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エクソシストは魔を祓う
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日本には桜前線という言葉があるらしい。桜の開花予想日を結んだ線で、造語らしい。私たちの暮らすこの地域も、いよいよ桜が開花し始めた。四月の下旬――どうやらこの土地は、日本の中では桜の開花が遅い地方らしい。このレジャー施設には桜が多く植えられている。春になると、ここは人々で埋め尽くされたのだろう。だが、いまとなっては花見をするのもわずか四名だ。かつて栄華を極めた桜も、これでは無念だろう。私はなんとなく、イタリアの農園を思い出していた。
ノエルとリリアンは存外に仲よく修練をしているようだった。時折、様子を見に広場へ足を運ぶと、笑い声が聞こえたりする。
「ちょっと、リリアン。いまのは卑怯よ」
どうやらリリアンが体術以外の攻撃をしたようだ。
「スポーツじゃないんだから、卑怯だなんてお門違いよ」
母親を失った少女と、子を望む女、か。だが、母子というよりあれでは姉妹だった。
「ねぇ、ヴィンセント」リリアンが私に耳打ちした。「あの子、飲み込み早くて、私もう余裕ないんだけど」
年の功のアドバンテージは早々になくなったらしい。
「若いからな。頭が柔らかいんだろう」
リリアンは納得いかない様子だった。私からすれば、彼女も充分に若い。
思った通り、リリアンは竹を割ったような性格だった。敵と認識すれば狂暴だが、害がないとわかると、過去のことは忘れて胸襟を開いて話をする。ある意味では手玉に取りやすい相手とも言える。
ふたりが修練する一方で、男組の私とカーティスはたびたび街へ採血しに行った。まるで出稼ぎする夫だ。模擬戦闘とは言え、全力に近い動きをするため血の消費が激しく、貯蔵していた血液パックはすぐになくなってしまうのだ。採血しに行くたびに、ノエルは申しわけなさそうに縮こまり、謝ってきた。私が気にしないように言いつけると、彼女の瞳にはより一層、決意の炎が宿った。
「あんた、ノエルちゃんには随分と甘いじゃないか」
カーティスとふたりで街へ出かけ、人間を魔眼で支配しつつ採血していると、彼は何気なくたずねてきた。
「あの子は肉体的には完成されていても、精神はまだ子どもだからな。誰かの庇護が必要だ」
「ふぅん。つまらない大人の返答だな。俺が聞きたいのは、もっとこう、ヴィンセント自身の言葉なんだが」
「言っている意味がわからんな。……終わったのなら、さっさと帰るぞ」
「わかってるはずだ。ヴィンセントほどの力の精神ならば、ひとりで生きていくほうが楽だろう? ノエルちゃんは強力な魔性を持ってる。だが、それはいいことばかりではない。むしろ、ヴィンセントの思想や理念からすればリスクでしかないはずだ。なのに、なぜともにいる。吸血鬼にした責任感か? それとも、使える駒に仕立て上げるつもりか?」
普段からおしゃべりなやつだが、今宵は特にしつこい。
「そんなことをお前に話す必要があるのか?」
「うーん、ないな」カーティスは悩むフリをして言った。「ただの興味本位だ」
私は呆れてものも言えず、無言のままに住処へ飛び立った。
……けして、責任感からではない。手駒にするつもりもない。ならばなぜ、私はノエルとともに生きると決めたのか。彼女を吸血鬼にしたのは、彼女の死に際と自分のそれを重ねたためだ。その時はそれ以上の理由はなかったはずだ。だが、いまはそれを後悔していない。むしろ見殺しにしていたらと思うと、背筋が凍る。
ノエルは私を求め、そして非人間である私を受け入れてくれた。私を理解しようと努力し、私の弱さを補ってくれた。彼女のその未熟さが、その屈託のない笑顔が、私の冷えた心を暖めてくれる。
カーティスの言うように、私はひとりで生きていける自信があった。いままでも、そしてこれからも。私にはそれだけの知識と経験がある。しかし、ノエルといる幸福を知ってしまった以上、ひとりで生きていくのは抵抗がある。ディランを失い、自分でも気づかなかった心の隙間を彼女は埋めてくれた。
もちろん、ノエルはディランの代わりではない。むしろ、私が彼の歩んだ道を踏襲しているのだ。孤独に獣として育ち、世界を知ることで彼は人間に憧れた。そして彼は、人間はひとりでは生きていけないと知って、他者とのつながりを求めて私を眷属にし、人間になろうとした。私は利用されたようにも見えるが、彼の姿を思い浮かべると、どうしてもそうは思えない。私は命を救われ、彼とともに生きたことを幸福に思うし、彼もまたそうだったに違いない。私たちの間に友情は成立していた。
私もディランと同じように、ノエルを幸福に導いてやれれば幸いだ。
――思えば、私のそばには常に誰かがいた。そのおかげで孤独が絶望であることを、人間時代の最期で痛いほどわかっていたはずなのだが、すっかり忘れてしまっていた。村の最後の生き残りとなった時、私は暗黒の世界に落とされたような気持になった。つい先ほどまで、互いに励まし合っていた村人がもの言わぬ肉の塊となる。悲しみから大声を上げても、虚しく残響するだけであった。この世界にはもう、人はいないのではないか。たったひとり生き残り、もがいているだけではないのか――そんな錯覚に陥ったのだった。
そんな暗黒の世界に光が差すように手を差し伸べてくれたのが、ディランである。千年前の記憶だが、それは私の深層で大きな影響を与えているのだろう。
ノエルもそうだったのかもしれない。周囲にクラスメートなり教師なりはいたが、心の中ではそいつらとはつながっていなかった。そして、たったひとりの肉親――たったひとりの理解者もいなくなり、心は孤独に、世界は暗黒へと様相を変えたのだろう。……私は彼女の世界を照らす光となれるのだろうか。その答えは、まだ出ていないような気がする。
ノエルに強さや能力は求めない。利用価値などもってのほかだ。ただ、彼女が私に笑顔を向け、私がそれに応えてやれればそれでいい。彼女は強くなると息巻いているが、強くなろうが弱くなろうが、私の中で彼女の位置は何も変わらない。そばにいるだけで、私は充分だった。
私とカーティスが住処に戻ると、女ふたりも修練は一時中断し、本館のロビーで談笑することになった。最近この時間になると、ここで談笑することが日課となっていた。革が裂けて綿が飛び出しているソファに座る。こんなナリだが、もともと高級なソファなのだろう、座り心地は悪くない。
私がノエルに血液パックを渡すと、彼女は恐縮しつつもうれしそうに受け取った。リリアンとカーティスも、三人掛けのソファにどっかりと深く座る。
「あー、疲れた。子守も楽じゃないわ」リリアンが血液パックを咥えながらしゃべった。「でも将来の予行演習にちょうどいいわね」
将来とは子どもが生まれた時のことだろう。叶わぬ夢だ。捕らぬ狸の皮算用である。
「ふーん、そう」ノエルがいたずらっぽい笑みを浮かべる。「でも、子どもに圧倒される親なんて頼りないでしょう? いまからでも子どもは諦めたほうがいいんじゃない?」
字面では罵り合っているが、ふたりは楽しそうだった。悪口で冗談を言えるようになるほど、ふたりの仲は進展している。修練を通すことで親睦を深めたようだ。
「大丈夫さ。俺とリリアンじゃあ、ノエルちゃんみたいな化け物は生まれっこない」
「失礼な! 花も恥じらう女子中学生になんてことを!」
「いやいや、女子中学生って、もうすぐ五月よ? あんたもう卒業してるでしょ」
三人は自由に思ったことを発言している。私は会話に入らず、黙っていた。ふたりきりで話すのになんら不自由はないが、大勢の中で発言するのは私には不得手なことだった。
「ところで」三人の会話が途切れたのを見計らって、私はおもむろに口を開いた。「ふたりはここを住処にしてどれぐらい経つんだ?」
「そうだな」質問に答えたのはカーティスだった。「ちょうど一年は経ったんじゃないか」
彼はリリアンに目で確認した。彼女は首肯した。
「なるほど。それで、年間でどれぐらいの人間がここを訪れた?」
「ふたり、ぐらいだったと思う。それがどうかしたのか」
「思ったより少ないな。やはり、ここへ唯一つながる道路が塞がれているのが大きいな」
「まぁな。あれは俺たちが崩したもんだし、狙い通りだ」
やはり、あの土砂崩れは人為的なものだったか。だが、効果は聞いての通りのようだ。
「それで、そのふたりはどうだった」
「どうって言われてもな。根性のある廃墟マニアなんだろう、あの道なき山道を登ってくるぐらいだからな。それでも、しばらく写真を撮ってから引き揚げたぜ」
「その写真にふたりの痕跡は写っていないな?」
当然、とカーティスはうなずいた。いまの世の中は地球の裏側にいても隣にいるようなものだと、身をもって知っている。慎重になりすぎるぐらいがちょうどいいだろう。
「突然どうしたんだ? 何か気になることでもあるのか」
「いや……なんとなく、気になっただけだ」
本来ならば彼らと同居するとなった時に聞くべきことだ。いまさら聞くなど危機管理がなっていないな、と自省した。――思えばこれは、虫の知らせだったのかもしれない。
「ねぇねぇ、リリアンとカーティスって名前は、主からもらった名前なの?」
私が納得したのを確認し、ノエルは雑談に戻った。
「そんなわけないじゃない。そんな名前、自立してからすぐに捨ててやったわよ」
リリアンはいやなことを思い出したようで、眉間に皺を寄せた。その発言に、なぜか私は不安になった。
「私もカーティスも、人間のころからの本名よ。ノエルは……違うわよね、日本人だし」
「ええ。あたしの名前はヴィーからもらったの。それで、ふたりの名字――ファミリーネームっていうのかしら? それはなんていうの?」
「私はカルヴァート。リリアン・カルヴァートよ。いい名前でしょ」
「俺はカーティス・レミントンだ。吸血鬼になるとファミリーネームなんて呼ばれないからな。久しぶりに自分のフルネームを言った気がする。――で、ノエルの本名はなんていうんだ?」
「ほんとは、ヴィーからいただいた名前で充分なんだけど、言い出しっぺだから教えてあげる。あたしの名前はね、遠野希美っていうの」
トオノノゾミ……何かが引っかかった。
「ノゾミって希望って意味よね。いいじゃない」リリアンは言った。
「日本人だから、名前も漢字なんだろ。書いて見せてくれよ」
カーティスに言われて、ノエルはロビーの受付から紙とペンを持ってきた。慣れた手つきで『遠野希美』と書く。
「ふぅん、やっぱり漢字ってよくわかんねぇや。ヴィンセントはわかるか?」
「いや、私は――」
やはり、どこか見覚えがある。日本に長期滞在したことはないはずだが……。
「この程度の漢字なら読むことはできるが、あまり難しい漢字はわからないな」
「ほう。千年生きてると知識量が俺たちとは違うな。さすがだ」
――どこだ? どこで私は見たのだ。
私にはカーティスの褒め言葉は届かなかった。
たしかに見た記憶がある。それも遠い昔じゃない。ごく最近のことだ。――『見た』記憶? そうか、聞き覚えではない。見覚えなのだ。言葉を聴覚で記憶したわけではなく、文字を視覚で記憶したのだ。
「…………まさか」
私は勢いよく立ち上がった。みんなの不審な視線が私に集まった。
「どうかしましたか?」
ノエルが驚いてたずねた。
「いや……少し部屋に戻る」
みんなの返答を待たずに、私はロビーを抜け出した。本館から別館までの短い距離ですらもどかしい。扉を勢いよく開け、すぐに自室へ入り、自分の荷物を漁った。一度も出したことはなかったが、カバンの中のポケットに入れていたはずだ。私は目当てのそれを取り出し、震える手で中を検めた。
「これは……そんなバカな! なんということだ……」
私は愕然とし、その場に崩れ落ちた。
――ああ、どうして。どうしてこんなことが起きるんだ。私は……私たちは、この事実をどう受けとめればいいのだ?
