蜘蛛の巣

猫丸

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 井雲知朱いくもともあきは焦りと後悔を感じていた。
 もっと簡単に近づけると思っていたのだ。
 歓迎会の時にあわよくば仲良くなりたいと思っていた。
 それが無理でも、そこで連絡先を交換して別の機会に、と思っていた。

 歓迎会を社長から提案されたときは、子会社への出向だから、もっと小規模の内輪で行われるんだと思っていた。
 たまたま田中も参加すると知り、伊吹を呼んでもらいたくて「取引先も」と提案したに過ぎない。
 だが、歓迎会は井雲が想像していた以上の規模で行われた。
 社員はこれからも話す機会があるだろう。
 だが、伊吹と接触できるチャンスは作らないとできない。
 なのに、次々と挨拶をしにくる人に阻まれ、挨拶くらいしか話を交わすことができなかった。
 加えて、伊吹は警戒心が強く、近づき難い雰囲気を放っていた。
 やはり強引に呼んでもらったのはまずかったか。
 人混みに遮られ、姿を見るのはなかなか難しかったが、ずっと目の片隅で存在を確認していた。

 凍りついたその表情は、唯一、田中といるときだけ柔らかくなる。
 さり気なく前髪に触れてきた田中に嫌がる素振りもなく、二人がそういう関係ではないとわかっていても、少し嫉妬した。

 貼り付けたような笑顔で、型にはまったような挨拶をされた時、自分はこんなにも伊吹の匂いに反応しているというのに、伊吹は全く気にもとめていないことに気づき、すこし腹が立った。
 自分の香りを意識してほしかった。
 
 帰る気配を感じ、あわてて追いかけると、別の男に声をかけられていた。
 社内でも度々恋愛関係のトラブルを起こしているらしい問題のあるアルファ。
 昼間、そんな報告書を見ていたばかりだったから、伊吹から引き離したくて余計焦った。
 その報告書についての厳重注意も、その男の所属する部のトップに任せておけばよかったのに、つい感情的になってしまった。

 次に会う機会を考えていたところに、たまたま田中が電話で飲みに行く約束をしているのを聞いた。
 どこにいくのか聞いたら、会社から近い居酒屋だという。
 「行きたい」と言ったら、田中とだって飲みに行ったことがないから、社交辞令位に思ったのだろうか。戸惑いながらも「ぜひ」と言ってくれた。
 そして、あの顛末だ。

 井雲は深いため息をついた。

 見目もよく、穏やかな性格の井雲は、今まであまり人から拒否されたことがない。
 それ故に自分が運命を感じている番なら、相手も少なからず自分を意識してくれていると思っていた。
 だから、早く近づきたくて、強引に距離を詰めてしまったのだが。
 今となっては慢心であったことは痛いほどよくわかっている。

 田中の指摘通り、世木伊吹は相当な努力家だった。
 オメガという不利なバース性を隠しながら、国公立の外国語大学を奨学金で卒業。
 それなりに名の知られている一般企業に、通常の採用枠で採用されていた。
 彼の履歴書をみる限り、普通の優秀な男性。
 どこにもオメガというワードは出てこなかった。
 
 加えて、調査会社使って調べた身上調査をみてみると、高校生で唯一の家族と死別。
 その唯一の家族も、番に捨てられ、亡くなる数年前から精神錯乱。
 彼はいつからその母親の世話をし、一人で生きてきたのだろう。
 大学進学とともに上京。
 未成年だったため、未成年後見人の弁護士が進学等でサインをしていた。
 その弁護士を探ればその無責任な父親についてもすぐわかるだろう。

 田中が言っていた。
「すごく複雑な家庭に育ったんだろうな、って思ってました。世代が違うとは言え、普通の家庭でするような当たり前を全く経験してなくて。だからか、俺のくだらない家の話とか、すごく楽しそうに聞いてくれるいいヤツなんですよ」

 あの日から数日、井雲は何度も伊吹の携帯に電話していた。
 全く反応はない。
 呼び出し続けたコールは留守番電話に切り替わり、昨日からは、電源すら入っていない状態になった。
 着信拒否されているのかもしれない、と深い溜め息をついた時、田中が声を掛けてきた。

 田中も井雲と同じように連絡をしていたが、繋がらなくなったという。

 友人とは言え、仕事を介した関係。
 今までの信頼があるからしばらくは目をつぶるが、このままだと、伊吹との契約を打ち切らないと行けない自体に陥る。
 再び伊吹が仕事を望むなら、また継続できるよう、上から口添えできないかと田中が相談してきた。
「公私混同だとはわかってるんですけど、ほっとけなくて…」

 心配だから、帰りがけに伊吹の家に行く、と言っていたので、井雲が代わりに行くことにした。
 田中は難色を示したが、とにかく誠心誠意謝りたいと言ったら渋々了承した。
 まだわずかしか話せていない相手。
 井雲の一目惚れのような相手だったが、不利なバース性をもちながら、自分で人生を切り開いてきた伊吹に対し、井雲は既に尊敬の念を抱いていた。
 友人としてでも良いから関係を改善させたいと思っていた。
 こんなに誰かに惹かれたのは初めてだった。


  ◆


 井雲は、取引先名簿に記載された伊吹の古びたアパートに来ていた。

 通路の照明には蜘蛛の巣が張り、小さな虫が貼り付いている。
 手前の部屋の玄関横にはビールの缶や酒の空き瓶をまとめた袋が無造作に置かれていて、通行の邪魔になっていた。
 玄関の横に雨ざらしになった古い型の洗濯機があり、キッチンの窓の前には糸が切れ、竹がなくなり、3分の1ほどは隠れていないすだれがぶら下がっていた。
 
 井雲は少し眉をひそめ、呼び鈴を押した。
 反応はない。

「世木くん、ごめん。井雲だけど、ちょっと話を聞いてくれるかな」

 居留守を使っているのか。
 携帯にかけてみる。やはり『電波の通じないところにあるか、おかけになった電話は…』というアナウンスが流れるだけだった。

「世木くん、この間は本当に申し訳なかった。直接会って謝りたいんだ。空けてくれないか?」

 伊吹のフェロモンの香りがするから、いるのは間違いないと思うがだが弱い。
 もしかしたらただの残り香か。
 もう一度呼び鈴を押して、玄関ドアに耳を近づけて、気配を伺う。
 かすかに苦しそうに呻く声が聞こえた。

「世木くん!?世木くん!?」

 思わず玄関ドアをぶち破り、室内へ入る。
 古いそのドアは、井雲が体当りしたら、簡単に壊れた。


  ◆

 
 伊吹は夢を見ていた。
 自分が蝶になり、蜘蛛に捕食される夢。

 蜘蛛の巣に触れてしまった自分は、あがいてもあがいても逃げ出すことは出来ない。
 葉や木や他の物に擬態しても、見つかったら最後、ただ強き者に翻弄されて生きていく。
 暴れてやっとの思いで切った蜘蛛の糸は、再び伊吹を捕まえるために再生され、もがいてももがいても複雑に身体に絡みついてきた。
 その糸は伊吹を締め付け、抵抗する気力を奪っていく。
 誰も助けてはくれない。
 ただその巣の持ち主の存在を感じ怯える。

 あぁ、疲れたな。
 もういいかな。
 捕食者がじわじわと近づいてくる。
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