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井雲のマンションの空いている部屋を伊吹の部屋として与えられた。
「アルファと一緒じゃ心配だろうから」ときちんと鍵のかかる部屋だった。
もっとも玄関ドアを壊してしまうくらいだから、井雲が本気になればこんなドアひとたまりもないだろうが、傷つける意図はないという意思表示に少しほっとした。
簡単に食事をして、入れてもらったお風呂に入る。
温かいお湯に浸かると、身体のこわばりが解けていくようで、すこし現実を忘れて幸せな気分になった。
お互い緊張もあって、あまり会話をすることなく、挨拶をしてそれぞれの部屋へ。
疲れているはずなのに、目が冴えて眠れない。
何度も寝返りを打った後、寝ることを諦めて、水をもらおうとキッチンにいく。
リビングにはお酒を飲んでいる井雲がいた。
ロックグラスに、琥珀色のお酒。
伊吹に気づくと、ふっと軽く微笑んだ。
「寝れないのか?」
「ええ、ちょっと…」
「枕が違うからか?明日持ってこようか?」
「いえ、きっと病院で寝すぎたんだと思います」
軽く笑って水をもらう。
「……寝れないのなら少し飲みながら話でもしないか?」
伊吹は同意したが、お酒は断った。
「その、この間は本当にすまなかった。なんと謝ったら良いのか…」
「それは病院で謝ってもらったし、もういいですよ」
昼間、田中と電話で話して、田中が変わらない調子で接してくれたので、少し心が軽くなっていて少し笑顔が出た。
井雲はそれに安心したのか、続けて話し始めた。
「それから…世木くんの取引先データを見て、すごく努力家で優秀な人であるってこともわかってね、俺は君を尊敬してるんだ」
調査会社を使って身上調査をしたことは伏せて話し始める。
「…オメガなのに?」
言ったあとに少し意地悪な言い方だったかな、と思った。
「いや、そういう事ではなくて!!
……いや、正直に言うとそれもあるな。
昔に比べて改善されてるとはいえ、オメガに対する偏見は厳しいだろ?
法律や制度で対応しても、奇異の目で見られることも多いだろうし…特に男性のオメガは……。
しかも君は親が早くに亡くなっていると聞いた。
そんな環境だったにも関わらず、自分一人の努力でこれだけの結果を出していることに、俺はすごく感動してね。
並大抵の苦労じゃなかったはずだ。
アルファの人間は、その一般に言われている能力だけでなく、環境も恵まれていることが多いだろ?
まぁ、俺も人のこと言えないけどな。
でも、それも含めて自分の実力だと勘違いしているやつもたくさんいる。
その…はじめは…世木くんにとっては嫌なことかもしれないが、君の香りに惹かれたのは事実なんだ…。
今もすごく君の香りに惹かれているけど…でも、多分これは世木くんが作り上げてきた、君の人生の香りだからこんなにも魅力的なんだと思っていて……君にすごく魅力を感じている。
世木くんは本当にすごい人だよ。
だから、まずは友人になってくれないかな?」
そこまで、真摯に正直に語られて、頷く以外の返事はできなかった。
ただひたすらがむしゃらに生きてきた結果をこのように思ったくれてる人がいて、ただただ人に認めてもらえたことが嬉しくて、溢れてきた涙を見せないよう、うつむいて泣いた。
井雲は泣き続ける伊吹の背中を、はじめは少し戸惑いながら、でも伊吹が嫌がらないのがわかると優しくぽんぽんと叩いた。
「君は本当に素晴らしい人だよ」
◆
井雲との生活は、伊吹が戸惑うくらい穏やかだった。
『体調管理』という言葉のとおり、井雲は忙しい合間に伊吹の食事の世話をまめにした。
「こんなに食べれませんよ」と言うくらい毎回たくさんの食事が出てくる。
テイクアウトのこともあるけれど、忙しい仕事の合間にまめに井雲自身が作ってくれる。
人というのはゲンキンなもので、お腹が満たされると警戒心が薄れてくる。
気づくと笑顔になっていることも増えた。
今までの人生では考えられないことだった。
だが、ここはドアが直るまでの仮住まい。
慣れてはいけないと、自制する気持ちもあった。
「あの…うちのドア、いつ頃直りそうですか?」
夕食のときに思い切って聞いてみる。
「あ、あぁそうだな。直ったら連絡するって業者も言ってたからまた聞いてみるよ」
はぐらかされたが、もう少しこの生活が続くんだと思うと、伊吹はほっとした。
誰かと一緒にいる生活、誰かに守ってもらえる生活というのは、こんなにも心穏やかなものなのか。
それとも相手が井雲だからなのか。
井雲と一緒に住み始めて、心が弱くなっている。
再び一人で立つことができるだろうか?