私は茫然自失になりながら別館を出た。広場を通りすぎ、プールサイドに腰を下ろす。濁った水に枯葉やゴミが浮いたプールは掃き溜めのようだった。このことを打ち明けるかどうか、私は悩んだ。
夜空を仰ぎ見る。星々が私を見返していた。晴れ渡っているが、月の姿はない。新月だ。吸血鬼にとって、もっとも力が発揮できない夜である。それがまた、私の気分を暗くした。
「――――いい夜ですね。あなたもそう思いませんか」
清浄な声と文言。ここら一帯を浄化しそうな言葉は、しかし、吸血鬼にとっては忌避すべき福音だ。私は全身が粟立つのを感じた。ここは人々に忘れられ、閉塞した人外たちの遊園だ。普通の人間がおとずれることはない。
全方位を見るべく、私は四つの目であたりを見回した。すると、私が座っているプールサイドの反対側に、黒い修道服を着た修道女が姿を現す。燃えるような赤毛に、吸い込まれそうな黒い瞳。右手には不釣り合いなキャリーバッグを携えていた。
「ああ――こんな静かな夜にも、私には安らぎがありません。こんな醜い存在が近くにあっては、おちおち眠れやしませんね。でも、あなたたちの断末魔を子守唄代わりにできるのだから、今夜は久しぶりによく眠れそうです」
修道女は聖母のような笑みを蓄えた。私は言葉を交わさず、黒いチーターに変身して本館へ疾走した。誰何するまでもなかった。あれはエクソシストだ。それも、あの炎のような赤毛は見間違えようもない、ロジーナである。ディランを浄化し、オリーブ農園を焼き払った張本人である。直接見るのは初めてだが、知り得る限り、彼女はエクソシストの中でもっとも出会いたくない部類の人間だ。
ロジーナの専門は吸血鬼である。エクソシストの目的は陰性の突発種すべての浄化だが、彼女は吸血鬼に深い恨みを持っており、積極的に我々を狙っている。ゆえに絶望的だ。他のエクソシストと違い、吸血鬼に対して彼女に抜かりはない。姿を現したということは浄化の準備は万端と言える。だからと言って、みすみす死ぬわけにはいかない。私とて、幾度となくエクソシストの魔の手から逃げ延びた実績があるのだ。
私が本館のロビーへ飛び込むと、三人は驚いて立ち上がった。
「エクソシストが来た! 逃げるぞ」
カーティスとリリアンは即座に窓を突き破って外に出たが、ノエルは事態を把握できずに戸惑っていた。経験の差だ。仕方なく、私は霧になってノエルを包み込み、ふたりのあとを追った。
外に出ると同時に目に入ったのは、高々と放り投げられたキャリーバッグだった。バッグが開くと、中から大量の銀色の糸が半球状に展開された。糸は勢いよく本館をすっぽりと包み込み、私たちの逃げ場を塞いだ。まるでサーカスのテントか、あるいは鳥籠だ。
「何よ、あれ。あんなので私たちを閉じ込めたつもりかしら」リリアンは好戦的に言った。
「触らないほうがいい。あれは銀糸の檻だ」
銀糸の檻――聖女の髪の毛に銀箔をまとった糸で作られた牢獄だ。銀でできているので、直接触れたらたちまち浄化する。例え岩などを投擲しても、強靭さと柔軟さを兼ね備えた銀糸を破壊することは難しい。しかし――。
「脱出する術は?」カーティスが問うた。
「そこいらの吸血鬼には不可能だ。だが、こちらにはとっておきがある。……ノエル。君の全力の投擲で、あの糸を破壊してくれ」
「――わかりました」
ノエルが近くに落ちていたコンクリート片をつかみあげる。
「せっかくきれいに張れたんですから、壊さないでください」
透き通るような声が響く。振り返ると、物陰から淡い光が出てきた。――ロジーナがランタンを片手に歩み寄る。
「あれが……エクソシスト?」
ノエルの声が震える。見た目は敬虔な信徒だ。危険なものは何も感じない。……だが、それは人間の感覚であればの話だ。私たちからすれば、その清廉さが、その神聖さが驚異そのものである。
「ノエル、急げ!」
全員がロジーナのまとう陽性の気に捕らわれる中、私が一喝して正気に戻す。ノエルはびくんと身体を震わせ、投擲の姿勢に入った。
「いけませんね。儀式の最中はお静かに」
ロジーナはランタンを傾け、中の炎を地面にこぼした。炎は瞬く間に周囲に広がり、私たちを包んだ。これは……聖火だ。
「――――――あっ!」
力を失い、バランスを崩して投擲したコンクリート片は、無残にも地面に転がった。
「何よこれ、力が入らない?」リリアンが膝を崩す。
「この炎、普通とは違うぞ」
聖火は普通の炎よりも陽性の気が多く含まれている。陰性の突発種にとっては太陽のようなものだ。そこにあるだけで私たちの動きは制限される。二世代、三世代と、火をわければわけるほど聖火の陽性の気は弱まるのだが、これはノエルの動きを鈍らせるほど強力な聖火だ。おそらく、ローマ教会を守護する聖火から直接わけた火だろう。
周囲は日中以上に、陽性の気に支配された。この檻の中は闇夜の黒に穿たれた、白き澄明の穴――。
銀糸の檻の外が陰性の夜であるだけに、内側の聖火はより輝きを主張していた。日の下の光より、暗闇の光のほうがまぶしく見える。暗順応した目に、強烈な光を差されたようなものだ。エクソシストが日中より、新月の夜に奇襲をかける理由はここにある。己の実力を最大限に発揮できるのが、皮肉ではあるが私たちと同じ夜なのだ。
「〝無形の器〟と呼ばれるあなたも、こうなってしまえば最弱の吸血鬼ですね」
ロジーナは慈愛の笑みを浮かべた。
「なんだ、その名は」
「魔王に冠する字名ですよ。知りませんでしたか? あなた、五十年前に魔王に認定されたのですよ。化学兵器の黎明期でしたし、人類の発展とともに危険度が増すあなたを教会が軽視するはずないでしょう?」
「生き辛い世の中になったもんだ」
「そうでしょうか? 正直、プールで一目散に逃げられたら、捕まえる自信はありませんでした。あなたは逃げ足が速いですからね。私に限らず、あなたが本気になったら、誰も捕まえることはできないでしょう。チャンスがあるとしたら殺人欲が湧いた時ですが、それもいつ欲情するのかわかりませんからね。……随分悩みましたよ。ですが、ここでのあなたの生活を見ていて――いえ、その眷属と一緒にいるようになってから、考えを改めました。これは賭けだったのですが、まさか本当に助けに向かうとは思いませんでしたよ」
ロジーナは少し顔色を曇らせた。
「なぜ、でしょうね。とても腹立たしいです。吸血鬼のような下賤な生物が、どうして人間の真似事をするのでしょう。それも千年も生きた化け物風情が、どうしてですか?」
「ふん、知ったような口を利くんだな」私は質問を無視し、挑発的に言った。「私もお前のことは知っているぞ、ロジーナ。聖母のような笑顔の裏には、憎悪に満ちた感情が渦巻いていることもな。……たしか、初めて浄化した吸血鬼は自身の父親だったか?」
吸血鬼の眷属にされたロジーナの父親は、その場で主に実の娘である彼女を殺すよう、命じられたらしい。その父親は従属本能から、主の命に喜んで応え、実の娘に襲いかかった。だが、ロジーナは銀の燭台を父親の眼窩に突き立て、浄化した。
どこまで本当の話かはわからないが、大きく外れてもいないはずだ。そして、その出来事がいまのロジーナの人格に大きく関わっていることはたしかだろう。精神を揺さぶることができれば、こちらにも勝機はある。手も足も出ないのなら、口を動かすしかない。
「訂正するならば、元父親ですね。吸血鬼に堕ちた人は肉親ではありません。それが、どうかしましたか?」
この場に不釣り合いな笑顔――私の挑発など意にも介していない。助かる望みはなくなった。
「おしゃべりも終わりですね。それでは浄化しましょうか」
「待ちなさい。させるわけないでしょ、そんなこと」
私とカーティスとリリアン――三人が清浄な炎に屈する中、ノエルが立ち上がった。彼女の魔性は、強力な聖火の白に薄まることなく黒々と猛っている。
「おや、随分と威勢がいいですね。この炎の中で立ち上がるなんて、よっぽど穢れた魂をお持ちのようで」
「好きに言えばいいわ。エクソシストだかなんだか知らないけど、たかだか人間風情が偉い気にならないで。あたしから言わせればね、人間のほうがよっぽど汚かったわよ。それに比べたら、ここにいる吸血鬼はみんな優しくていい人たちばっかりなんだから」
「それはあなたが生命として若いから、そう思えるのですよ。もっと長生きして、いろんなことを見聞きすればわかります。――と言っても、ここであなたは死ぬんですけどね」
ロジーナが修道服の中から光り輝く銀の剣を取り出した。十字架のような形をしたそれは、私たちに絶対的な死を与える聖剣だ。見ているだけで、私は背筋が寒くなるのを感じた。
「そんなもの、触れなければただの棒と同じじゃない。身体は重いけど、それでもあたしなら人間以上に速く動けるわ」
「そのようですね。恐ろしいまでの魔性です。私のお守りの加護も、あなたの魔性に黒く染められてしまったようです。これは是が非にでも、あなたをここで浄化しないと危険ですね。――ですが、順番は守ってください。最初は無形の器から浄化します」
「そんなこと、あたしが生きてる限りさせるわけないでしょう!」
ノエルは激昂し、ロジーナに飛びかかった。この聖火の中で、あれほど力強く動けるなんてとても信じられない。――だが、エクソシストはその姿を現した。それが意味するところは、確信的な勝算なのだ。
「まぁ、恐ろしい。なんという形相でしょうか」
ロジーナはノエルの攻撃を後方へ飛び退き、しとやかに言った。
「そんな怖い顔しないでください。――歌は好きですか? 歌はいいですよね。歌っても聴いても、心が洗われます」
そう言うと、ロジーナは高らかに歌い始めた。ノエルは呆気に取られてしまっている。
「あんた、よくこの状況で歌なんか歌えるわね。舐めてんの? いいわ、いますぐこの手で――――あれっ?」
ノエルが力を失い、膝を折る。
「どうして……力が入らない」
「――この歌は、聖歌だ」
天に召す神に捧げる、聖なる歌。これはグレゴリオ聖歌だろう。その清らかに流れる旋律は、陽性の気を多分に含んでいる。それに加えて、ロジーナの歌声にも清廉な力がこもっている。ここまで徹底して邪心がなく、潔癖であれば、陰性と陽性を併せ持つ普通の人間ですら、その陰性因子が反応し、薄ら寒くなるだろう。
聖火と聖歌――ふたつの聖なる祈りは、強烈な光となって周囲を白に染める。これほど場を陽性に清めるには、修業を積んだ僧侶が大勢必要になる。だが、ロジーナはたったひとりでここに聖なる神殿を築き上げた。邪を祓い、魔を寄せつけぬ神の城だ。
「おい、ヴィンセント」カーティスがうめいた。「ありゃ、なんなんだ。あんな戦い方、見たことないぞ」
「あれがエクソシストの退魔の儀式だ。やつらの戦い方でもっともやっかいなやつさ。陰を廃し、陽が場を支配する――さながら陣取りのようなものだ」
不死身と驚異の自然治癒を併せ持つ陰性の突発種にとって、物的な戦い方では効果が薄い。しかし、このように陽性の気で場を支配することにより、陰性のみを内包した我々に絶大な縛りを与えるのだ。
――当然、ノエルほどの魔性の濃さであれば、相当に大がかりな儀式が必要となる。だとすれば、その準備段階で私は気づく自信があった。エクソシストが周囲で隠密に活動しようと、大勢だったら必ず私の監視の目に引っかかると高を括っていた。だが、ロジーナはすべてをひとりでやってのけた。単身でこれほどの支配力を持つものがいるとは、誤算だった。
「うう……こんなことで」
さすがのノエルの魔性も薄まる。立っているのが精一杯のようだった。――いや、この神殿で立ち上がれるのも驚嘆に値する。
「ノエル、カーティス、リリアン……巻き込んですまない」
私は覚悟を決めた。もう切り抜ける術はない。
「あんたの知恵でも、もう無理なのか……」カーティスは諦観した。
「ヴィンセントが謝ることはないわ。これが私たちの運命だったのよ。……我が子を抱き上げられないのが心残りだけどね」
リリアンもまた、涙を堪えながら答えた。
「ヴィー。あたしは、あたしは……」
ノエルは歯を食いしばっていた。
「また、人間の真似事ですか」ロジーナは無慈悲に言った。「贖罪、友情、母性、愛――それらは正しき生命だけが持つことを許されたものです。あなたたちのような存在が、戯れにでも真似ていいものではないのですよ」
「真似なんかじゃない。そんなの、あんたが決めることじゃないでしょう」
「いいえ、真似ですよ。人間時代の記憶の残滓で、人間染みた感情を抱いているだけです。そんなもの、時が経てば消えてなくなるでしょう。あなたたちの本質は、欲望と本能だけで人類に不幸を撒き散らす悪魔なのですから」
ロジーナは剣の切っ先を私に向けた。
「しかし、解せないのはあなたです。千年も生き、なぜいまさらになって人間的な感情を掘り起こしたのですか?」
「さぁ、どうなんだろうな。だが、私より年寄りのディランも人間になれたようだから、そう珍しい話でもあるまい」
ロジーナの顔色が変わる。先ほどまでの慈愛の表情と打って変わって、完全な無表情となった。唐突な彼女の豹変ぶりに、私は違和感を覚えた。
「その発言は大罪です。死をもって贖罪なさい」
ロジーナはノエルの横を通りすぎ、私の前に立った。
「待ちなさい。あんたの相手はあたしよ。主に手を出したら許さないわ」
「言ったでしょう? 順番です。彼を断罪したら、相手をしてあげましょう」
「やめて! その人から離れなさい」
ロジーナはノエルを無視し、私に剣を構える。
「神のご加護を」
最期の言葉すら与える気はないようだ。ロジーナは躊躇いなく刺突する。その動きの一つひとつがはっきりと見えた。狙いは心臓。まるで杭を打つようだ。吸血鬼の最期には相応しいのかもしれない。
――その寸前に、私は信じられないものを目にした。
「……あれ? あなた、どうして動けるのですか」
「ノエル……どうしたんだ?」
かろうじて立っていたはずのノエルが突如として動きだし、私を抱えて危機を脱したのだ。その動きはぎこちないながらも力強く、聖火と聖歌の陽性の気に薄まっていたはずの魔性は、再び黒々と異様な気を放っている。
「いったい何が起こったのでしょう。あなたの魔性を凌駕する神聖な儀式を行ったはずですが……。私が力を測り間違えた? いえ、そんな不手際はあり得ませんね」
ロジーナは動揺し、ぶつぶつと自問した。
「まさか――――あなた、成長したのですか?」
吸血鬼が成長した、としか思えない状況だった。
ノエルは私を静かに地面に下ろし、カーティスとリリアンも炎の中から救出した。ロジーナは信じられない光景を目の当たりにし、呆然とその様子を見ていた。完結した能力を生まれながらにして有し、成長することがない吸血鬼がそれに反したのだ。無理もない。長年生きた私も驚きを隠せないでいる。こんな奇跡とも言える出来事は初めてだ。
「ノエル。あんた、どうしちゃったの。大丈夫?」
リリアンは驚愕というよりも、ノエルの身体を心配しているようだった。
「ここにいて」ノエルは冷静さを失いながらも返事をした。
