20 / 94
本編
P5 ふくらむ妬心
しおりを挟む
次の週のある日。
旦那様がぐったりしたあの方を抱えるようにしてお戻りになりました。
そのまま執務室に運んでソファに横たえます。執務室の隣にあの方の私室があるのだから、そちらに運べば良いのに。
「今日も執務がかなり残っている。食事は執務室でとるので先に夕飯を済ませて休んでいなさい」
今日も旦那様はわたくしと夕飯を共にするおつもりはないようです。
わたくしは一人寂しく食事を済ませて夫婦の寝室で床につきました。しかしながら、旦那様に顧みられぬ我が身が惨めで、とうてい寝付く事はできそうにありません。そっと寝室を抜け出して執務室の前に参りました。
まだ旦那様が起きていらっしゃるならば、しばらくお酒でもいただきながらお話ししたいと思ったのでございます。
執務室に参りますと、まだ灯りはついておりました。それに、ほんの微かですが、人の声がします。
なんとかして中の様子を見たいと扉に近寄りますと、鍵穴から少しだけ室内を窺えることに気付きました。そっと覗いてみておりますと、旦那様はソファの傍らで横たわるあのお方に何か話しかけているご様子です。
「起き上がれるか?」
「……」
「いい、無理をするな」
低く柔らかなバリトンで優しく語り掛ける旦那様に、あの方がなんと答えておられるのか、ここからではまったく聞こえませんが、きっと睦言のような会話をしておられるのでしょう。
旦那様がわたくしにあのように熱の籠った声でお話しになることなどございません 。いつも優し気ではございますが、どこか突き放すような、よそよそしい礼儀正しさに満ちているのが「氷の貴公子」であるエルネスト・タシトゥルヌ様でございます。
あのように甘やかで愛おし気な声など、わたくしはついぞ聞いたことがございません。旦那様にとっては、わたくしではなくあのお方こそが甘やかな熱を向けるお相手なのでございましょう。
それに気付いてしまったわたくしは、嫉妬と惨めさで目の前が暗くなる思いがいたしました。
旦那様は水差しを手に取って水を口に含み、ソファの上にかがみこみます。
そのまましばらくぴちゃりぴちゃりという微かな水音が響き、ややあって身を起こされます。もう一度水を含んでソファの上にかがみこむと、またしばらく水音が響き、静かな室内に少しだけ荒い息遣いが響いたような気がしました。
「……ぅん……ぅぅ……」
旦那様とは明らかに違う、やや高めのくぐもった声がします。
これはもしや、旦那様はあの方とずっと口付けていらっしゃるのではないではないでしょうか。いつまでも水音を響かせて、くぐもった息を漏らさずにはいられないような、熱くねっとりとした口付けを。
わたくしに対しては、いつも儀礼的な口付けを手の甲にされるのがせいぜいだと申しますのに。わたくしはかっと頭の中が熱くなるのを感じ、扉の前から逃げるように立ち去りました。
これはれっきとした不貞でございます。
貴族の結婚は家と家の縁をつなぎ、血統を守るためのもの。跡継ぎさえ生まれてしまえば、夫婦ともに愛人をもうけて互いに関わらないお家も多々ございます。
しかし、愛人の私室をタウンハウス内に置くなど、聞いたことがございません。まして毎日のように執務室に連れ込むなど、貴族の役目というものを何だとお考えなのでしょうか。
朝になったら旦那様に断固として抗議して、二度とあの方をこの屋敷に立ち入らせないようにしなければ……
でも、わたくしにはわかっているのです。
わたくしがいくら抗議したところで、旦那様はあの方の事をあくまで上司と部下であるとおっしゃるだろうという事を。そして、嫉妬で狂いそうなわたくしに、呆れたような、わずらわしそうな眼を向けて、
「少しは私の職務や立場というものを理解してほしいものですね」
と、嘆息しながらおっしゃるのです。
「ディディがわざわざ屋敷まで来て政務を手伝ってくれるからこそ、私は妻の貴女を一人残して王城内の官舎にこもりきりにならずにすむのですよ。感謝こそすれ、あらぬ疑いをかけるなどもってのほかでしょう」
こう、柔らかでありながら、冷たい拒絶を漂わせた声で、取り付く島もなくおっしゃるに決まっております。
わたくしは悔しさと惨めさに心で涙を流しながら、必ずわたくしに相応しい旦那様の愛を手に入れて、あの方を見返してやるのだと固く心に誓ったのでございます。
旦那様がぐったりしたあの方を抱えるようにしてお戻りになりました。