*
「やっぱ…自宅のほうが落ち着く?」
食事の後、二人でソファで並びながらテレビをみていると、恐る恐る井雲は聞いてきた。
先程の話からだいぶ時間がたっていたから、一瞬何の話かわからなかった。
「え?…あぁ、自宅が落ち着くとかじゃなくて…ずっと居候しているのが井雲さんに申し訳なくて。そろそろ働かないといけないですしね」
「俺は世木くんがうちにいてくれて嬉しいよ。できればずっといてほしいくらい」
「えっと…それは…」
どういう意味だろう?
「そうだよね…でも、もう少し世木くんの体調に不安がなくなるまでうちにいてくれないかな?」
そういって、井雲側に置いていた伊吹の手を握った。
「……はい…」
始めは軽く触れる程度だったが、伊吹が嫌がらないと、最近は少しずつスキンシップが増えてきている。
一緒にいる期間が長くなるにつれ、井雲の空間に伊吹の物が一つずつ増えていく。
それに少し幸せを感じている自分に伊吹は戸惑っていた。
◆
結局、伊吹は少しずつ翻訳の仕事を再開することになった。
田中もかなり心配していたらしい。
再開したい旨の連絡をしたら「こき使ってやるから覚悟しとけ!」なんて言っていたけれど、比較的締切に余裕のある案件を少しずつ回してくれた。
あと、居候中は少し家事をやらせてもらうようになった。
井雲ほど上手ではないが、簡単な料理なら伊吹も作れたし、何を出しても「美味しい」と言って笑顔で食べてくれた。
照れくさくて、嬉しくて、自然と笑顔になった。
自分一人だったら、無頓着だった食事も、誰かと一緒に食べるとこんなに美味しいんだと言う事を伊吹は人生で初めて知った。
◆
「はい、病院行って抑制剤もらってきました。もうマンションつくのでお迎えとかいらないですよ。じゃ、また夜に」
マンションの前で井雲との通話を切った。
病院帰りに、買い物を終えて帰ってくる所で井雲から電話がかかってきたのだ。
井雲と話すときは自然と笑顔になっている自分に気づき、少し驚いた。
管理人室の前で、上品な女性が管理人と話をしていた。
井雲と一緒に住み始めて顔見知りになったその管理人に挨拶し通り過ぎようとすると、「ちょうどよかった」と管理人に呼び止められた。
その女性は井雲の母親だった。
井雲が不在だったから、管理人さんに荷物を預けて帰ろうとしたところ、おしゃべりに花が咲いたらしい。
「人気のパン屋さんで限定の商品。やっと買えたから知朱にもおすそわけ、と思ってきたのよ。でもあなたと住んでるならもっと買ってきてあげればよかったわね。知朱ったら何も言わないから」
優しげな目元が井雲に似ている。
「いえ、あの…えっと…僕は居候で、知朱…さんにお世話になっているものでして…」
井雲との関係は、以前より気安いものになっていたし、もしまだ伊吹を好きだと言ってくれるのなら、受け入れたい気持ちになってきてはいたが、それは庇護される安心感からくるものなのか、愛情なのかイマイチ判断がつかず、相変わらず家主と居候の関係だった。
誤解を招くような言動は控えるべきだと思って言葉を濁す。
困って井雲に連絡すると、「まだいた!?とっくに帰ったと思ったのに!!すぐ戻る!!」という返事が帰ってきた。
部屋に入り、紅茶を出す。
自分の家でもないのに変な気分だったが、このマンションの近くのレストランが美味しいとか、商店街の肉屋のコロッケが美味しいとか、そんな他愛もない雑談をしていると井雲が帰ってきた。
「母さん、世木くんに余計なこと言ってない?」
「えー、何も言ってないわよ?会って早々そんな挨拶なんて、母さんをなんだと思ってるの!」
「難しい時期なんだよ。俺の片思い中なの。今、口説いてる最中なんだよ」
伊吹の顔がぽぽぽと赤くなった。
「あら?やっぱりそうなの?あらあら、素敵♡こんな可愛らしい子なのね、知朱、頑張りなさいよー」
「母さんに言われなくても頑張ってるって」
「ふふ、伊吹くん…だっけ?知朱は一度決めると必ずやり遂げる子だから、嫌だったらハッキリ言ってあげてね。じゃないとこの子簡単にはあなたのこと諦めないわよ?」
「母さん、余計なこと言わないで。どっちの味方なんだよ」
「その…オメガの男なんて気持ち悪くないんですか…?その…世間体もあるし…」
「全然?知朱が好きならそれでかまわないわ。それに、私もオメガだし。オメガが気持ち悪いなんて言ったらぶん殴っちゃうわ!!」
「そ、そういう意味ではなくて!!」
ふざけて拳をあげる知朱の母にあわてて訂正する。
知朱は拳を避けるジェスチャーをしながら笑っていた。
「ふふふ、冗談よ。伊吹くんがあまりに深刻に聞くからからかっちゃった。そうねぇ、女だからまだ楽だったとは思うけど…それに私は早くから知朱のお父さんに出会えて、大切にしてもらえたから幸せだったけど…男性は大変だったでしょ?」
「母さん、世木くんは早くに親を亡くしてるんだよ。でも自分の力で人生切り開いてきてて…本当にすごくがんばり屋さんで、素敵な人なんだよ…ね、世木くん?」
「いえ…そんな…」
「まぁ、可愛らしいのに、そんなしっかりした子なのね!そんな人がうちの息子を選んでくれたら私も嬉しいわ。知朱はちょっと甘いところがあるから。知朱、頑張りなさいよ!絶対捕まえなきゃだめよ?」
「わかってるって」
「伊吹くん、知朱のことはともかく、苦労してきた分幸せになりなさい。ううん、なれる。あなたにはそういう将来が似合うわ」
井雲の優しさは親譲りなんだと、どうしようもなく心がくすぐられて、涙が溢れてきた。
「あら、大変!泣かせてしまったわ」
「うぅっ…すみません」
隣に移動した知朱の母が、泣き止むまで子供をあやすように背中を優しくなでてくれた。
井雲は何も言わず優しく見守ってくれている。
伊吹の中にいる幼い日の自分が泣いている。
求めても与えられなかったもの。
いつの間にか求めることすら諦めてしまったもの。
いままで抑えてきた感情が溢れ出してきた。
「アルファと一緒じゃ心配だろうから」ときちんと鍵のかかる部屋だった。
もっとも玄関ドアを壊してしまうくらいだから、井雲が本気になればこんなドアひとたまりもないだろうが、傷つける意図はないという意思表示に少しほっとした。
簡単に食事をして、入れてもらったお風呂に入る。
温かいお湯に浸かると、身体のこわばりが解けていくようで、すこし現実を忘れて幸せな気分になった。
お互い緊張もあって、あまり会話をすることなく、挨拶をしてそれぞれの部屋へ。
疲れているはずなのに、目が冴えて眠れない。
何度も寝返りを打った後、寝ることを諦めて、水をもらおうとキッチンにいく。
リビングにはお酒を飲んでいる井雲がいた。
ロックグラスに、琥珀色のお酒。
伊吹に気づくと、ふっと軽く微笑んだ。
「寝れないのか?」
「ええ、ちょっと…」
「枕が違うからか?明日持ってこようか?」
「いえ、きっと病院で寝すぎたんだと思います」
軽く笑って水をもらう。
「……寝れないのなら少し飲みながら話でもしないか?」
伊吹は同意したが、お酒は断った。
「その、この間は本当にすまなかった。なんと謝ったら良いのか…」
「それは病院で謝ってもらったし、もういいですよ」
昼間、田中と電話で話して、田中が変わらない調子で接してくれたので、少し心が軽くなっていて少し笑顔が出た。
井雲はそれに安心したのか、続けて話し始めた。
「それから…世木くんの取引先データを見て、すごく努力家で優秀な人であるってこともわかってね、俺は君を尊敬してるんだ」
調査会社を使って身上調査をしたことは伏せて話し始める。
「…オメガなのに?」
言ったあとに少し意地悪な言い方だったかな、と思った。
「いや、そういう事ではなくて!!
……いや、正直に言うとそれもあるな。
昔に比べて改善されてるとはいえ、オメガに対する偏見は厳しいだろ?