ノエルは私たちの前に立ち塞がり、ロジーナと対峙した。
「ヴィンセント、ノエルちゃんってまさか……」カーティスが言った。
「ああ。なんという偶然だろうか。ノエルは――――ハーフヴァンパイアだ」
私はカーティスとの会話を回想した。
■
「吸血王か、もちろん知っている。だが、あれは伝説のようなもので、なんの信憑性もない空想上の存在だと言われているぞ」
暗いロビーの片隅で、私とカーティスは対談していた。明かりはテーブルに置かれた一本の蝋燭。老朽化した本館の隙間風に吹かれ、火は忙しなく揺らめいていた。その明かりの明滅加減かはわからないが、彼の表情はいやに嫌味ったらしい。
「本気でそう思ってるのか?」
「――まさか。吸血王は間違いなくいる。だが、伝説にあるような人物ではないだろう。すべての吸血鬼を統べる王だの、かつて夜の世界を支配していただの、それらは伝承されることで尾ひれがついたフィクションさ」
私はカーティスを見た。彼は余裕たっぷりの笑みを崩さずうなずき、先を促した。
「――しかし、その中にもいくつかは納得せざるを得ないものがある。なぜならそれは吸血鬼の性質を考えれば、自然と導き出せる論理的な答えと符合するからだ」
「その通りだ。俺たちは親の吸血鬼から血を吸われることで、吸血鬼として生まれる。では、その親はどうか?」
「当然、同じように血を吸われている。その出生は連綿と続き、あたかも一般的な生物さながらに子孫を残している――ように見える」
「だが現実は異種族に吸血鬼の遺伝子を植えつけてるにすぎない。例えるなら、誕生というより変異に近いな」
「だが、私たちも親も、元は人間だ。吸血鬼の遺伝子など、そもそも誰も持っていない」
「吸血鬼はどこからきて、どこへ行くのか。ふん、まさに人類の命題の真似だな」
「だが、現実に吸血鬼はいる。私たちが何よりの証拠だ」
「そうなると、考えられることはただひとつ。親を持たぬ、吸血鬼の始祖がいるはずだ」
「ああ、吸血鬼の始祖――それこそが吸血王だ。彼は生まれながらの吸血鬼である。非連続的突発種の名の通り、彼は無から生まれた起源の鬼だ」
私たちは事実を確認するように、発言を掛け合った。
「さすがは千年の知識。もちろん、吸血王の性質は知ってるな?」
「当然だ。基本的な性質は普通の吸血鬼のそれと変わらないが、吸血王には決定的にほかと違う特質がある。――生殖機能の保有。彼は人間と交わることで子を儲ける事ができる。君たちの目的はこれだな?」
吸血王は吸血行為による同族の繁殖――すなわち普通の吸血鬼の繁殖方法に加え、生殖行為による繁殖もできるのだ。
「そうだ。だが、俺たちが知ってるのはそれだけだ。生殖機能を持つ吸血鬼。そいつのことを調べれば子どもを作る糸口がつかめると思って、がむしゃらに彼のあとを追いかけてる。日本にいた、という噂を聞きつけてここに潜伏してたんだが、なかなか情報がつかめなくてな」
「エクソシストが吸血王を浄化した、という話は聞いたことがないから生きているのかもしれないが、雲をつかむような話だな。その噂も信憑性は低い」
「承知の上さ。それで、彼について何か知らないか?」
「残念だが力になれそうにない。居場所など知らぬし、そもそも吸血王なんぞ興味がなかったもんでな」
「そうか……。仕方ないな」
カーティスは肩を落とした。住処を借りている手前、少しだけ申しわけなく思った。
「しかし、吸血王の繁殖方法や子孫の特徴なら教えてやれる。仮に君たちが吸血王の生殖機能と同じものを欲するならば、参考にはなるだろう。ひょっとすると、希望に見合う特徴ではないかもしれないからな」
「子孫の特徴……。吸血鬼同士の子だから、吸血鬼と同じではないのか?」
「君たちの場合はわからん。吸血王の生殖の相手は、人間の女だからな。あくまで吸血鬼と人間の異種配合の場合だ」
カーティスはうなずいた。
「吸血王の子は吸血鬼の性質を受け継がず、人間として生まれる。時が経てば成長するし、寿命を迎えれば当然死ぬ。吸血欲も殺人欲もなく、あるのは人間が生来的に持つ欲望のみだ。もし、君たちが生殖機能を獲得し、子が人間だったらどうだろうか。親より先に寿命で死ぬ我が子は見たくないんじゃないか」
「それは……たしかにそうだな。てっきり吸血鬼として生まれるのかと思ってたぜ」
「君たちの場合は生粋の吸血鬼が生まれるかもしれないがな。だが、そういう可能性もあると念頭に入れておいたほうがいい」
だが、生粋の吸血鬼として生まれる可能性は低い。なぜなら出産に至るまで子が成長したということは、吸血鬼の性質に反するからだ。しかし、そもそも吸血鬼が子を宿すこと自体、不可能と言っていい。ここでカーティスとリリアンには諦めさせ、新たな道を探させるのもいいのかもしれないと思い、私はあえて酷なことを言った。
「もし、仮に」カーティスは思案してから言った。「子どもが人間として生まれた場合、その子を吸血したら吸血鬼化するんじゃないか?」
当然のごとく、彼はその答えにたどりついた。
「それは勧めない。そんなことをすれば、その子はエクソシストから優先的に狙われることになる」
「どういうことだ?」
カーティスは食いついた。黙っていようか考えたが、余計な希望を与えて無謀なことをさせるより真実を伝えたほうがいいだろう。
「繰り返しになるが、これは吸血王の生殖行為によって生まれた子の場合という前提で話をするぞ。――その子が普通に人間の暮らしをする限り、なんの変哲もない人間のままだ。だが、その子が吸血されることで吸血鬼化すると、ハーフヴァンパイアとなり、普通の吸血鬼とは明らかに異なる性質を持った吸血鬼となる。それは、成長という生命には欠かせない、もっとも重要な性質だ」
「成長する吸血鬼――」
カーティスはそれが意味することを悟ったようだ。吸血鬼は完成された力を持って誕生するため、人間からは畏怖の対象として見られるが、その実、成長しないことが欠点ともなるのだ。エクソシストはその欠点をついて、吸血鬼を浄化する。しかし、ハーフヴァンパイアにはその欠点がない。不死身でありながら成長するハーフヴァンパイアは、長く生きれば生きるほど、無限に強くなるのだ。それこそ、神の器と言える。エクソシストが手に負えなくなる前に対処するのは当然だ。
「いったい、どうしてそんな怪物が生まれるんだ?」
「吸血鬼化というのは吸血鬼の遺伝子が人間の遺伝子に干渉し、優性遺伝子である吸血鬼の形質が現れた結果のことを言う。親の吸血鬼から人間の子へ、吸血鬼の形質が受け継がれる、まさしく交配だ。優性の法則は知っているな?」
カーティスはうなずいた。
優性の法則とは、ある形質について、発現しやすい優性遺伝子と逆に発現しにくい劣性遺伝子があり、それぞれを持った純系の親を交配させて生まれてくる子には優性の形質のみが発現することである。その時、一見すれば優性遺伝子のみが受け継がれているように見えるが、見えていない劣性遺伝子も含めて表すと(これを遺伝子型と言い、発現した形質のみを表すことを表現型と言う)、ちゃんと劣性遺伝子も受け継がれていることがわかる。
血液型で例えるなら、A型(遺伝子型:AA型)とO型(遺伝子型:OO型)の純系の親を交配させると、どの組み合わせでもAO型である。この時、Aは優性でOは劣性なので、生まれてくる子の血液型は、表現型で表すと必ずA型となるのだ。
「吸血鬼の遺伝子は人間の遺伝子と比べると、すべてが優性となる。人間の成長する遺伝子をaa、吸血鬼の完成された遺伝子をAAとし、人間の性質をbb、吸血鬼の性質をBBとしよう」
すなわち、人間の遺伝子型はaabbであり、吸血鬼のそれはAABBとなる。性質と成長・完成はそれぞれ別の形質なので、この組み合わせはaAbBのみだ。そして吸血鬼の遺伝子はすべてにおいて優性となるので、表現型はAB――人間の性質も成長も失われ、完成された不死身の吸血鬼が発現するわけである。
「ちなみにすべての吸血鬼がaAbBの遺伝子型ではあるが、吸血行為による交配では必ずAABBの遺伝子型で交配が行われる。間違っても人間もどきも、吸血鬼もどきも生まれはしない」
劣性遺伝子としていまなお残っているaとbの遺伝子は、まるで私たちが人間であったころの記憶のようだ。いまとなってはその記憶も霞がかってはいるが、たしかにかつてあった残滓である。
「さて、問題の吸血王の場合だが、彼には吸血鬼の完成遺伝子よりも優性の成長遺伝子を持っている。これがハーフヴァンパイアの危険度を上げる遺伝子であり、生殖行為によってのみ遺伝するものだ。仮にその遺伝子をcとしよう」
吸血王は私たちのように、人間の劣性遺伝子も持っているので、遺伝子型はcAbBとなる。それが人間の女――遺伝子型aabbと交配すると、その組み合わせは、acbb・acbB・aAbb・aAbBである。このうち、Aの完成遺伝子を持つ子を宿した場合は成長することなく流れてしまい、また、acbBの遺伝子型を持つ場合も吸血鬼の性質を備えているので、子の魔性や膂力により母体が先に命を落とす。後者の場合は、吸血鬼の不死の遺伝子も受け継いでいるので子が死ぬことはないが、血液を供給できずに失血状態になるだろう。
「そして可能性は低いが、acbbの遺伝子型の子が宿ると、その人間がハーフヴァンパイアの器になるんだ」
「器? その遺伝子型で人間と違う遺伝子はcだけだろう?」カーティスは首を傾げた。「そのcの遺伝子もaと同じ成長遺伝子なら、普通の人間と大差ないんじゃないか?」
「ただ生きている分にはそうだな。普通に歳を取り、怪我をすれば完治まで時間がかかり、病には床に臥す。そして、いずれは死んでしまうだろう。――だが、その器に足りないものを注いでやることで、ハーフヴァンパイアは生まれるんだ」
「足りないもの?」
「吸血鬼の遺伝子AABB――すなわち吸血行為による吸血鬼化のことさ。その遺伝子と器の遺伝子が交配するとどうなるかわかるか?」
「遺伝子型はcAbB――cの成長遺伝子は吸血鬼の完成遺伝子Aより優性だから、成長する吸血鬼の完成ってわけか!」
ちなみに組み合わせとしてはカーティスの言った遺伝子型のほかにaAbBもある。当然、この遺伝子型では、誕生するのは完成遺伝子が優性の普通の吸血鬼だ。つまり、器の吸血鬼化にさえもハーフヴァンパイアとして生まれるか、ふるいにかけられるのである。
「なるほど。たしかにそんなバケモンが生まれたら、エクソシストも安心して眠れやしないだろう。しかし、それだけ誕生までに障害があるなら、そうそう生まれることもねぇな」
吸血王と人間の生殖行為があり、出産可能な遺伝子型で受胎し、吸血鬼から吸血され、吸血鬼化の際に遺伝子cの残留と、ハーフヴァンパイアの誕生まではさまざまな偶然が積み重なってできている。
「あくまで吸血王の話だ。君とリリアンでは可能性はないと断言する」
「そうか。……どうして俺たちには生殖機能がないんだろうか」
カーティスは悄然とうなだれた。
「吸血鬼は実のならない徒花だ。しかし、その徒花はけして醜くなどない。美しいものだと、私は思うぞ」
「俺たちは花じゃない。吸血鬼だぞ」
私はデジャヴを感じた。
……ああ、そうか。そう言えば、ディランも死に際に植物で例え話をしていたな。
「わかっている、例え話さ」私はディランの姿を自分に重ねて苦笑した。「それに、実の代わりに吸血行為で子孫を残している」
「あんなもん、自分の子じゃねぇだろ。――と、すまん。言葉にトゲがあったな。ノエルちゃんを悪く言ったつもりはないんだ」
「わかっているさ」
眷属は血を分けた子ではない。どんなに心が通じていても、どこかで赤の他人だという意識は拭えないゆえに、カーティスとリリアンは眷属を作ることを危惧しているのだろう。心証だけでは事実は立証できないのだ。
「……俺は諦めないぜ」カーティスは不安を吹っ切って言った。「それに収穫はあった。吸血王に加えて、ハーフヴァンパイアも手掛かりになりそうだからな」
「健闘を祈る」
諦めさせるどころか、火をつけてしまったようだ。だが、吸血鬼には時間が有り余っている。何か目標や生きる意志を持つことも、精神を保つのに必要だ。吸血鬼の中には、あまりに長く緩急のない生活に発狂するものも少なくない。それこそ、人間には到底不可能な目的意識を持てば、いい刺激となるだろう、と私はポジティブに考えた。
「感謝してるぜ、ヴィンセント。あんた、まるで歩く辞書だな」
「飛ぶこともできるぞ」
諧謔じみた私の返答に、カーティスは笑った。
「ギャップってやつか、あんたみたいにいつも仏頂面のやつがたまに冗談言うとおもしろくて仕方ねぇ。――それで、ほかにハーフヴァンパイアの情報はないか? 知り合いがいるならぜひ紹介してほしい」
「知らん」
私はたった一言で道破した。カーティスはぽかんと呆気に取られている。
「目撃情報はいままでに二、三回しか聞いたことがないし、それもすべて眉唾物だ。そもそもハーフヴァンパイアは一部の学者が提唱する仮説だからな。仮説は所詮、仮説だ。事実とはほど遠い。いまの定説は吸血王には生殖機能がなく、ハーフヴァンパイアなどいないということになっている」
カーティスは「そうか」とつぶやいて肩を落とした。
当然だ。人間は二十年で驚くほど成長する。そこから先は老化の一途をたどるが、ハーフヴァンパイアなるものがいるとすれば、さらに延々と成長し続けることになる。その成長する魔性は黒く、黒く――すべての光、太陽すらも黒く染め上げる暗黒の魔性へと進化を遂げるだろう。そうなれば当然、この世界は陰に落ちる。だが、ここにはまだ光があるのだ。それが、仮説を否定する事実である。
◇ Side Noel
冷たく、冷たく身体が冷える。冷血が体内を駆け巡る。奈落のように深い闇が、私の中にあるのを感じる。すべての光と熱を吸い込む奈落は、総毛立つような恐ろしい怪物の住処だ。その奈落は大口を開くように広がっている。暗がりの中から、怪物の姿が露わになる。中にいたのは、大人びた私だった――。
私は思わず目を見開いた。あれはなんだったのだろう。なりたかった自分の姿? それとも、主を守るために生まれた力の権化? 私にはわからないが、どうしようもなく寒気が走った。身も凍るように寒いが、不思議と力は湧いてきた。この身体を縛りつけていた聖火の熱も、いまでは冷たい炎に変わり果てた。先ほどまでと違い、なんとも居心地がいい。
主とカーティス、リリアンも動けるようになり、立ち上がった。
「ノエル……あんた、どうしちゃったの?」
リリアンが私を気遣う。よかった、みんな元気になったようだ。
「聖火が穢れた……私の聖歌もこれでは形無しですね。まさか、これだけ清めたというのに支配率が逆転するなんて、誤算――いえ、予想外ですね」
――そうか。魔性というのはこうやって扱うんだ。
私は全身から湧き上がる魔性を、力を込めて周囲に発散した。すると、私を中心にわずかに残った陽性の気は塗り変えられ、足元の植物は死に、大気までもがどす黒い瘴気となって毒された。
「魔性が可視化していますね。もう、私の手には負えません」
