭の桜は散りかけ、薄い花弁がアスファルトの上にひっそりと積もっていた。
「ラスト一本、集中! フォーム重視!」
陸上部主将、**川瀬涼賀(かわせ・りょうが)**の声が響く。
涼賀は滝溝中学校出身。100m10秒45、200m20秒97、中学3年の県大会で100m、200mで優勝。その両種目の県中学記録保持者。高校2年のインターハイでも2位という驚異的なタイムと実績を持つ、県内屈指のアスリートだ。温厚で誠実な彼は、部員たちからも絶大な信頼を寄せられている。
部活の片付けが始まった頃、校舎から一人の生徒が歩いてきた。
「涼賀、お疲れさま。今日もストップウォッチが壊れそうな速さだったな」
気さくに声をかけたのは、科学部部長の**坂上大夢(さかがみ・ひろむ)**だ。
滝溝中学校出身。科学オリンピック県大会で1年生で2位、2年生で3位という実績を持つ。
気さくで優しい性格で、涼賀とは小学校からの付き合いになる。
「大夢、部活も今終わったのか?」
「ああ。新しい試薬の反応を見てたら遅くなっちゃって。どうだ、体の調子は」
「絶好調だよ。今年は、去年獲り逃した『一番』を必ず獲りに行く」
涼賀はタオルで汗を拭きながら、爽やかに笑った。二人の間には、長年の友情に裏打ちされた穏やかな時間が流れていた。
2. 届かない水しぶき
その時、校舎の反対側にあるプールから、高く鋭い水しぶきの音が上がった。
涼賀の肩が、微かに跳ねた。
視線を向ければ、そこには水泳部主将・**渡邊拓海(わたなべ・たくみ)**がいるはずだ。彼も滝溝中学校出身で、かつては陸上競技でも全国大会に涼賀と共に出場した、保育園からの親友。
拓海は小学時代から水泳をやっており、中学時代には50m自由形で入賞経験のある実力の持ち主。
涼賀はプールの方を見ようとはせず、ただじっと自分のスパイクの先を見つめた。
(……まだ、練習してるんだな、拓海)
胸の奥が、ちりりと疼く。
高校一年時のある日を境に、二人は言葉を交わすことを止めた。廊下ですれ違っても、視線すら合わせない。決して憎み合っているわけではない。ただ、お互いの存在を感じるだけで、触れてはいけない記憶の蓋が開きそうになるのを、無意識に避けているのだ。
大夢は、そんな涼賀の横顔を静かに見守っていた。
二人の間に何があったのか。なぜこれほどまでに避けるようになったのか。その理由を、大夢が一番知っている。しかし、それを口にすることは決してなかった。
3. 川瀬家の食卓
その夜。川瀬家のリビングには、炒め物の香ばしい匂いが漂っていた。
「涼賀、飯だぞ。今日は親戚の叔母さんが送ってくれた肉を使ったからな」
父・**由嗣(よしつぐ)**が、大皿をテーブルに置いた。由嗣は涼賀が小さい頃に離婚してから、男手一つで涼賀を育ててきた。仕事で忙しい時も、身内の助けを借りながら、涼賀に寂しい思いをさせまいと深い愛情を注いできた。
「ありがとう、父さん。いただきます」
親子二人の静かな夕食。テレビのニュースが流れる中、由嗣がふと箸を止めて切り出した。
「……部活はどうだ。順調か?」
「ああ、仕上がりはいいよ。記録も安定してるし、周りもみんな気合が入ってる」
「そうか。涼賀が頑張ってる姿は、身内のみんなも喜んでる。……大夢くんとも、相変わらず仲が良いんだな」
「うん。今日も部活の後に少し話したよ。あいつ、相変わらず実験ばっかりしてるみたいだけどさ」
涼賀は少し表情を和らげた。大夢の話題は、この家では定番の安心できる会話だ。しかし、由嗣が次に続けた言葉に、涼賀の箸が止まった。
「……そういえば、拓海くんはどうだ。最近、この辺りで見かけないが。あんなにいつも一緒だったのに、不思議なもんだな」
部屋の空気が、ふっと密度を増したような気がした。
父には悪気はない。ただ、幼い頃から家を行き来していた「もう一人の息子」のような拓海のことを、懐かしんでいただけだ。
「……あいつも、水泳で忙しいみたいだよ。練習、きついって聞くし」
涼賀は努めて冷静に、短く答えた。
嘘ではない。だが、本当のことは何一つ言えていない。
高校に入ってから、拓海がこの家の玄関を叩くことは一度もなくなった。その事実を、父はどう思っているのだろうか。
「そうか……。みんなそれぞれ、自分の道で必死なんだな。無理だけはするなよ。辛くなったら、いつでも周りに頼るんだぞ」
「……分かってる」
涼賀は白米を口に運び、父の視線を避けるように俯いた。
温かい食事、自分を信じてくれる父。その幸福の中に、拓海という欠片だけが、どうしても噛み合わないまま残っている。
翌朝。
校庭を走る足音がまだ少ない時間。
涼賀は一人、トラックを走っていた。
春の空気は冷たく、吐く息が白く浮かぶ。
一歩、一歩。
ただ、前を見て走る。
タイムを測るために腕時計を見る。
11.00。
悪くはない。けれど、満足もしていない。
「もう一回いくか」
そう呟いたとき、遠くのプールから、水を切る音が響いた。
規則正しいターン、力強いストローク。
——あの音を、聞き間違えるはずがない。
涼賀は思わず足を止めた。
視線の先に見えるのは、青い水面。
そこに、ひとりの背中があった。
息を吸い、目を逸らす。
再び走り出す足は、少しだけ早かった。
教室に戻ると、大夢が窓際で空を見上げていた。
「また走ってたのか。朝から元気だな」
「体が鈍ると落ち着かないんだ」
「ふーん……」
大夢は何かを察したように、目を細めた。
けれど、それ以上は何も言わない。
その沈黙が、涼賀にはありがたかった。
窓の外では、春の風が再び吹き抜けていった。
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