法律や制度で対応しても、奇異の目で見られることも多いだろうし…特に男性のオメガは……。
しかも君は親が早くに亡くなっていると聞いた。
そんな環境だったにも関わらず、自分一人の努力でこれだけの結果を出していることに、俺はすごく感動してね。
並大抵の苦労じゃなかったはずだ。
アルファの人間は、その一般に言われている能力だけでなく、環境も恵まれていることが多いだろ?
まぁ、俺も人のこと言えないけどな。
でも、それも含めて自分の実力だと勘違いしているやつもたくさんいる。
その…はじめは…世木くんにとっては嫌なことかもしれないが、君の香りに惹かれたのは事実なんだ…。
今もすごく君の香りに惹かれているけど…でも、多分これは世木くんが作り上げてきた、君の人生の香りだからこんなにも魅力的なんだと思っていて……君にすごく魅力を感じている。
世木くんは本当にすごい人だよ。
だから、まずは友人になってくれないかな?」
そこまで、真摯に正直に語られて、頷く以外の返事はできなかった。
ただひたすらがむしゃらに生きてきた結果をこのように思ったくれてる人がいて、ただただ人に認めてもらえたことが嬉しくて、溢れてきた涙を見せないよう、うつむいて泣いた。
井雲は泣き続ける伊吹の背中を、はじめは少し戸惑いながら、でも伊吹が嫌がらないのがわかると優しくぽんぽんと叩いた。
「君は本当に素晴らしい人だよ」
◆
井雲との生活は、伊吹が戸惑うくらい穏やかだった。
『体調管理』という言葉のとおり、井雲は忙しい合間に伊吹の食事の世話をまめにした。
「こんなに食べれませんよ」と言うくらい毎回たくさんの食事が出てくる。
テイクアウトのこともあるけれど、忙しい仕事の合間にまめに井雲自身が作ってくれる。
人というのはゲンキンなもので、お腹が満たされると警戒心が薄れてくる。
気づくと笑顔になっていることも増えた。
今までの人生では考えられないことだった。
だが、ここはドアが直るまでの仮住まい。
慣れてはいけないと、自制する気持ちもあった。
「あの…うちのドア、いつ頃直りそうですか?」
夕食のときに思い切って聞いてみる。
「あ、あぁそうだな。直ったら連絡するって業者も言ってたからまた聞いてみるよ」
はぐらかされたが、もう少しこの生活が続くんだと思うと、伊吹はほっとした。
誰かと一緒にいる生活、誰かに守ってもらえる生活というのは、こんなにも心穏やかなものなのか。
それとも相手が井雲だからなのか。
井雲と一緒に住み始めて、心が弱くなっている。
再び一人で立つことができるだろうか?
*
「やっぱ…自宅のほうが落ち着く?」
食事の後、二人でソファで並びながらテレビをみていると、恐る恐る井雲は聞いてきた。
先程の話からだいぶ時間がたっていたから、一瞬何の話かわからなかった。
「え?…あぁ、自宅が落ち着くとかじゃなくて…ずっと居候しているのが井雲さんに申し訳なくて。そろそろ働かないといけないですしね」
「俺は世木くんがうちにいてくれて嬉しいよ。できればずっといてほしいくらい」
「えっと…それは…」
どういう意味だろう?
「そうだよね…でも、もう少し世木くんの体調に不安がなくなるまでうちにいてくれないかな?」
そういって、井雲側に置いていた伊吹の手を握った。
「……はい…」
始めは軽く触れる程度だったが、伊吹が嫌がらないと、最近は少しずつスキンシップが増えてきている。
一緒にいる期間が長くなるにつれ、井雲の空間に伊吹の物が一つずつ増えていく。
それに少し幸せを感じている自分に伊吹は戸惑っていた。
◆
結局、伊吹は少しずつ翻訳の仕事を再開することになった。
田中もかなり心配していたらしい。
再開したい旨の連絡をしたら「こき使ってやるから覚悟しとけ!」なんて言っていたけれど、比較的締切に余裕のある案件を少しずつ回してくれた。
あと、居候中は少し家事をやらせてもらうようになった。
井雲ほど上手ではないが、簡単な料理なら伊吹も作れたし、何を出しても「美味しい」と言って笑顔で食べてくれた。
照れくさくて、嬉しくて、自然と笑顔になった。
自分一人だったら、無頓着だった食事も、誰かと一緒に食べるとこんなに美味しいんだと言う事を伊吹は人生で初めて知った。
◆
「はい、病院行って抑制剤もらってきました。もうマンションつくのでお迎えとかいらないですよ。じゃ、また夜に」
マンションの前で井雲との通話を切った。
病院帰りに、買い物を終えて帰ってくる所で井雲から電話がかかってきたのだ。
井雲と話すときは自然と笑顔になっている自分に気づき、少し驚いた。
管理人室の前で、上品な女性が管理人と話をしていた。
井雲と一緒に住み始めて顔見知りになったその管理人に挨拶し通り過ぎようとすると、「ちょうどよかった」と管理人に呼び止められた。
その女性は井雲の母親だった。
井雲が不在だったから、管理人さんに荷物を預けて帰ろうとしたところ、おしゃべりに花が咲いたらしい。
「人気のパン屋さんで限定の商品。やっと買えたから知朱にもおすそわけ、と思ってきたのよ。でもあなたと住んでるならもっと買ってきてあげればよかったわね。知朱ったら何も言わないから」
優しげな目元が井雲に似ている。
「いえ、あの…えっと…僕は居候で、知朱…さんにお世話になっているものでして…」
井雲との関係は、以前より気安いものになっていたし、もしまだ伊吹を好きだと言ってくれるのなら、受け入れたい気持ちになってきてはいたが、それは庇護される安心感からくるものなのか、愛情なのかイマイチ判断がつかず、相変わらず家主と居候の関係だった。
誤解を招くような言動は控えるべきだと思って言葉を濁す。
困って井雲に連絡すると、「まだいた!?とっくに帰ったと思ったのに!!すぐ戻る!!」という返事が帰ってきた。
部屋に入り、紅茶を出す。
自分の家でもないのに変な気分だったが、このマンションの近くのレストランが美味しいとか、商店街の肉屋のコロッケが美味しいとか、そんな他愛もない雑談をしていると井雲が帰ってきた。
「母さん、世木くんに余計なこと言ってない?」
「えー、何も言ってないわよ?会って早々そんな挨拶なんて、母さんをなんだと思ってるの!」
「難しい時期なんだよ。俺の片思い中なの。今、口説いてる最中なんだよ」
伊吹の顔がぽぽぽと赤くなった。
「あら?やっぱりそうなの?あらあら、素敵♡こんな可愛らしい子なのね、知朱、頑張りなさいよー」
「母さんに言われなくても頑張ってるって」
「ふふ、伊吹くん…だっけ?知朱は一度決めると必ずやり遂げる子だから、嫌だったらハッキリ言ってあげてね。じゃないとこの子簡単にはあなたのこと諦めないわよ?」
「母さん、余計なこと言わないで。どっちの味方なんだよ」
「その…オメガの男なんて気持ち悪くないんですか…?その…世間体もあるし…」
「全然?知朱が好きならそれでかまわないわ。それに、私もオメガだし。オメガが気持ち悪いなんて言ったらぶん殴っちゃうわ!!」
「そ、そういう意味ではなくて!!」
ふざけて拳をあげる知朱の母にあわてて訂正する。
知朱は拳を避けるジェスチャーをしながら笑っていた。
「ふふふ、冗談よ。伊吹くんがあまりに深刻に聞くからからかっちゃった。そうねぇ、女だからまだ楽だったとは思うけど…それに私は早くから知朱のお父さんに出会えて、大切にしてもらえたから幸せだったけど…男性は大変だったでしょ?」
「母さん、世木くんは早くに親を亡くしてるんだよ。でも自分の力で人生切り開いてきてて…本当にすごくがんばり屋さんで、素敵な人なんだよ…ね、世木くん?」
「いえ…そんな…」
「まぁ、可愛らしいのに、そんなしっかりした子なのね!そんな人がうちの息子を選んでくれたら私も嬉しいわ。知朱はちょっと甘いところがあるから。知朱、頑張りなさいよ!絶対捕まえなきゃだめよ?」
「わかってるって」
「伊吹くん、知朱のことはともかく、苦労してきた分幸せになりなさい。ううん、なれる。あなたにはそういう将来が似合うわ」
井雲の優しさは親譲りなんだと、どうしようもなく心がくすぐられて、涙が溢れてきた。
「あら、大変!泣かせてしまったわ」
「うぅっ…すみません」
隣に移動した知朱の母が、泣き止むまで子供をあやすように背中を優しくなでてくれた。
井雲は何も言わず優しく見守ってくれている。
伊吹の中にいる幼い日の自分が泣いている。
求めても与えられなかったもの。
いつの間にか求めることすら諦めてしまったもの。
いままで抑えてきた感情が溢れ出してきた。
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