魔性というのは現実世界への違和感であり、突発種の存在規模の大きさだ。森羅万象の循環から外れたものたちの存在証明である。歯車仕掛けの巨大な機械に、礫が無理やり入り込もうとしている、というのが私のイメージだ。だが主曰く、もともとその歯車に瑕疵があり、礫を打ち込むことで正常に動くよう調整しているのだという。永久機関の調律師、というのが私たち突発種の字名だったか。陽性の突発種なら幸福をもって調律し、陰性の突発種なら不幸をもって調律する。
しかし、禍福に限らずこの世のものは表裏一体――誰かの不幸によって得られる幸福もあるのだ。外敵が現れれば戦い、相手の死をもって平穏を得る。大昔から人間がやってきたことだ。……人をいじめることによって得られる支配欲もそうである。
――ならば私はこの不幸をもたらす魔性をもって、あの修道女を殺し、みんなの命を守ってみせる。
私は瞑目し、全身に意識を集中した。体内を巡る血液と全身からほとばしる魔性――血液量の減りが早い。魔性を無駄に発散しすぎたようだ。失血状態になるまで、そう長くはないだろう。勝負は一瞬で決めるしかない。
私は瞠目し、手のひらを突き出して力を込めた。全身から漏れる魔性を抑え、手のひらの一点に絞る。可視化された魔性は渦を描きながらとどまった。回転させたほうが安定するな、と私は思った。
「なんとおぞましい……。凝縮された呪いそのものではありませんか」
「当たったらどうなるかわかんないわ。試しに当たってみて」
「冗談言わないでください。そんなものに当たったら即死ですよ。苦しまないのがせめてもの救いです」
「だったら祈りなさい。信徒なら得意でしょ」
私は言い捨てて、渾然と渦巻く魔性を放出した。かすっただけでも命を落とす凝縮された魔性は、まるで墨をまき散らすかのように空間を染めながらロジーナを目がけた。だが、彼女は間一髪のところで飛び退いた。人間にしてはいい動きだが、想定内だ。
私はロジーナが回避する予備動作から方向を先読みし、彼女の背後に高速で移動した。魔性の放出はフェイクにすぎない。彼女は私を見失っている。私に気づくまでの刹那が、あまりにも長く感じる。このもろそうな首を軽く握るだけで、人間は絶命するだろう。
「ノエル、気をつけろ!」
主が大声を発する。私はすんでのところで動きをとめた。
「やれやれ、絶好のチャンスが台なしです。あなたたち、いいコンビですね。こちらからすれば厄介ですけど」
と言って、ロジーナは修道服をたくし上げた。下には銀の鎖帷子を着ている。修道服がハイネックになっているため見えないが、おそらく首元まで銀をまとっているのだろう。危うく自滅するところだった。
「直接は触れられないってわけね。だったら武器を使うまでよ」
私は水銀灯の柱を素手で引きちぎり、薙刀のように構えた。
「どうか、神のご加護を」
ロジーナは両手を組んで祈りを上げた。信徒なりの覚悟の決め方だろうか。日本人の私には馴染みがなかった。――しかし、そんなことで情には流されない。私は柱を振りかぶり、薙ぎ払った。ロジーナの脇腹に命中し、彼女は無残に転げまわった。手ごたえは充分だ。だが、銀の鎖帷子が衝撃を吸収したのか、ロジーナは息も絶え絶えではあるが生きていた。
「ごめん。苦しめるつもりはなかったの。次で楽にしてあげるわ」
私はロジーナを見下ろしながら言った。
「ふふ、下劣で醜悪な吸血鬼らしく、もっといたぶったらどうですか?」
「心まで怪物になったつもりはないわ。それに、そんなこと言って失血状態になるのを狙ってるんでしょう?」
ロジーナは苦しそうに笑った。聖女と呼ばれる人間の最期は、想像通り優しい笑顔だった。……私もそろそろ限界が近づいている。人を殺すのは初めてだが、これは生きるためだ。覚悟を決めて、生を勝ち取らなければならない。
私は柱の先端をロジーナの胸にあてがった。この少し奥に、生命としての中枢があるのだ。軽く押すだけで、肉を裂き、骨を砕き、心臓を穿てば命は絶てる。簡単なことだ。何も臆することはない。カーティスとリリアン、そして何より、私の主を守るために戦ったのだ。ここでやらねば――――。
「ノエル、やめるんだ」
力を込めようとした瞬間、私の一番大切な人が、私をとめた。
どうして? 私は、あなたのために――――。
◆
私はノエルの手首をつかみ、とどめを阻止した。ノエルは驚いて私を見つめている。……いや、ノエルだけではない。この場にいるすべてのものが驚愕の思いでいることは手に取るようにわかった。
「ヴィー、なぜとめるのですか。こいつは、エクソシストなんですよ? このまま放っといたら、またいずれ命を狙われます」
ノエルは動揺し、目を泳がせながらもなんとか自分の考えを訴えた。
「ノエルの言う通りよ。何を血迷ったのか知らないけれど、エクソシストをみすみす見逃す吸血鬼なんて、聞いたこともないわ。何より、ヴィンセントらしくないわよ」
リリアンも異議を唱えた。それが当然だ。エクソシストを生きて返すなど、前代未聞だろう。自殺行為である。こちらの情報を彼らに漏らすばかりでなく、同族からも裏切り者として風当たりが強くなることは明白だ。
「ヴィーが人を殺すことを嫌うのはわかります。でも、エクソシストは例外ですよ。あなたも言ってたじゃないですか。敵を放置するなんて愚かだって」
ノエルを眷属にする前に、たしかに私はそんなことも言っていた。だが、いまは心境が変わってしまったのだ。私は黙って、首を横に振った。
「……あたしが汚れ仕事をすべて引き受けます。だから、ヴィーが気に病むことはありません。お願いです、そこをどいてください」
「ノエル、この手を離すんだ。頼む」
「あたしは……あなたを守りたいんです」
ノエルは瞳に涙を溜めて訴えた。しかし、私は意思を変えるつもりはない。互いに見つめ合いながら膠着していると、カーティスとリリアンが近づいた。
「ノエルちゃん、諦めな」
「ちょっとカーティスまで何言ってんの」
「あの男が馬鹿げたこととわかってて言ってんだ。テコでも動かねぇよ」
馬鹿げたこと、か……たしかに、昨日までの私だったら生きるためと割り切ってロジーナを殺していただろう。生きて帰すなど、愚の骨頂だ。
「すまない。カーティス、リリアン。君たちにまで迷惑をかけてしまう」
「まったくだぜ。けどいいさ。制圧できたのはヴィンセントとノエルちゃんのおかげだからな。それに俺としては、ノエルちゃんから吸血王の話が聞けたらそれだけで満足だ」
一悶着あるかと思ったが、カーティスは受け入れてくれた。
「あーあ、馬鹿な男を伴侶に持つと大変ね」リリアンは呆れて言った。「ね、ノエル。……ノエル?」
ノエルはうつむいたまま黙っていた。
「……眷属だからって、汚れることないのよ。主がそう言ってるんですもの」
リリアンはノエルの肩に手を置いて優しく言った。
「……うん、そうよね。もし、またヴィーを狙うようなことがあったら、何度だってあたしが追い返しちゃえばいいもんね」
ノエルは持ち前の前向きさで迷いを払拭した。しかし――それは、本当に彼女本来が持つものなのだろうか。
「末恐ろしいこと言うな、ノエルちゃんは」
「ついでにカーティスとリリアンも守ってあげるわよ」
ノエルとカーティス、リリアンは顔を見合わせて笑い、緊張していた場の空気は弛緩した。しかし、私ともうひとり――ロジーナだけは、いまだに張りつめた表情をしている。
「あなたたち、なんの冗談ですか? 私を見逃す、ということですか?」
ロジーナは拾った命に喜ぶでもなく、むしろ絶望したような面立ちだ。
「馬鹿な、あり得ません。吸血鬼がなぜ……悪魔は悪魔らしく、人間を食い殺しなさい!」
彼女は怒号を発した。その剣幕は普通ではない。
ロジーナにとって、吸血鬼は絶対的な悪なのだろう。それはある種、信仰に近いものがあるのかもしれない。神の御業よりも、悪魔の悪魔的な仕業を病的なまでに信じているのだ。なんとも逆説的な信仰である。
悪魔は人間に不幸をもたらす――それならば、信徒は悪魔を祓わなければならない。もし力なく敗れれば、吸血鬼に殺されるのは道理――その思想が崩れたならば、彼女は何を信じて戦うのか。
……だが、それはロジーナ自身の問題だ。私には関係ないことである。
「同情のつもりですか。それもまた、人間の弱い心の真似事です。そうじゃない……違います。あなたたちは――」
少々、錯乱しているようだ。呼吸も荒い。私は膝をつき、ロジーナの身体を診てやった。銀の鎖帷子を着込んでいるので詳しくは診断できないが、直接死に関わるような怪我はない。ノエルの攻撃を受けてなお致命傷を避けたのだから、彼女の体術もなかなかのものだ。
「止血の必要はないな。もうしばらくすれば動けるようになるだろう。そうしたら、どこへでも好きなところへ行くがいい」
私は立ち上がり、踵を返した。
「待ちなさい。答えるのです。あなたは、何をしているのですか?」
ロジーナが追いすがるように声をかけた。
「別に……情けをかけたつもりはない。お前の信仰心に傷をつけるつもりもない。見逃すことにためらいがないわけでもない。私たちの命がかかっているんだからな。だが……お前を殺すことで、悲しむものもいるだろう」
「そんな、馬鹿な……」
「人々はつながっている。私たちも他人事ではない。手を取り合うことはできないかもしれないが、いたずらに不幸を招く必要もないだろう」
「生命の輪を外れた突発種がつながっている、ですって? 冗談にしては笑えませんね。わかっているのでしょう? あなたたちは人の命を糧とする怪物なのです。人とは相容れぬ悪です」
「私も、そう思っていたよ。だがいまは違う。もう、不幸をまき散らすのはごめんだ」
これ以上は会話をしても仕方がない。私はとめていた足を動かし、ノエルたちの元へ向かった。
「とりあえず、ここから離れよう」私は言った。
「ああ。さすがにここではゆっくり話もできないな。――ついてこい」
カーティスは翼を生やして飛び立った。リリアンとノエルもそれに続いた。もったいないが、荷物をまとめている余裕はない。ここに捨て置くしかないだろう。しかし、またどこかで調達すればいいことだ。
私はロジーナのほうを振り返ろうとして、やはりやめておいた。何をどうしようと、彼女の逆鱗に触れるだけだろう。私は後ろ髪を引かれる思いで飛び立った。夜空は満天の星――新月なので、とてもきれいに瞬いていた。
「本当に、殺さないのですね」ロジーナは小さい声でつぶやいた。「ならば、この曇りなき両眼で、その真価を見極めましょう」
預言者のように、彼女は誰ともなく告げた。私にはその言葉が、得も言われぬ不吉な予兆に聞こえた。
◆
私たちはカーティスの案内で街中まで下り、オフィスビルの屋上へやってきた。勤務時間はとっくにすぎ、オフィス内は消灯している。これならしばらく人は来ないだろう。
「さっそくで悪いけどノエルちゃん。君の父親について教えてくれないか?」
カーティスが口火を切った。
「お父さんのこと? えっと、詳しくはわからないけど、いきなりどうして?」
唐突な質問にノエルは狼狽した。
「カーティス、あんたせっかちすぎよ」リリアンが子どもをたしなめるように制した。「ごめんね、ノエル。一から説明するわ」
そう言って、リリアンは吸血王のことや彼の生殖機能を含めた特性、そしてハーフヴァンパイアに至るまで、かいつまんでノエルに説明した。ノエルは時折うなずきながら聞いていたが、次第に表情が暗くなった。
「――――と、ごめん。私も無神経だったわね」リリアンが殊勝に謝る。「まだ幼いのに出生の秘密を突きつけるなんて……」
「ううん、違うの。お父さんが吸血鬼の始祖だったなんて驚いたけど、お父さんの話が聞けたのは正直うれしかったわ。……ただ、ハーフってのが、ちょっとね。ほら、あたしって未婚の女の娘で、しかもハーフでしょ? だから、それを理由にいじめられてたことがあったから、それを少し思い出しただけよ」
ノエルは青い瞳を伏せた。過去のトラウマは、いまとなっても彼女に重くのしかかっているらしい。普段の彼女の元気な様子を見ていると、つい忘れがちになってしまうが、決して消えない暗い過去はいつも彼女の中にあるのだ。
「でも、ハーフヴァンパイアだったおかげでみんなを守れたんだから、これでチャラかな! それに、成長するってことは大人になれるかもしれないってことだし」
「吸血鬼の不老不死の形質を持ってるんだから、成長するのは魔性だけだろうなぁ」
「そんなぁー。人の夢をすぐに壊さないでよ、カーティス」
ノエルが冗談交じりにカーティスを叩こうとすると、彼は全力でそれを避けた。
「危ない、危ない。肉片になるところだったぜ」
「ひどい!」
ふたりはふざけ合っていた。私には、そのやりとりが遠く離れたところで行われているように感じた。
「はいはい、ふたりともストップ」リリアンが手を叩いた。「それで、ノエルはお父さんのこと、何も憶えてないの?」
「うん……さっきも言ったけど、詳しくは知らないわ。あたしが生まれる前にはいなくなってたみたいだし、お母さんに聞いても誰よりも心の美しい人だった、とか曖昧なことばっかり言って煙に巻いてたし」
「写真とか手紙とか、なんでもいい。彼が残したものはないのか?」
「どうだろう。ひょっとしたらお母さんが持ってたかもしれないけど、あたしは見た憶えないかなぁ」
カーティスとリリアンは、ノエルにあれこれと質問を投げかけた。しかし、どれも確信を持てるようなものはなかった。
「母親が海外に長期滞在した経験はあるのか?」
「海外旅行すらしたことないって言ってたわ」
「ノエルちゃんは今年で十六歳だったな。ということは十六、七年前に吸血王は日本にいたはずだ。吸血鬼の常識から考えれば、すでに日本にはいない。だが、ヴィンセントを始めとした千年物は隠れ住む術に長けてるからな。ひょっとしたら、まだ日本にいるかもしれない」
カーティスは興奮気味にまくし立てた。
「ノエルちゃんの家を教えてくれないか? もしかすると君が知らないだけで、何かしらの手がかりが家に残されてるかもしれない」
「え……家を調べるの?」
「そりゃあ、もう。隅から隅までひっくり返す所存さ!」
「カーティス……デリカシーなさすぎよ」リリアンがたしなめた。「ノエルは女の子なんだから、その辺気を遣いなさいよ」
リリアンはノエルをかばうように抱きしめた。
「安心して。あなたの部屋は私が調べるから。ダメかしら?」
「うーん、仕方ないなぁ。ふたりのことは応援してるから、いいよ。――ヴィー、ふたりを案内してもいいですか?」
ノエルは私に振り返ってたずねた。私の表情が暗いのに気づき、彼女は訝しんだ。
「あの……どこか具合でも悪いんですか?」
「いや――」私は言葉を詰まらせた。「ふたりには住所だけ教えよう。ここでお別れだ」
「え、いきなり、そんな……。どうしてですか?」
「……ロジーナは私たちがラルゴの街に住んでいたころから見張っていた。あの街に戻るのは危険だ」
私は半分嘘をついた。――いや、嘘というより、本心を話していない。
「ふたりはそれを承知でノエルの家へ行くつもりなんだな?」
カーティスとリリアンはうなずいた。
「たしかにヴィンセントの言う通りね」リリアンはしょげているノエルの頭を撫でた。「私たちの都合で、あんたたちを危険に晒せないわ」
「決まりだな。ノエルちゃん、ヴィンセント。ふたりとも世話になったな。感謝してるぜ」
カーティスは手を差し出し、握手を求めた。私はそれに応えた。本当に感謝しているのだろう、彼の手は力がこもっており、少し痛かった。
「ノエル……元気でね。あとあんまり無茶しないように」
リリアンはノエルを抱擁した。
「心配しないで、大丈夫よ。……ふたりとも、ケータイなんて持ってないよね?」
「持ってないわね。必要ないから」
「そうだよね……。じゃあ、あたしの番号渡すから、たまには連絡ちょうだい」
そう言ってノエルは紙に電話番号と家の住所を書き、リリアンに渡した。
「ありがとう。必ず電話するわ」
それからもいくつか言葉を交わし、名残惜しそうにふたりは離れた。
「それじゃあ、また生きて再会しよう」
カーティスとリリアンが手を振り、夜空に舞い上がった。私はそのあとを目で追い、ノエルは大きく手を振りながら別れの言葉を叫んだ。ふたりの姿が見えなくなっても、しばらく彼女は黙ったままだった。おそらく、ノエルにとってあのふたりは初めてできた友人だったのだろう。それに十五、六年しか生きていないのだ。人との出会いと別れにまだ慣れておらず、心にぽっかりと穴が空いてしまったのだろう。
「なんだか、一気に静かになりましたね」
深夜の時間帯の街は、喧騒も少ない。遠くで鳴るサイレンの音と、バイクを暴走させる若者たちの音が、いやに静かに聞こえた。私にも、心に澱のようにわだかまるしこりがあるようだ。
「でも、あたしは久しぶりにヴィーとふたりっきりになれてうれしいです」
ノエルが私を見る時は、いつも笑顔だった。裏のない、純粋な笑顔――私はそれを曇らせ、ともすれば永遠に失わせることを言わなければならない。口は重く、なかなか話を切り出せなかった。ノエルはそんな私の様子を怪訝に思い、小首を傾げていた。しかし、私もふたりとの別れを惜しみ、感傷に浸っていると勘違いをしたのか、すぐに安心したように顔をほころばせ、彼らが飛び立った星空を眺めた。
「……ノエル、少し話がある」
私が重々しくそう切り出すと、ノエルは星空から私に目を移した。青い瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥り、私は思わず彼女から目をそらした。
「どうかしたんですか。なんか今日はずっと様子がおかしいですよ」
私の挙動にノエルの猜疑心は高まった。私は意を決した。これは私とノエルの間で、はっきりとさせねばならないことなのである。
「君の……君の名前はなんというんだ?」
「名づけ親が何言ってるんですか」ノエルは笑った。
「本名のほうだ。人間だったころの、君のフルネームをもう一度教えてくれ」
「遠野希美ですけど……それがどうかしましたか?」
トオノノゾミ――トオノ――遠野。
「それでは、母親の名前はなんというんだ?」
私は震える声を抑えて絞り出した。
「お母さん、ですか? お母さんは、遠野佳奈恵っていいますけど……」
トオノカナエ――わかってはいたが、目眩は抑えられなかった。どうして、こんなことが……偶然にしては、あまりに無慈悲だ。……いや、まだわずかだが可能性はある。
「最後の質問だ。この顔に見覚えはあるか?」
私は変身能力で顔を変えた。その顔は、とある女の運転免許証に掲載されているそれだ。
「…………あれ? お母さん?」
私は膝から崩れ落ち、手で顔を覆った。
殺人欲に溺れて血を浴び、肉を食らい、骨まで噛み砕いた、いやな感触が脳裏に甦る。――その女は、私が初めて殺した人間だった。
ノエルとリリアンは存外に仲よく修練をしているようだった。時折、様子を見に広場へ足を運ぶと、笑い声が聞こえたりする。
「ちょっと、リリアン。いまのは卑怯よ」
どうやらリリアンが体術以外の攻撃をしたようだ。
「スポーツじゃないんだから、卑怯だなんてお門違いよ」
母親を失った少女と、子を望む女、か。だが、母子というよりあれでは姉妹だった。
「ねぇ、ヴィンセント」リリアンが私に耳打ちした。「あの子、飲み込み早くて、私もう余裕ないんだけど」
年の功のアドバンテージは早々になくなったらしい。
「若いからな。頭が柔らかいんだろう」
リリアンは納得いかない様子だった。私からすれば、彼女も充分に若い。
思った通り、リリアンは竹を割ったような性格だった。敵と認識すれば狂暴だが、害がないとわかると、過去のことは忘れて胸襟を開いて話をする。ある意味では手玉に取りやすい相手とも言える。
ふたりが修練する一方で、男組の私とカーティスはたびたび街へ採血しに行った。まるで出稼ぎする夫だ。模擬戦闘とは言え、全力に近い動きをするため血の消費が激しく、貯蔵していた血液パックはすぐになくなってしまうのだ。採血しに行くたびに、ノエルは申しわけなさそうに縮こまり、謝ってきた。私が気にしないように言いつけると、彼女の瞳にはより一層、決意の炎が宿った。
「あんた、ノエルちゃんには随分と甘いじゃないか」
カーティスとふたりで街へ出かけ、人間を魔眼で支配しつつ採血していると、彼は何気なくたずねてきた。
「あの子は肉体的には完成されていても、精神はまだ子どもだからな。誰かの庇護が必要だ」
「ふぅん。つまらない大人の返答だな。俺が聞きたいのは、もっとこう、ヴィンセント自身の言葉なんだが」
「言っている意味がわからんな。……終わったのなら、さっさと帰るぞ」
「わかってるはずだ。ヴィンセントほどの力の精神ならば、ひとりで生きていくほうが楽だろう? ノエルちゃんは強力な魔性を持ってる。だが、それはいいことばかりではない。むしろ、ヴィンセントの思想や理念からすればリスクでしかないはずだ。なのに、なぜともにいる。吸血鬼にした責任感か? それとも、使える駒に仕立て上げるつもりか?」
普段からおしゃべりなやつだが、今宵は特にしつこい。
「そんなことをお前に話す必要があるのか?」
「うーん、ないな」カーティスは悩むフリをして言った。「ただの興味本位だ」
私は呆れてものも言えず、無言のままに住処へ飛び立った。
……けして、責任感からではない。手駒にするつもりもない。ならばなぜ、私はノエルとともに生きると決めたのか。彼女を吸血鬼にしたのは、彼女の死に際と自分のそれを重ねたためだ。その時はそれ以上の理由はなかったはずだ。だが、いまはそれを後悔していない。むしろ見殺しにしていたらと思うと、背筋が凍る。
ノエルは私を求め、そして非人間である私を受け入れてくれた。私を理解しようと努力し、私の弱さを補ってくれた。彼女のその未熟さが、その屈託のない笑顔が、私の冷えた心を暖めてくれる。
カーティスの言うように、私はひとりで生きていける自信があった。いままでも、そしてこれからも。私にはそれだけの知識と経験がある。しかし、ノエルといる幸福を知ってしまった以上、ひとりで生きていくのは抵抗がある。ディランを失い、自分でも気づかなかった心の隙間を彼女は埋めてくれた。
もちろん、ノエルはディランの代わりではない。むしろ、私が彼の歩んだ道を踏襲しているのだ。孤独に獣として育ち、世界を知ることで彼は人間に憧れた。そして彼は、人間はひとりでは生きていけないと知って、他者とのつながりを求めて私を眷属にし、人間になろうとした。私は利用されたようにも見えるが、彼の姿を思い浮かべると、どうしてもそうは思えない。私は命を救われ、彼とともに生きたことを幸福に思うし、彼もまたそうだったに違いない。私たちの間に友情は成立していた。
私もディランと同じように、ノエルを幸福に導いてやれれば幸いだ。
――思えば、私のそばには常に誰かがいた。そのおかげで孤独が絶望であることを、人間時代の最期で痛いほどわかっていたはずなのだが、すっかり忘れてしまっていた。村の最後の生き残りとなった時、私は暗黒の世界に落とされたような気持になった。つい先ほどまで、互いに励まし合っていた村人がもの言わぬ肉の塊となる。悲しみから大声を上げても、虚しく残響するだけであった。この世界にはもう、人はいないのではないか。たったひとり生き残り、もがいているだけではないのか――そんな錯覚に陥ったのだった。
そんな暗黒の世界に光が差すように手を差し伸べてくれたのが、ディランである。千年前の記憶だが、それは私の深層で大きな影響を与えているのだろう。
ノエルもそうだったのかもしれない。周囲にクラスメートなり教師なりはいたが、心の中ではそいつらとはつながっていなかった。そして、たったひとりの肉親――たったひとりの理解者もいなくなり、心は孤独に、世界は暗黒へと様相を変えたのだろう。……私は彼女の世界を照らす光となれるのだろうか。その答えは、まだ出ていないような気がする。
ノエルに強さや能力は求めない。利用価値などもってのほかだ。ただ、彼女が私に笑顔を向け、私がそれに応えてやれればそれでいい。彼女は強くなると息巻いているが、強くなろうが弱くなろうが、私の中で彼女の位置は何も変わらない。そばにいるだけで、私は充分だった。
私とカーティスが住処に戻ると、女ふたりも修練は一時中断し、本館のロビーで談笑することになった。最近この時間になると、ここで談笑することが日課となっていた。革が裂けて綿が飛び出しているソファに座る。こんなナリだが、もともと高級なソファなのだろう、座り心地は悪くない。
私がノエルに血液パックを渡すと、彼女は恐縮しつつもうれしそうに受け取った。リリアンとカーティスも、三人掛けのソファにどっかりと深く座る。
「あー、疲れた。子守も楽じゃないわ」リリアンが血液パックを咥えながらしゃべった。「でも将来の予行演習にちょうどいいわね」
将来とは子どもが生まれた時のことだろう。叶わぬ夢だ。捕らぬ狸の皮算用である。
「ふーん、そう」ノエルがいたずらっぽい笑みを浮かべる。「でも、子どもに圧倒される親なんて頼りないでしょう? いまからでも子どもは諦めたほうがいいんじゃない?」
字面では罵り合っているが、ふたりは楽しそうだった。悪口で冗談を言えるようになるほど、ふたりの仲は進展している。修練を通すことで親睦を深めたようだ。
「大丈夫さ。俺とリリアンじゃあ、ノエルちゃんみたいな化け物は生まれっこない」
「失礼な! 花も恥じらう女子中学生になんてことを!」
「いやいや、女子中学生って、もうすぐ五月よ? あんたもう卒業してるでしょ」
三人は自由に思ったことを発言している。私は会話に入らず、黙っていた。ふたりきりで話すのになんら不自由はないが、大勢の中で発言するのは私には不得手なことだった。
「ところで」三人の会話が途切れたのを見計らって、私はおもむろに口を開いた。「ふたりはここを住処にしてどれぐらい経つんだ?」
「そうだな」質問に答えたのはカーティスだった。「ちょうど一年は経ったんじゃないか」
彼はリリアンに目で確認した。彼女は首肯した。
「なるほど。それで、年間でどれぐらいの人間がここを訪れた?」
「ふたり、ぐらいだったと思う。それがどうかしたのか」
「思ったより少ないな。やはり、ここへ唯一つながる道路が塞がれているのが大きいな」
「まぁな。あれは俺たちが崩したもんだし、狙い通りだ」
やはり、あの土砂崩れは人為的なものだったか。だが、効果は聞いての通りのようだ。
「それで、そのふたりはどうだった」
「どうって言われてもな。根性のある廃墟マニアなんだろう、あの道なき山道を登ってくるぐらいだからな。それでも、しばらく写真を撮ってから引き揚げたぜ」
「その写真にふたりの痕跡は写っていないな?」
当然、とカーティスはうなずいた。いまの世の中は地球の裏側にいても隣にいるようなものだと、身をもって知っている。慎重になりすぎるぐらいがちょうどいいだろう。
「突然どうしたんだ? 何か気になることでもあるのか」
「いや……なんとなく、気になっただけだ」
本来ならば彼らと同居するとなった時に聞くべきことだ。いまさら聞くなど危機管理がなっていないな、と自省した。――思えばこれは、虫の知らせだったのかもしれない。
「ねぇねぇ、リリアンとカーティスって名前は、主からもらった名前なの?」
私が納得したのを確認し、ノエルは雑談に戻った。
「そんなわけないじゃない。そんな名前、自立してからすぐに捨ててやったわよ」
リリアンはいやなことを思い出したようで、眉間に皺を寄せた。その発言に、なぜか私は不安になった。
「私もカーティスも、人間のころからの本名よ。ノエルは……違うわよね、日本人だし」
「ええ。あたしの名前はヴィーからもらったの。それで、ふたりの名字――ファミリーネームっていうのかしら? それはなんていうの?」
「私はカルヴァート。リリアン・カルヴァートよ。いい名前でしょ」
「俺はカーティス・レミントンだ。吸血鬼になるとファミリーネームなんて呼ばれないからな。久しぶりに自分のフルネームを言った気がする。――で、ノエルの本名はなんていうんだ?」
「ほんとは、ヴィーからいただいた名前で充分なんだけど、言い出しっぺだから教えてあげる。あたしの名前はね、遠野希美っていうの」
トオノノゾミ……何かが引っかかった。
「ノゾミって希望って意味よね。いいじゃない」リリアンは言った。
「日本人だから、名前も漢字なんだろ。書いて見せてくれよ」
カーティスに言われて、ノエルはロビーの受付から紙とペンを持ってきた。慣れた手つきで『遠野希美』と書く。
「ふぅん、やっぱり漢字ってよくわかんねぇや。ヴィンセントはわかるか?」
「いや、私は――」
やはり、どこか見覚えがある。日本に長期滞在したことはないはずだが……。
「この程度の漢字なら読むことはできるが、あまり難しい漢字はわからないな」
「ほう。千年生きてると知識量が俺たちとは違うな。さすがだ」
――どこだ? どこで私は見たのだ。
私にはカーティスの褒め言葉は届かなかった。
たしかに見た記憶がある。それも遠い昔じゃない。ごく最近のことだ。――『見た』記憶? そうか、聞き覚えではない。見覚えなのだ。言葉を聴覚で記憶したわけではなく、文字を視覚で記憶したのだ。
「…………まさか」
私は勢いよく立ち上がった。みんなの不審な視線が私に集まった。
「どうかしましたか?」
ノエルが驚いてたずねた。
「いや……少し部屋に戻る」
みんなの返答を待たずに、私はロビーを抜け出した。本館から別館までの短い距離ですらもどかしい。扉を勢いよく開け、すぐに自室へ入り、自分の荷物を漁った。一度も出したことはなかったが、カバンの中のポケットに入れていたはずだ。私は目当てのそれを取り出し、震える手で中を検めた。
「これは……そんなバカな! なんということだ……」
私は愕然とし、その場に崩れ落ちた。
――ああ、どうして。どうしてこんなことが起きるんだ。私は……私たちは、この事実をどう受けとめればいいのだ?
私は茫然自失になりながら別館を出た。広場を通りすぎ、プールサイドに腰を下ろす。濁った水に枯葉やゴミが浮いたプールは掃き溜めのようだった。このことを打ち明けるかどうか、私は悩んだ。
夜空を仰ぎ見る。星々が私を見返していた。晴れ渡っているが、月の姿はない。新月だ。吸血鬼にとって、もっとも力が発揮できない夜である。それがまた、私の気分を暗くした。
「――――いい夜ですね。あなたもそう思いませんか」
清浄な声と文言。ここら一帯を浄化しそうな言葉は、しかし、吸血鬼にとっては忌避すべき福音だ。私は全身が粟立つのを感じた。ここは人々に忘れられ、閉塞した人外たちの遊園だ。普通の人間がおとずれることはない。
全方位を見るべく、私は四つの目であたりを見回した。すると、私が座っているプールサイドの反対側に、黒い修道服を着た修道女が姿を現す。燃えるような赤毛に、吸い込まれそうな黒い瞳。右手には不釣り合いなキャリーバッグを携えていた。
「ああ――こんな静かな夜にも、私には安らぎがありません。こんな醜い存在が近くにあっては、おちおち眠れやしませんね。でも、あなたたちの断末魔を子守唄代わりにできるのだから、今夜は久しぶりによく眠れそうです」
修道女は聖母のような笑みを蓄えた。私は言葉を交わさず、黒いチーターに変身して本館へ疾走した。誰何するまでもなかった。あれはエクソシストだ。それも、あの炎のような赤毛は見間違えようもない、ロジーナである。ディランを浄化し、オリーブ農園を焼き払った張本人である。直接見るのは初めてだが、知り得る限り、彼女はエクソシストの中でもっとも出会いたくない部類の人間だ。
ロジーナの専門は吸血鬼である。エクソシストの目的は陰性の突発種すべての浄化だが、彼女は吸血鬼に深い恨みを持っており、積極的に我々を狙っている。ゆえに絶望的だ。他のエクソシストと違い、吸血鬼に対して彼女に抜かりはない。姿を現したということは浄化の準備は万端と言える。だからと言って、みすみす死ぬわけにはいかない。私とて、幾度となくエクソシストの魔の手から逃げ延びた実績があるのだ。
私が本館のロビーへ飛び込むと、三人は驚いて立ち上がった。
「エクソシストが来た! 逃げるぞ」
カーティスとリリアンは即座に窓を突き破って外に出たが、ノエルは事態を把握できずに戸惑っていた。経験の差だ。仕方なく、私は霧になってノエルを包み込み、ふたりのあとを追った。
外に出ると同時に目に入ったのは、高々と放り投げられたキャリーバッグだった。バッグが開くと、中から大量の銀色の糸が半球状に展開された。糸は勢いよく本館をすっぽりと包み込み、私たちの逃げ場を塞いだ。まるでサーカスのテントか、あるいは鳥籠だ。
「何よ、あれ。あんなので私たちを閉じ込めたつもりかしら」リリアンは好戦的に言った。
「触らないほうがいい。あれは銀糸の檻だ」
銀糸の檻――聖女の髪の毛に銀箔をまとった糸で作られた牢獄だ。銀でできているので、直接触れたらたちまち浄化する。例え岩などを投擲しても、強靭さと柔軟さを兼ね備えた銀糸を破壊することは難しい。しかし――。
「脱出する術は?」カーティスが問うた。
「そこいらの吸血鬼には不可能だ。だが、こちらにはとっておきがある。……ノエル。君の全力の投擲で、あの糸を破壊してくれ」
「――わかりました」
ノエルが近くに落ちていたコンクリート片をつかみあげる。
「せっかくきれいに張れたんですから、壊さないでください」
透き通るような声が響く。振り返ると、物陰から淡い光が出てきた。――ロジーナがランタンを片手に歩み寄る。
「あれが……エクソシスト?」
ノエルの声が震える。見た目は敬虔な信徒だ。危険なものは何も感じない。……だが、それは人間の感覚であればの話だ。私たちからすれば、その清廉さが、その神聖さが驚異そのものである。
「ノエル、急げ!」
全員がロジーナのまとう陽性の気に捕らわれる中、私が一喝して正気に戻す。ノエルはびくんと身体を震わせ、投擲の姿勢に入った。
「いけませんね。儀式の最中はお静かに」
ロジーナはランタンを傾け、中の炎を地面にこぼした。炎は瞬く間に周囲に広がり、私たちを包んだ。これは……聖火だ。
「――――――あっ!」
力を失い、バランスを崩して投擲したコンクリート片は、無残にも地面に転がった。
「何よこれ、力が入らない?」リリアンが膝を崩す。
「この炎、普通とは違うぞ」
聖火は普通の炎よりも陽性の気が多く含まれている。陰性の突発種にとっては太陽のようなものだ。そこにあるだけで私たちの動きは制限される。二世代、三世代と、火をわければわけるほど聖火の陽性の気は弱まるのだが、これはノエルの動きを鈍らせるほど強力な聖火だ。おそらく、ローマ教会を守護する聖火から直接わけた火だろう。
周囲は日中以上に、陽性の気に支配された。この檻の中は闇夜の黒に穿たれた、白き澄明の穴――。
銀糸の檻の外が陰性の夜であるだけに、内側の聖火はより輝きを主張していた。日の下の光より、暗闇の光のほうがまぶしく見える。暗順応した目に、強烈な光を差されたようなものだ。エクソシストが日中より、新月の夜に奇襲をかける理由はここにある。己の実力を最大限に発揮できるのが、皮肉ではあるが私たちと同じ夜なのだ。
「〝無形の器〟と呼ばれるあなたも、こうなってしまえば最弱の吸血鬼ですね」
ロジーナは慈愛の笑みを浮かべた。
「なんだ、その名は」
「魔王に冠する字名ですよ。知りませんでしたか? あなた、五十年前に魔王に認定されたのですよ。化学兵器の黎明期でしたし、人類の発展とともに危険度が増すあなたを教会が軽視するはずないでしょう?」
「生き辛い世の中になったもんだ」
「そうでしょうか? 正直、プールで一目散に逃げられたら、捕まえる自信はありませんでした。あなたは逃げ足が速いですからね。私に限らず、あなたが本気になったら、誰も捕まえることはできないでしょう。チャンスがあるとしたら殺人欲が湧いた時ですが、それもいつ欲情するのかわかりませんからね。……随分悩みましたよ。ですが、ここでのあなたの生活を見ていて――いえ、その眷属と一緒にいるようになってから、考えを改めました。これは賭けだったのですが、まさか本当に助けに向かうとは思いませんでしたよ」
ロジーナは少し顔色を曇らせた。
「なぜ、でしょうね。とても腹立たしいです。吸血鬼のような下賤な生物が、どうして人間の真似事をするのでしょう。それも千年も生きた化け物風情が、どうしてですか?」
「ふん、知ったような口を利くんだな」私は質問を無視し、挑発的に言った。「私もお前のことは知っているぞ、ロジーナ。聖母のような笑顔の裏には、憎悪に満ちた感情が渦巻いていることもな。……たしか、初めて浄化した吸血鬼は自身の父親だったか?」
吸血鬼の眷属にされたロジーナの父親は、その場で主に実の娘である彼女を殺すよう、命じられたらしい。その父親は従属本能から、主の命に喜んで応え、実の娘に襲いかかった。だが、ロジーナは銀の燭台を父親の眼窩に突き立て、浄化した。
どこまで本当の話かはわからないが、大きく外れてもいないはずだ。そして、その出来事がいまのロジーナの人格に大きく関わっていることはたしかだろう。精神を揺さぶることができれば、こちらにも勝機はある。手も足も出ないのなら、口を動かすしかない。
「訂正するならば、元父親ですね。吸血鬼に堕ちた人は肉親ではありません。それが、どうかしましたか?」
この場に不釣り合いな笑顔――私の挑発など意にも介していない。助かる望みはなくなった。
「おしゃべりも終わりですね。それでは浄化しましょうか」
「待ちなさい。させるわけないでしょ、そんなこと」
私とカーティスとリリアン――三人が清浄な炎に屈する中、ノエルが立ち上がった。彼女の魔性は、強力な聖火の白に薄まることなく黒々と猛っている。
「おや、随分と威勢がいいですね。この炎の中で立ち上がるなんて、よっぽど穢れた魂をお持ちのようで」
「好きに言えばいいわ。エクソシストだかなんだか知らないけど、たかだか人間風情が偉い気にならないで。あたしから言わせればね、人間のほうがよっぽど汚かったわよ。それに比べたら、ここにいる吸血鬼はみんな優しくていい人たちばっかりなんだから」
「それはあなたが生命として若いから、そう思えるのですよ。もっと長生きして、いろんなことを見聞きすればわかります。――と言っても、ここであなたは死ぬんですけどね」
ロジーナが修道服の中から光り輝く銀の剣を取り出した。十字架のような形をしたそれは、私たちに絶対的な死を与える聖剣だ。見ているだけで、私は背筋が寒くなるのを感じた。
「そんなもの、触れなければただの棒と同じじゃない。身体は重いけど、それでもあたしなら人間以上に速く動けるわ」
「そのようですね。恐ろしいまでの魔性です。私のお守りの加護も、あなたの魔性に黒く染められてしまったようです。これは是が非にでも、あなたをここで浄化しないと危険ですね。――ですが、順番は守ってください。最初は無形の器から浄化します」
「そんなこと、あたしが生きてる限りさせるわけないでしょう!」
ノエルは激昂し、ロジーナに飛びかかった。この聖火の中で、あれほど力強く動けるなんてとても信じられない。――だが、エクソシストはその姿を現した。それが意味するところは、確信的な勝算なのだ。
「まぁ、恐ろしい。なんという形相でしょうか」
ロジーナはノエルの攻撃を後方へ飛び退き、しとやかに言った。
「そんな怖い顔しないでください。――歌は好きですか? 歌はいいですよね。歌っても聴いても、心が洗われます」
そう言うと、ロジーナは高らかに歌い始めた。ノエルは呆気に取られてしまっている。
「あんた、よくこの状況で歌なんか歌えるわね。舐めてんの? いいわ、いますぐこの手で――――あれっ?」
ノエルが力を失い、膝を折る。
「どうして……力が入らない」
「――この歌は、聖歌だ」
天に召す神に捧げる、聖なる歌。これはグレゴリオ聖歌だろう。その清らかに流れる旋律は、陽性の気を多分に含んでいる。それに加えて、ロジーナの歌声にも清廉な力がこもっている。ここまで徹底して邪心がなく、潔癖であれば、陰性と陽性を併せ持つ普通の人間ですら、その陰性因子が反応し、薄ら寒くなるだろう。
聖火と聖歌――ふたつの聖なる祈りは、強烈な光となって周囲を白に染める。これほど場を陽性に清めるには、修業を積んだ僧侶が大勢必要になる。だが、ロジーナはたったひとりでここに聖なる神殿を築き上げた。邪を祓い、魔を寄せつけぬ神の城だ。
「おい、ヴィンセント」カーティスがうめいた。「ありゃ、なんなんだ。あんな戦い方、見たことないぞ」
「あれがエクソシストの退魔の儀式だ。やつらの戦い方でもっともやっかいなやつさ。陰を廃し、陽が場を支配する――さながら陣取りのようなものだ」
不死身と驚異の自然治癒を併せ持つ陰性の突発種にとって、物的な戦い方では効果が薄い。しかし、このように陽性の気で場を支配することにより、陰性のみを内包した我々に絶大な縛りを与えるのだ。
――当然、ノエルほどの魔性の濃さであれば、相当に大がかりな儀式が必要となる。だとすれば、その準備段階で私は気づく自信があった。エクソシストが周囲で隠密に活動しようと、大勢だったら必ず私の監視の目に引っかかると高を括っていた。だが、ロジーナはすべてをひとりでやってのけた。単身でこれほどの支配力を持つものがいるとは、誤算だった。
「うう……こんなことで」
さすがのノエルの魔性も薄まる。立っているのが精一杯のようだった。――いや、この神殿で立ち上がれるのも驚嘆に値する。
「ノエル、カーティス、リリアン……巻き込んですまない」
私は覚悟を決めた。もう切り抜ける術はない。
「あんたの知恵でも、もう無理なのか……」カーティスは諦観した。
「ヴィンセントが謝ることはないわ。これが私たちの運命だったのよ。……我が子を抱き上げられないのが心残りだけどね」
リリアンもまた、涙を堪えながら答えた。
「ヴィー。あたしは、あたしは……」
ノエルは歯を食いしばっていた。
「また、人間の真似事ですか」ロジーナは無慈悲に言った。「贖罪、友情、母性、愛――それらは正しき生命だけが持つことを許されたものです。あなたたちのような存在が、戯れにでも真似ていいものではないのですよ」
「真似なんかじゃない。そんなの、あんたが決めることじゃないでしょう」
「いいえ、真似ですよ。人間時代の記憶の残滓で、人間染みた感情を抱いているだけです。そんなもの、時が経てば消えてなくなるでしょう。あなたたちの本質は、欲望と本能だけで人類に不幸を撒き散らす悪魔なのですから」
ロジーナは剣の切っ先を私に向けた。
「しかし、解せないのはあなたです。千年も生き、なぜいまさらになって人間的な感情を掘り起こしたのですか?」
「さぁ、どうなんだろうな。だが、私より年寄りのディランも人間になれたようだから、そう珍しい話でもあるまい」
ロジーナの顔色が変わる。先ほどまでの慈愛の表情と打って変わって、完全な無表情となった。唐突な彼女の豹変ぶりに、私は違和感を覚えた。
「その発言は大罪です。死をもって贖罪なさい」
ロジーナはノエルの横を通りすぎ、私の前に立った。
「待ちなさい。あんたの相手はあたしよ。主に手を出したら許さないわ」
「言ったでしょう? 順番です。彼を断罪したら、相手をしてあげましょう」
「やめて! その人から離れなさい」
ロジーナはノエルを無視し、私に剣を構える。
「神のご加護を」
最期の言葉すら与える気はないようだ。ロジーナは躊躇いなく刺突する。その動きの一つひとつがはっきりと見えた。狙いは心臓。まるで杭を打つようだ。吸血鬼の最期には相応しいのかもしれない。
――その寸前に、私は信じられないものを目にした。
「……あれ? あなた、どうして動けるのですか」
「ノエル……どうしたんだ?」
かろうじて立っていたはずのノエルが突如として動きだし、私を抱えて危機を脱したのだ。その動きはぎこちないながらも力強く、聖火と聖歌の陽性の気に薄まっていたはずの魔性は、再び黒々と異様な気を放っている。
「いったい何が起こったのでしょう。あなたの魔性を凌駕する神聖な儀式を行ったはずですが……。私が力を測り間違えた? いえ、そんな不手際はあり得ませんね」
ロジーナは動揺し、ぶつぶつと自問した。
「まさか――――あなた、成長したのですか?」
吸血鬼が成長した、としか思えない状況だった。
ノエルは私を静かに地面に下ろし、カーティスとリリアンも炎の中から救出した。ロジーナは信じられない光景を目の当たりにし、呆然とその様子を見ていた。完結した能力を生まれながらにして有し、成長することがない吸血鬼がそれに反したのだ。無理もない。長年生きた私も驚きを隠せないでいる。こんな奇跡とも言える出来事は初めてだ。
「ノエル。あんた、どうしちゃったの。大丈夫?」
リリアンは驚愕というよりも、ノエルの身体を心配しているようだった。
「ここにいて」ノエルは冷静さを失いながらも返事をした。
ノエルは私たちの前に立ち塞がり、ロジーナと対峙した。
「ヴィンセント、ノエルちゃんってまさか……」カーティスが言った。
「ああ。なんという偶然だろうか。ノエルは――――ハーフヴァンパイアだ」
私はカーティスとの会話を回想した。
■
「吸血王か、もちろん知っている。だが、あれは伝説のようなもので、なんの信憑性もない空想上の存在だと言われているぞ」
暗いロビーの片隅で、私とカーティスは対談していた。明かりはテーブルに置かれた一本の蝋燭。老朽化した本館の隙間風に吹かれ、火は忙しなく揺らめいていた。その明かりの明滅加減かはわからないが、彼の表情はいやに嫌味ったらしい。
「本気でそう思ってるのか?」
「――まさか。吸血王は間違いなくいる。だが、伝説にあるような人物ではないだろう。すべての吸血鬼を統べる王だの、かつて夜の世界を支配していただの、それらは伝承されることで尾ひれがついたフィクションさ」
私はカーティスを見た。彼は余裕たっぷりの笑みを崩さずうなずき、先を促した。
「――しかし、その中にもいくつかは納得せざるを得ないものがある。なぜならそれは吸血鬼の性質を考えれば、自然と導き出せる論理的な答えと符合するからだ」
「その通りだ。俺たちは親の吸血鬼から血を吸われることで、吸血鬼として生まれる。では、その親はどうか?」
「当然、同じように血を吸われている。その出生は連綿と続き、あたかも一般的な生物さながらに子孫を残している――ように見える」
「だが現実は異種族に吸血鬼の遺伝子を植えつけてるにすぎない。例えるなら、誕生というより変異に近いな」
「だが、私たちも親も、元は人間だ。吸血鬼の遺伝子など、そもそも誰も持っていない」
「吸血鬼はどこからきて、どこへ行くのか。ふん、まさに人類の命題の真似だな」
「だが、現実に吸血鬼はいる。私たちが何よりの証拠だ」
「そうなると、考えられることはただひとつ。親を持たぬ、吸血鬼の始祖がいるはずだ」
「ああ、吸血鬼の始祖――それこそが吸血王だ。彼は生まれながらの吸血鬼である。非連続的突発種の名の通り、彼は無から生まれた起源の鬼だ」
私たちは事実を確認するように、発言を掛け合った。
「さすがは千年の知識。もちろん、吸血王の性質は知ってるな?」
「当然だ。基本的な性質は普通の吸血鬼のそれと変わらないが、吸血王には決定的にほかと違う特質がある。――生殖機能の保有。彼は人間と交わることで子を儲ける事ができる。君たちの目的はこれだな?」
吸血王は吸血行為による同族の繁殖――すなわち普通の吸血鬼の繁殖方法に加え、生殖行為による繁殖もできるのだ。
「そうだ。だが、俺たちが知ってるのはそれだけだ。生殖機能を持つ吸血鬼。そいつのことを調べれば子どもを作る糸口がつかめると思って、がむしゃらに彼のあとを追いかけてる。日本にいた、という噂を聞きつけてここに潜伏してたんだが、なかなか情報がつかめなくてな」
「エクソシストが吸血王を浄化した、という話は聞いたことがないから生きているのかもしれないが、雲をつかむような話だな。その噂も信憑性は低い」
「承知の上さ。それで、彼について何か知らないか?」
「残念だが力になれそうにない。居場所など知らぬし、そもそも吸血王なんぞ興味がなかったもんでな」
「そうか……。仕方ないな」
カーティスは肩を落とした。住処を借りている手前、少しだけ申しわけなく思った。
「しかし、吸血王の繁殖方法や子孫の特徴なら教えてやれる。仮に君たちが吸血王の生殖機能と同じものを欲するならば、参考にはなるだろう。ひょっとすると、希望に見合う特徴ではないかもしれないからな」
「子孫の特徴……。吸血鬼同士の子だから、吸血鬼と同じではないのか?」
「君たちの場合はわからん。吸血王の生殖の相手は、人間の女だからな。あくまで吸血鬼と人間の異種配合の場合だ」
カーティスはうなずいた。
「吸血王の子は吸血鬼の性質を受け継がず、人間として生まれる。時が経てば成長するし、寿命を迎えれば当然死ぬ。吸血欲も殺人欲もなく、あるのは人間が生来的に持つ欲望のみだ。もし、君たちが生殖機能を獲得し、子が人間だったらどうだろうか。親より先に寿命で死ぬ我が子は見たくないんじゃないか」
「それは……たしかにそうだな。てっきり吸血鬼として生まれるのかと思ってたぜ」
「君たちの場合は生粋の吸血鬼が生まれるかもしれないがな。だが、そういう可能性もあると念頭に入れておいたほうがいい」
だが、生粋の吸血鬼として生まれる可能性は低い。なぜなら出産に至るまで子が成長したということは、吸血鬼の性質に反するからだ。しかし、そもそも吸血鬼が子を宿すこと自体、不可能と言っていい。ここでカーティスとリリアンには諦めさせ、新たな道を探させるのもいいのかもしれないと思い、私はあえて酷なことを言った。
「もし、仮に」カーティスは思案してから言った。「子どもが人間として生まれた場合、その子を吸血したら吸血鬼化するんじゃないか?」
当然のごとく、彼はその答えにたどりついた。
「それは勧めない。そんなことをすれば、その子はエクソシストから優先的に狙われることになる」
「どういうことだ?」
カーティスは食いついた。黙っていようか考えたが、余計な希望を与えて無謀なことをさせるより真実を伝えたほうがいいだろう。
「繰り返しになるが、これは吸血王の生殖行為によって生まれた子の場合という前提で話をするぞ。――その子が普通に人間の暮らしをする限り、なんの変哲もない人間のままだ。だが、その子が吸血されることで吸血鬼化すると、ハーフヴァンパイアとなり、普通の吸血鬼とは明らかに異なる性質を持った吸血鬼となる。それは、成長という生命には欠かせない、もっとも重要な性質だ」
「成長する吸血鬼――」
カーティスはそれが意味することを悟ったようだ。吸血鬼は完成された力を持って誕生するため、人間からは畏怖の対象として見られるが、その実、成長しないことが欠点ともなるのだ。エクソシストはその欠点をついて、吸血鬼を浄化する。しかし、ハーフヴァンパイアにはその欠点がない。不死身でありながら成長するハーフヴァンパイアは、長く生きれば生きるほど、無限に強くなるのだ。それこそ、神の器と言える。エクソシストが手に負えなくなる前に対処するのは当然だ。
「いったい、どうしてそんな怪物が生まれるんだ?」
「吸血鬼化というのは吸血鬼の遺伝子が人間の遺伝子に干渉し、優性遺伝子である吸血鬼の形質が現れた結果のことを言う。親の吸血鬼から人間の子へ、吸血鬼の形質が受け継がれる、まさしく交配だ。優性の法則は知っているな?」
カーティスはうなずいた。
優性の法則とは、ある形質について、発現しやすい優性遺伝子と逆に発現しにくい劣性遺伝子があり、それぞれを持った純系の親を交配させて生まれてくる子には優性の形質のみが発現することである。その時、一見すれば優性遺伝子のみが受け継がれているように見えるが、見えていない劣性遺伝子も含めて表すと(これを遺伝子型と言い、発現した形質のみを表すことを表現型と言う)、ちゃんと劣性遺伝子も受け継がれていることがわかる。
血液型で例えるなら、A型(遺伝子型:AA型)とO型(遺伝子型:OO型)の純系の親を交配させると、どの組み合わせでもAO型である。この時、Aは優性でOは劣性なので、生まれてくる子の血液型は、表現型で表すと必ずA型となるのだ。
「吸血鬼の遺伝子は人間の遺伝子と比べると、すべてが優性となる。人間の成長する遺伝子をaa、吸血鬼の完成された遺伝子をAAとし、人間の性質をbb、吸血鬼の性質をBBとしよう」
すなわち、人間の遺伝子型はaabbであり、吸血鬼のそれはAABBとなる。性質と成長・完成はそれぞれ別の形質なので、この組み合わせはaAbBのみだ。そして吸血鬼の遺伝子はすべてにおいて優性となるので、表現型はAB――人間の性質も成長も失われ、完成された不死身の吸血鬼が発現するわけである。
「ちなみにすべての吸血鬼がaAbBの遺伝子型ではあるが、吸血行為による交配では必ずAABBの遺伝子型で交配が行われる。間違っても人間もどきも、吸血鬼もどきも生まれはしない」
劣性遺伝子としていまなお残っているaとbの遺伝子は、まるで私たちが人間であったころの記憶のようだ。いまとなってはその記憶も霞がかってはいるが、たしかにかつてあった残滓である。
「さて、問題の吸血王の場合だが、彼には吸血鬼の完成遺伝子よりも優性の成長遺伝子を持っている。これがハーフヴァンパイアの危険度を上げる遺伝子であり、生殖行為によってのみ遺伝するものだ。仮にその遺伝子をcとしよう」
吸血王は私たちのように、人間の劣性遺伝子も持っているので、遺伝子型はcAbBとなる。それが人間の女――遺伝子型aabbと交配すると、その組み合わせは、acbb・acbB・aAbb・aAbBである。このうち、Aの完成遺伝子を持つ子を宿した場合は成長することなく流れてしまい、また、acbBの遺伝子型を持つ場合も吸血鬼の性質を備えているので、子の魔性や膂力により母体が先に命を落とす。後者の場合は、吸血鬼の不死の遺伝子も受け継いでいるので子が死ぬことはないが、血液を供給できずに失血状態になるだろう。
「そして可能性は低いが、acbbの遺伝子型の子が宿ると、その人間がハーフヴァンパイアの器になるんだ」
「器? その遺伝子型で人間と違う遺伝子はcだけだろう?」カーティスは首を傾げた。「そのcの遺伝子もaと同じ成長遺伝子なら、普通の人間と大差ないんじゃないか?」
「ただ生きている分にはそうだな。普通に歳を取り、怪我をすれば完治まで時間がかかり、病には床に臥す。そして、いずれは死んでしまうだろう。――だが、その器に足りないものを注いでやることで、ハーフヴァンパイアは生まれるんだ」
「足りないもの?」
「吸血鬼の遺伝子AABB――すなわち吸血行為による吸血鬼化のことさ。その遺伝子と器の遺伝子が交配するとどうなるかわかるか?」
「遺伝子型はcAbB――cの成長遺伝子は吸血鬼の完成遺伝子Aより優性だから、成長する吸血鬼の完成ってわけか!」
ちなみに組み合わせとしてはカーティスの言った遺伝子型のほかにaAbBもある。当然、この遺伝子型では、誕生するのは完成遺伝子が優性の普通の吸血鬼だ。つまり、器の吸血鬼化にさえもハーフヴァンパイアとして生まれるか、ふるいにかけられるのである。
「なるほど。たしかにそんなバケモンが生まれたら、エクソシストも安心して眠れやしないだろう。しかし、それだけ誕生までに障害があるなら、そうそう生まれることもねぇな」
吸血王と人間の生殖行為があり、出産可能な遺伝子型で受胎し、吸血鬼から吸血され、吸血鬼化の際に遺伝子cの残留と、ハーフヴァンパイアの誕生まではさまざまな偶然が積み重なってできている。
「あくまで吸血王の話だ。君とリリアンでは可能性はないと断言する」
「そうか。……どうして俺たちには生殖機能がないんだろうか」
カーティスは悄然とうなだれた。
「吸血鬼は実のならない徒花だ。しかし、その徒花はけして醜くなどない。美しいものだと、私は思うぞ」
「俺たちは花じゃない。吸血鬼だぞ」
私はデジャヴを感じた。
……ああ、そうか。そう言えば、ディランも死に際に植物で例え話をしていたな。
「わかっている、例え話さ」私はディランの姿を自分に重ねて苦笑した。「それに、実の代わりに吸血行為で子孫を残している」
「あんなもん、自分の子じゃねぇだろ。――と、すまん。言葉にトゲがあったな。ノエルちゃんを悪く言ったつもりはないんだ」
「わかっているさ」
眷属は血を分けた子ではない。どんなに心が通じていても、どこかで赤の他人だという意識は拭えないゆえに、カーティスとリリアンは眷属を作ることを危惧しているのだろう。心証だけでは事実は立証できないのだ。
「……俺は諦めないぜ」カーティスは不安を吹っ切って言った。「それに収穫はあった。吸血王に加えて、ハーフヴァンパイアも手掛かりになりそうだからな」
「健闘を祈る」
諦めさせるどころか、火をつけてしまったようだ。だが、吸血鬼には時間が有り余っている。何か目標や生きる意志を持つことも、精神を保つのに必要だ。吸血鬼の中には、あまりに長く緩急のない生活に発狂するものも少なくない。それこそ、人間には到底不可能な目的意識を持てば、いい刺激となるだろう、と私はポジティブに考えた。
「感謝してるぜ、ヴィンセント。あんた、まるで歩く辞書だな」
「飛ぶこともできるぞ」
諧謔じみた私の返答に、カーティスは笑った。
「ギャップってやつか、あんたみたいにいつも仏頂面のやつがたまに冗談言うとおもしろくて仕方ねぇ。――それで、ほかにハーフヴァンパイアの情報はないか? 知り合いがいるならぜひ紹介してほしい」
「知らん」
私はたった一言で道破した。カーティスはぽかんと呆気に取られている。
「目撃情報はいままでに二、三回しか聞いたことがないし、それもすべて眉唾物だ。そもそもハーフヴァンパイアは一部の学者が提唱する仮説だからな。仮説は所詮、仮説だ。事実とはほど遠い。いまの定説は吸血王には生殖機能がなく、ハーフヴァンパイアなどいないということになっている」
カーティスは「そうか」とつぶやいて肩を落とした。
当然だ。人間は二十年で驚くほど成長する。そこから先は老化の一途をたどるが、ハーフヴァンパイアなるものがいるとすれば、さらに延々と成長し続けることになる。その成長する魔性は黒く、黒く――すべての光、太陽すらも黒く染め上げる暗黒の魔性へと進化を遂げるだろう。そうなれば当然、この世界は陰に落ちる。だが、ここにはまだ光があるのだ。それが、仮説を否定する事実である。
◇ Side Noel
冷たく、冷たく身体が冷える。冷血が体内を駆け巡る。奈落のように深い闇が、私の中にあるのを感じる。すべての光と熱を吸い込む奈落は、総毛立つような恐ろしい怪物の住処だ。その奈落は大口を開くように広がっている。暗がりの中から、怪物の姿が露わになる。中にいたのは、大人びた私だった――。
私は思わず目を見開いた。あれはなんだったのだろう。なりたかった自分の姿? それとも、主を守るために生まれた力の権化? 私にはわからないが、どうしようもなく寒気が走った。身も凍るように寒いが、不思議と力は湧いてきた。この身体を縛りつけていた聖火の熱も、いまでは冷たい炎に変わり果てた。先ほどまでと違い、なんとも居心地がいい。
主とカーティス、リリアンも動けるようになり、立ち上がった。
「ノエル……あんた、どうしちゃったの?」
リリアンが私を気遣う。よかった、みんな元気になったようだ。
「聖火が穢れた……私の聖歌もこれでは形無しですね。まさか、これだけ清めたというのに支配率が逆転するなんて、誤算――いえ、予想外ですね」
――そうか。魔性というのはこうやって扱うんだ。
私は全身から湧き上がる魔性を、力を込めて周囲に発散した。すると、私を中心にわずかに残った陽性の気は塗り変えられ、足元の植物は死に、大気までもがどす黒い瘴気となって毒された。
「魔性が可視化していますね。もう、私の手には負えません」
魔性というのは現実世界への違和感であり、突発種の存在規模の大きさだ。森羅万象の循環から外れたものたちの存在証明である。歯車仕掛けの巨大な機械に、礫が無理やり入り込もうとしている、というのが私のイメージだ。だが主曰く、もともとその歯車に瑕疵があり、礫を打ち込むことで正常に動くよう調整しているのだという。永久機関の調律師、というのが私たち突発種の字名だったか。陽性の突発種なら幸福をもって調律し、陰性の突発種なら不幸をもって調律する。
しかし、禍福に限らずこの世のものは表裏一体――誰かの不幸によって得られる幸福もあるのだ。外敵が現れれば戦い、相手の死をもって平穏を得る。大昔から人間がやってきたことだ。……人をいじめることによって得られる支配欲もそうである。
――ならば私はこの不幸をもたらす魔性をもって、あの修道女を殺し、みんなの命を守ってみせる。
私は瞑目し、全身に意識を集中した。体内を巡る血液と全身からほとばしる魔性――血液量の減りが早い。魔性を無駄に発散しすぎたようだ。失血状態になるまで、そう長くはないだろう。勝負は一瞬で決めるしかない。
私は瞠目し、手のひらを突き出して力を込めた。全身から漏れる魔性を抑え、手のひらの一点に絞る。可視化された魔性は渦を描きながらとどまった。回転させたほうが安定するな、と私は思った。
「なんとおぞましい……。凝縮された呪いそのものではありませんか」
「当たったらどうなるかわかんないわ。試しに当たってみて」
「冗談言わないでください。そんなものに当たったら即死ですよ。苦しまないのがせめてもの救いです」