そのまま執務室に運んでソファに横たえます。執務室の隣にあの方の私室があるのだから、そちらに運べば良いのに。
「今日も執務がかなり残っている。食事は執務室でとるので先に夕飯を済ませて休んでいなさい」
今日も旦那様はわたくしと夕飯を共にするおつもりはないようです。
わたくしは一人寂しく食事を済ませて夫婦の寝室で床につきました。しかしながら、旦那様に顧みられぬ我が身が惨めで、とうてい寝付く事はできそうにありません。そっと寝室を抜け出して執務室の前に参りました。
まだ旦那様が起きていらっしゃるならば、しばらくお酒でもいただきながらお話ししたいと思ったのでございます。
執務室に参りますと、まだ灯りはついておりました。それに、ほんの微かですが、人の声がします。
なんとかして中の様子を見たいと扉に近寄りますと、鍵穴から少しだけ室内を窺えることに気付きました。そっと覗いてみておりますと、旦那様はソファの傍らで横たわるあのお方に何か話しかけているご様子です。
「起き上がれるか?」
「……」
「いい、無理をするな」
低く柔らかなバリトンで優しく語り掛ける旦那様に、あの方がなんと答えておられるのか、ここからではまったく聞こえませんが、きっと睦言のような会話をしておられるのでしょう。
旦那様がわたくしにあのように熱の籠った声でお話しになることなどございません 。いつも優し気ではございますが、どこか突き放すような、よそよそしい礼儀正しさに満ちているのが「氷の貴公子」であるエルネスト・タシトゥルヌ様でございます。
あのように甘やかで愛おし気な声など、わたくしはついぞ聞いたことがございません。旦那様にとっては、わたくしではなくあのお方こそが甘やかな熱を向けるお相手なのでございましょう。
それに気付いてしまったわたくしは、嫉妬と惨めさで目の前が暗くなる思いがいたしました。
旦那様は水差しを手に取って水を口に含み、ソファの上にかがみこみます。
そのまましばらくぴちゃりぴちゃりという微かな水音が響き、ややあって身を起こされます。もう一度水を含んでソファの上にかがみこむと、またしばらく水音が響き、静かな室内に少しだけ荒い息遣いが響いたような気がしました。
「……ぅん……ぅぅ……」
旦那様とは明らかに違う、やや高めのくぐもった声がします。
これはもしや、旦那様はあの方とずっと口付けていらっしゃるのではないではないでしょうか。いつまでも水音を響かせて、くぐもった息を漏らさずにはいられないような、熱くねっとりとした口付けを。
わたくしに対しては、いつも儀礼的な口付けを手の甲にされるのがせいぜいだと申しますのに。わたくしはかっと頭の中が熱くなるのを感じ、扉の前から逃げるように立ち去りました。
これはれっきとした不貞でございます。
貴族の結婚は家と家の縁をつなぎ、血統を守るためのもの。跡継ぎさえ生まれてしまえば、夫婦ともに愛人をもうけて互いに関わらないお家も多々ございます。
しかし、愛人の私室をタウンハウス内に置くなど、聞いたことがございません。まして毎日のように執務室に連れ込むなど、貴族の役目というものを何だとお考えなのでしょうか。
朝になったら旦那様に断固として抗議して、二度とあの方をこの屋敷に立ち入らせないようにしなければ……
でも、わたくしにはわかっているのです。
わたくしがいくら抗議したところで、旦那様はあの方の事をあくまで上司と部下であるとおっしゃるだろうという事を。そして、嫉妬で狂いそうなわたくしに、呆れたような、わずらわしそうな眼を向けて、
「少しは私の職務や立場というものを理解してほしいものですね」
と、嘆息しながらおっしゃるのです。
「ディディがわざわざ屋敷まで来て政務を手伝ってくれるからこそ、私は妻の貴女を一人残して王城内の官舎にこもりきりにならずにすむのですよ。感謝こそすれ、あらぬ疑いをかけるなどもってのほかでしょう」
こう、柔らかでありながら、冷たい拒絶を漂わせた声で、取り付く島もなくおっしゃるに決まっております。
わたくしは悔しさと惨めさに心で涙を流しながら、必ずわたくしに相応しい旦那様の愛を手に入れて、あの方を見返してやるのだと固く心に誓ったのでございます。
0
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢と誤解され冷遇されていたのに、目覚めたら夫が豹変して求愛してくるのですが?