「だったら祈りなさい。信徒なら得意でしょ」
私は言い捨てて、渾然と渦巻く魔性を放出した。かすっただけでも命を落とす凝縮された魔性は、まるで墨をまき散らすかのように空間を染めながらロジーナを目がけた。だが、彼女は間一髪のところで飛び退いた。人間にしてはいい動きだが、想定内だ。
私はロジーナが回避する予備動作から方向を先読みし、彼女の背後に高速で移動した。魔性の放出はフェイクにすぎない。彼女は私を見失っている。私に気づくまでの刹那が、あまりにも長く感じる。このもろそうな首を軽く握るだけで、人間は絶命するだろう。
「ノエル、気をつけろ!」
主が大声を発する。私はすんでのところで動きをとめた。
「やれやれ、絶好のチャンスが台なしです。あなたたち、いいコンビですね。こちらからすれば厄介ですけど」
と言って、ロジーナは修道服をたくし上げた。下には銀の鎖帷子を着ている。修道服がハイネックになっているため見えないが、おそらく首元まで銀をまとっているのだろう。危うく自滅するところだった。
「直接は触れられないってわけね。だったら武器を使うまでよ」
私は水銀灯の柱を素手で引きちぎり、薙刀のように構えた。
「どうか、神のご加護を」
ロジーナは両手を組んで祈りを上げた。信徒なりの覚悟の決め方だろうか。日本人の私には馴染みがなかった。――しかし、そんなことで情には流されない。私は柱を振りかぶり、薙ぎ払った。ロジーナの脇腹に命中し、彼女は無残に転げまわった。手ごたえは充分だ。だが、銀の鎖帷子が衝撃を吸収したのか、ロジーナは息も絶え絶えではあるが生きていた。
「ごめん。苦しめるつもりはなかったの。次で楽にしてあげるわ」
私はロジーナを見下ろしながら言った。
「ふふ、下劣で醜悪な吸血鬼らしく、もっといたぶったらどうですか?」
「心まで怪物になったつもりはないわ。それに、そんなこと言って失血状態になるのを狙ってるんでしょう?」
ロジーナは苦しそうに笑った。聖女と呼ばれる人間の最期は、想像通り優しい笑顔だった。……私もそろそろ限界が近づいている。人を殺すのは初めてだが、これは生きるためだ。覚悟を決めて、生を勝ち取らなければならない。
私は柱の先端をロジーナの胸にあてがった。この少し奥に、生命としての中枢があるのだ。軽く押すだけで、肉を裂き、骨を砕き、心臓を穿てば命は絶てる。簡単なことだ。何も臆することはない。カーティスとリリアン、そして何より、私の主を守るために戦ったのだ。ここでやらねば――――。
「ノエル、やめるんだ」
力を込めようとした瞬間、私の一番大切な人が、私をとめた。
どうして? 私は、あなたのために――――。
◆
私はノエルの手首をつかみ、とどめを阻止した。ノエルは驚いて私を見つめている。……いや、ノエルだけではない。この場にいるすべてのものが驚愕の思いでいることは手に取るようにわかった。
「ヴィー、なぜとめるのですか。こいつは、エクソシストなんですよ? このまま放っといたら、またいずれ命を狙われます」
ノエルは動揺し、目を泳がせながらもなんとか自分の考えを訴えた。
「ノエルの言う通りよ。何を血迷ったのか知らないけれど、エクソシストをみすみす見逃す吸血鬼なんて、聞いたこともないわ。何より、ヴィンセントらしくないわよ」
リリアンも異議を唱えた。それが当然だ。エクソシストを生きて返すなど、前代未聞だろう。自殺行為である。こちらの情報を彼らに漏らすばかりでなく、同族からも裏切り者として風当たりが強くなることは明白だ。
「ヴィーが人を殺すことを嫌うのはわかります。でも、エクソシストは例外ですよ。あなたも言ってたじゃないですか。敵を放置するなんて愚かだって」
ノエルを眷属にする前に、たしかに私はそんなことも言っていた。だが、いまは心境が変わってしまったのだ。私は黙って、首を横に振った。
「……あたしが汚れ仕事をすべて引き受けます。だから、ヴィーが気に病むことはありません。お願いです、そこをどいてください」
「ノエル、この手を離すんだ。頼む」
「あたしは……あなたを守りたいんです」
ノエルは瞳に涙を溜めて訴えた。しかし、私は意思を変えるつもりはない。互いに見つめ合いながら膠着していると、カーティスとリリアンが近づいた。
「ノエルちゃん、諦めな」
「ちょっとカーティスまで何言ってんの」
「あの男が馬鹿げたこととわかってて言ってんだ。テコでも動かねぇよ」
馬鹿げたこと、か……たしかに、昨日までの私だったら生きるためと割り切ってロジーナを殺していただろう。生きて帰すなど、愚の骨頂だ。
「すまない。カーティス、リリアン。君たちにまで迷惑をかけてしまう」
「まったくだぜ。けどいいさ。制圧できたのはヴィンセントとノエルちゃんのおかげだからな。それに俺としては、ノエルちゃんから吸血王の話が聞けたらそれだけで満足だ」
一悶着あるかと思ったが、カーティスは受け入れてくれた。
「あーあ、馬鹿な男を伴侶に持つと大変ね」リリアンは呆れて言った。「ね、ノエル。……ノエル?」
ノエルはうつむいたまま黙っていた。
「……眷属だからって、汚れることないのよ。主がそう言ってるんですもの」
リリアンはノエルの肩に手を置いて優しく言った。
「……うん、そうよね。もし、またヴィーを狙うようなことがあったら、何度だってあたしが追い返しちゃえばいいもんね」
ノエルは持ち前の前向きさで迷いを払拭した。しかし――それは、本当に彼女本来が持つものなのだろうか。
「末恐ろしいこと言うな、ノエルちゃんは」
「ついでにカーティスとリリアンも守ってあげるわよ」
ノエルとカーティス、リリアンは顔を見合わせて笑い、緊張していた場の空気は弛緩した。しかし、私ともうひとり――ロジーナだけは、いまだに張りつめた表情をしている。
「あなたたち、なんの冗談ですか? 私を見逃す、ということですか?」
ロジーナは拾った命に喜ぶでもなく、むしろ絶望したような面立ちだ。
「馬鹿な、あり得ません。吸血鬼がなぜ……悪魔は悪魔らしく、人間を食い殺しなさい!」
彼女は怒号を発した。その剣幕は普通ではない。
ロジーナにとって、吸血鬼は絶対的な悪なのだろう。それはある種、信仰に近いものがあるのかもしれない。神の御業よりも、悪魔の悪魔的な仕業を病的なまでに信じているのだ。なんとも逆説的な信仰である。
悪魔は人間に不幸をもたらす――それならば、信徒は悪魔を祓わなければならない。もし力なく敗れれば、吸血鬼に殺されるのは道理――その思想が崩れたならば、彼女は何を信じて戦うのか。
……だが、それはロジーナ自身の問題だ。私には関係ないことである。
「同情のつもりですか。それもまた、人間の弱い心の真似事です。そうじゃない……違います。あなたたちは――」
少々、錯乱しているようだ。呼吸も荒い。私は膝をつき、ロジーナの身体を診てやった。銀の鎖帷子を着込んでいるので詳しくは診断できないが、直接死に関わるような怪我はない。ノエルの攻撃を受けてなお致命傷を避けたのだから、彼女の体術もなかなかのものだ。
「止血の必要はないな。もうしばらくすれば動けるようになるだろう。そうしたら、どこへでも好きなところへ行くがいい」
私は立ち上がり、踵を返した。
「待ちなさい。答えるのです。あなたは、何をしているのですか?」
ロジーナが追いすがるように声をかけた。
「別に……情けをかけたつもりはない。お前の信仰心に傷をつけるつもりもない。見逃すことにためらいがないわけでもない。私たちの命がかかっているんだからな。だが……お前を殺すことで、悲しむものもいるだろう」
「そんな、馬鹿な……」
「人々はつながっている。私たちも他人事ではない。手を取り合うことはできないかもしれないが、いたずらに不幸を招く必要もないだろう」
「生命の輪を外れた突発種がつながっている、ですって? 冗談にしては笑えませんね。わかっているのでしょう? あなたたちは人の命を糧とする怪物なのです。人とは相容れぬ悪です」
「私も、そう思っていたよ。だがいまは違う。もう、不幸をまき散らすのはごめんだ」
これ以上は会話をしても仕方がない。私はとめていた足を動かし、ノエルたちの元へ向かった。
「とりあえず、ここから離れよう」私は言った。
「ああ。さすがにここではゆっくり話もできないな。――ついてこい」
カーティスは翼を生やして飛び立った。リリアンとノエルもそれに続いた。もったいないが、荷物をまとめている余裕はない。ここに捨て置くしかないだろう。しかし、またどこかで調達すればいいことだ。
私はロジーナのほうを振り返ろうとして、やはりやめておいた。何をどうしようと、彼女の逆鱗に触れるだけだろう。私は後ろ髪を引かれる思いで飛び立った。夜空は満天の星――新月なので、とてもきれいに瞬いていた。
「本当に、殺さないのですね」ロジーナは小さい声でつぶやいた。「ならば、この曇りなき両眼で、その真価を見極めましょう」
預言者のように、彼女は誰ともなく告げた。私にはその言葉が、得も言われぬ不吉な予兆に聞こえた。
◆
私たちはカーティスの案内で街中まで下り、オフィスビルの屋上へやってきた。勤務時間はとっくにすぎ、オフィス内は消灯している。これならしばらく人は来ないだろう。
「さっそくで悪いけどノエルちゃん。君の父親について教えてくれないか?」
カーティスが口火を切った。
「お父さんのこと? えっと、詳しくはわからないけど、いきなりどうして?」
唐突な質問にノエルは狼狽した。
「カーティス、あんたせっかちすぎよ」リリアンが子どもをたしなめるように制した。「ごめんね、ノエル。一から説明するわ」
そう言って、リリアンは吸血王のことや彼の生殖機能を含めた特性、そしてハーフヴァンパイアに至るまで、かいつまんでノエルに説明した。ノエルは時折うなずきながら聞いていたが、次第に表情が暗くなった。
「――――と、ごめん。私も無神経だったわね」リリアンが殊勝に謝る。「まだ幼いのに出生の秘密を突きつけるなんて……」
「ううん、違うの。お父さんが吸血鬼の始祖だったなんて驚いたけど、お父さんの話が聞けたのは正直うれしかったわ。……ただ、ハーフってのが、ちょっとね。ほら、あたしって未婚の女の娘で、しかもハーフでしょ? だから、それを理由にいじめられてたことがあったから、それを少し思い出しただけよ」
ノエルは青い瞳を伏せた。過去のトラウマは、いまとなっても彼女に重くのしかかっているらしい。普段の彼女の元気な様子を見ていると、つい忘れがちになってしまうが、決して消えない暗い過去はいつも彼女の中にあるのだ。
「でも、ハーフヴァンパイアだったおかげでみんなを守れたんだから、これでチャラかな! それに、成長するってことは大人になれるかもしれないってことだし」
「吸血鬼の不老不死の形質を持ってるんだから、成長するのは魔性だけだろうなぁ」
「そんなぁー。人の夢をすぐに壊さないでよ、カーティス」
ノエルが冗談交じりにカーティスを叩こうとすると、彼は全力でそれを避けた。
「危ない、危ない。肉片になるところだったぜ」
「ひどい!」
ふたりはふざけ合っていた。私には、そのやりとりが遠く離れたところで行われているように感じた。
「はいはい、ふたりともストップ」リリアンが手を叩いた。「それで、ノエルはお父さんのこと、何も憶えてないの?」
「うん……さっきも言ったけど、詳しくは知らないわ。あたしが生まれる前にはいなくなってたみたいだし、お母さんに聞いても誰よりも心の美しい人だった、とか曖昧なことばっかり言って煙に巻いてたし」
「写真とか手紙とか、なんでもいい。彼が残したものはないのか?」
「どうだろう。ひょっとしたらお母さんが持ってたかもしれないけど、あたしは見た憶えないかなぁ」
カーティスとリリアンは、ノエルにあれこれと質問を投げかけた。しかし、どれも確信を持てるようなものはなかった。
「母親が海外に長期滞在した経験はあるのか?」
「海外旅行すらしたことないって言ってたわ」
「ノエルちゃんは今年で十六歳だったな。ということは十六、七年前に吸血王は日本にいたはずだ。吸血鬼の常識から考えれば、すでに日本にはいない。だが、ヴィンセントを始めとした千年物は隠れ住む術に長けてるからな。ひょっとしたら、まだ日本にいるかもしれない」
カーティスは興奮気味にまくし立てた。
「ノエルちゃんの家を教えてくれないか? もしかすると君が知らないだけで、何かしらの手がかりが家に残されてるかもしれない」
「え……家を調べるの?」
「そりゃあ、もう。隅から隅までひっくり返す所存さ!」
「カーティス……デリカシーなさすぎよ」リリアンがたしなめた。「ノエルは女の子なんだから、その辺気を遣いなさいよ」
リリアンはノエルをかばうように抱きしめた。
「安心して。あなたの部屋は私が調べるから。ダメかしら?」
「うーん、仕方ないなぁ。ふたりのことは応援してるから、いいよ。――ヴィー、ふたりを案内してもいいですか?」
ノエルは私に振り返ってたずねた。私の表情が暗いのに気づき、彼女は訝しんだ。
「あの……どこか具合でも悪いんですか?」
「いや――」私は言葉を詰まらせた。「ふたりには住所だけ教えよう。ここでお別れだ」
「え、いきなり、そんな……。どうしてですか?」
「……ロジーナは私たちがラルゴの街に住んでいたころから見張っていた。あの街に戻るのは危険だ」
私は半分嘘をついた。――いや、嘘というより、本心を話していない。
「ふたりはそれを承知でノエルの家へ行くつもりなんだな?」
カーティスとリリアンはうなずいた。
「たしかにヴィンセントの言う通りね」リリアンはしょげているノエルの頭を撫でた。「私たちの都合で、あんたたちを危険に晒せないわ」
「決まりだな。ノエルちゃん、ヴィンセント。ふたりとも世話になったな。感謝してるぜ」
カーティスは手を差し出し、握手を求めた。私はそれに応えた。本当に感謝しているのだろう、彼の手は力がこもっており、少し痛かった。
「ノエル……元気でね。あとあんまり無茶しないように」
リリアンはノエルを抱擁した。
「心配しないで、大丈夫よ。……ふたりとも、ケータイなんて持ってないよね?」
「持ってないわね。必要ないから」
「そうだよね……。じゃあ、あたしの番号渡すから、たまには連絡ちょうだい」
そう言ってノエルは紙に電話番号と家の住所を書き、リリアンに渡した。
「ありがとう。必ず電話するわ」
それからもいくつか言葉を交わし、名残惜しそうにふたりは離れた。
「それじゃあ、また生きて再会しよう」
カーティスとリリアンが手を振り、夜空に舞い上がった。私はそのあとを目で追い、ノエルは大きく手を振りながら別れの言葉を叫んだ。ふたりの姿が見えなくなっても、しばらく彼女は黙ったままだった。おそらく、ノエルにとってあのふたりは初めてできた友人だったのだろう。それに十五、六年しか生きていないのだ。人との出会いと別れにまだ慣れておらず、心にぽっかりと穴が空いてしまったのだろう。
「なんだか、一気に静かになりましたね」
深夜の時間帯の街は、喧騒も少ない。遠くで鳴るサイレンの音と、バイクを暴走させる若者たちの音が、いやに静かに聞こえた。私にも、心に澱のようにわだかまるしこりがあるようだ。
「でも、あたしは久しぶりにヴィーとふたりっきりになれてうれしいです」
ノエルが私を見る時は、いつも笑顔だった。裏のない、純粋な笑顔――私はそれを曇らせ、ともすれば永遠に失わせることを言わなければならない。口は重く、なかなか話を切り出せなかった。ノエルはそんな私の様子を怪訝に思い、小首を傾げていた。しかし、私もふたりとの別れを惜しみ、感傷に浸っていると勘違いをしたのか、すぐに安心したように顔をほころばせ、彼らが飛び立った星空を眺めた。
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