いりん
恋愛
初恋の人と結婚できたーー
これから幸せに2人で暮らしていける…そう思ったのに。
「私は夫としての務めを果たすつもりはない。」
「君を好きになることはない。必要以上に話し掛けないでくれ」
冷たく拒絶され、離婚届けを取り寄せた。
あと2週間で届くーーそうしたら、解放してあげよう。
ショックで熱をだし寝込むこと1週間。
目覚めると夫がなぜか豹変していて…!?
「君から話し掛けてくれないのか?」
「もう君が隣にいないのは考えられない」
無口不器用夫×優しい鈍感妻
すれ違いから始まる両片思いストーリー
(本編完結)無表情の美形王子に婚約解消され、自由の身になりました! なのに、なんで、近づいてくるんですか?
水無月あん
恋愛
本編は完結してます。8/6より、番外編はじめました。よろしくお願いいたします。
私は、公爵令嬢のアリス。ピンク頭の女性を腕にぶら下げたルイス殿下に、婚約解消を告げられました。美形だけれど、無表情の婚約者が苦手だったので、婚約解消はありがたい! はれて自由の身になれて、うれしい! なのに、なぜ、近づいてくるんですか? 私に興味なかったですよね? 無表情すぎる、美形王子の本心は? こじらせ、ヤンデレ、執着っぽいものをつめた、ゆるゆるっとした設定です。お気軽に楽しんでいただければ、嬉しいです。
女王は若き美貌の夫に離婚を申し出る
小西あまね
恋愛
「喜べ!やっと離婚できそうだぞ!」「……は?」
政略結婚して9年目、32歳の女王陛下は22歳の王配陛下に笑顔で告げた。
9年前の約束を叶えるために……。
豪胆果断だがどこか天然な女王と、彼女を敬愛してやまない美貌の若き王配のすれ違い離婚騒動。
「月と雪と温泉と ~幼馴染みの天然王子と最強魔術師~」の王子の姉の話ですが、独立した話で、作風も違います。
本作は小説家になろうにも投稿しています。
愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。
そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。
相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。
トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。
あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。
ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。
そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが…
追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。
今更ですが、閲覧の際はご注意ください。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません~死に戻った嫌われ令嬢は幸せになりたい~
桜百合
恋愛
旧題:もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません〜死に戻りの人生は別の誰かと〜
★第18回恋愛小説大賞で大賞を受賞しました。応援・投票してくださり、本当にありがとうございました!
10/24にレジーナブックス様より書籍が発売されました。
現在コミカライズも進行中です。
「もしも人生をやり直せるのなら……もう二度と、あなたの妻にはなりたくありません」
コルドー公爵夫妻であるフローラとエドガーは、大恋愛の末に結ばれた相思相愛の二人であった。
しかしナターシャという子爵令嬢が現れた途端にエドガーは彼女を愛人として迎え、フローラの方には見向きもしなくなってしまう。
愛を失った人生を悲観したフローラは、ナターシャに毒を飲ませようとするが、逆に自分が毒を盛られて命を落とすことに。
だが死んだはずのフローラが目を覚ますとそこは実家の侯爵家。
どうやらエドガーと知り合う前に死に戻ったらしい。
もう二度とあのような辛い思いはしたくないフローラは、一度目の人生の失敗を生かしてエドガーとの結婚を避けようとする。
※完結したので感想欄を開けてます(お返事はゆっくりになるかもです…!)
独自の世界観ですので、設定など大目に見ていただけると助かります。
※誤字脱字報告もありがとうございます!
こちらでまとめてのお礼とさせていただきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる