119 / 220
閑話1
テルマエ・イリュリア(コニー視点) 其の一
しおりを挟む
正式に法務補佐官となってかれこれ1か月。だいぶ業務にも慣れてきた。
今日も割り当てられた書類の処理を終え、なんとか定時で退庁できそうだと内心喜んでいたところ、視界の隅を見慣れた赤い尻尾が過ぎった。
「ヴォーレ?」
廊下に顔を出して声をかけると、彼は長い三つ編みを翻してくるりと振り返った。満月のように煌めく琥珀色の瞳を三日月に細め、にぱっと笑ってこちらに駆け寄る姿はまるで子犬のよう。
「コニー! ちょうど会いたかったんだ。明日の日曜日、空いてる?」
足取りだけでなく、声までが弾むようだ。
「ああ、特に用はないが……」
社交シーズンがちょうど終わったばかりの今は毎夜のように夜会が催されることもない。脳内でスケジュールを確認しながら答えると、彼は笑みを更に深くして浮き立つように言った。
「だったら明日一緒に公衆浴場に行かない? 最近行ってないから久しぶりにのんびりしたいな」
キラキラと期待に満ちた瞳で見上げられれば否やはない。
「もちろん構わないが……何か法務省に用があったのではないか?」
「あ、もう終わったんだ。次の叙勲で少尉に昇進する事になって。ついでに授爵もするから、その手続き」
彼は三か月ほど前に起きた元王太子クセルクセス殿下の毒殺未遂事件で表向きは殉職したことになっている。その際、それまで受けた授爵も白紙になって「平民出身の平騎士」という建前で原隊に復帰した。
しかし、その後も着々と実績を積み上げて来たので、改めて昇進と授爵を行う事になったらしい。
いずれも書類の上だけとはいえ、めでたい事には変わりない。
「そうか。それではお祝いをしないと」
「うん、だから明日は二人でお祝いしよう」
心から嬉しそうな様子にこちらの心も浮き立ってくる。
「せっかくだからプールで泳ごうよ。この夏は忙しすぎて海に行けなかったから。あとは中庭で美味しいものを食べて、図書館で何か読もうか……劇場に行くのもいいよね」
瞳を輝かせて指折り数えながらうきうきと明日の予定について話すヴィゴーレ。やりたい事が多すぎて、なかなか決まらないらしい。
この国の公衆浴場は単なる入浴施設ではない。
まず最初に中庭の一角に設けられた運動場でランニングやウエイトリフティングなどの運動を楽しむのが普通だ。更に本格的にスポーツを楽しみたい時は、隣接する屋外運動場でしっかり身体を鍛えたりテニスなどの競技を楽しむこともできる。
それからオイルマッサージを受けて座浴盆や蒸気サウナ、大浴場で身体を流す。
熱い湯で火照った身体は冷浴場と呼ばれるプールで水浴びしたり泳いだりして適度に冷ましながら毛穴を引き締める。
入浴後は談話室で会話やチェスを楽しむのがイリュリア市民の常だ。図書館も併設されていて、ゆったりと寛ぎながら好きなだけ読書を楽しむことも可能だ。
「とりあえず汗が引くまでは図書館で本を選ぶのはどうだ?俺も読みたい文献があるし」
ガラス張りの温室になっている中庭には南方の珍しい花木や果樹が植えられていて、散策するだけでも目にも楽しい上、美しい花壇を眺めながら食事を楽しめる。
帰りは劇場で芝居や音楽を楽しんだり、市場をひやかしても良い。
「うん、それから美味しいもの食べよう。ちょうど良い出し物があったら劇場にも寄ろうね。あと帰る前に市場ものぞきたいな」
結局、全部楽しむことにしたようだ。
日頃我が身を顧みずに王都の安寧を守るため無茶な任務にも自ら身を投じる彼のことだ。たまには羽を伸ばすのも良いと思う。
当日、入浴前に軽く汗を流す予定なので運動用の動きやすい衣服を着て、街歩き用の服は着替えとして持って行く。
休日なので従僕がついて来ようとしたが、帰りに使いを出すからと待ち合わせ場所で先に帰す事にした。少し渋い顔をされたが、ヴォーレが一緒だからいざという時の護衛は不要と告げれば不承不承に納得したようだ。
こんな時ばかりはしがらみの多い身分がわずらわしくもなるが、その分大切なものを守る力も持てるのだから致し方あるまい。
待ち合わせ場所ではヴォーレが既に待っていて、俺が馬車を降りるのを認めるとすぐに駆け寄ってきてくれた。
いつだって朗らかな親友だが、今日はひときわ機嫌が良いようだ。
「コニー! 今日はつきあってくれてありがとう!」
「いや、俺も久しぶりに来たかったから。誘ってくれてちょうど良かった」
星をまき散らすかのように輝かしい笑顔を振りまく友人を見ていると、それだけでもう楽しくなってくるのだから不思議なものだ。
「まずは中庭で一汗流すか」
「うん、軽くランニングでもしよう。それからマッサージ受けて、座浴盆ですっきりしたら大浴場でゆったりしようよ」
中庭に入ってすぐの受付で料金を払って余計な荷を預ける。この事務所には従者のための控室もあり、ここで主人が戻ってくるのを寛ぎながら待っている者も多い。
ガラス張りの高い天井に覆われた中庭は明るく開放的で、色鮮やかな花がそこここに咲き乱れている。
南国の花特有の甘やかな芳香が漂う中、ランニング用のコースを軽く一周するとやや汗ばんできた。
「ね、今度はレスリングする?」
正直、現役の騎士の中でも腕利きである彼と組み手をしてもまったく歯が立たないとは思うが、ニコニコと楽し気に誘われては断れるはずもなく。
数秒後。
「もう、コニー隙が多すぎ。いくら護衛がつくと言っても少しは身を守れないと」
「すまん。……しかしお前ほど腕の立つ襲撃者というのもそうそういないと思うぞ」
構えるとほぼ同時に懐に入られたかと思うとなすすべもなく投げられて、そのまま関節をを極められてしまった。彼が何をどうしたのかさっぱり見えなかったしわからない。
「筋肉はしっかりついてるみたいだし、鍛錬すればもっといい動きができると思うよ」
「う……善処する」
組み付いたままご丁寧にあちこち触って筋肉のつき具合まで確かめられ、笑顔で言いきられてしまうといたたまれない。
「あれ?ポテスタース……?」
驚愕の混じった声に声の方を見上げると、赤みがかった金髪の長身の男が呆然とした顔で立っていた。たしかウェルテクス・ラハム……軍閥貴族の中心的な存在であるラハム侯爵家の三男坊だ。
俺たちとは学園の同期で、騎士科では首席だったはず。
「そんな……どういう事だ……?」
ヴォーレは幽霊でも見たかのように顔色を悪くしてこちらを凝視する彼の様子に不思議そうに目を瞬かせると、ふと思い至って俺を放して立ち上がった。無論、俺もすぐに立ち上がる。
「驚かせてごめん、そういえば表向き殉死したことになってたんだよね」
「表向き……? 本当は生きていたのか」
ヴォーレが悪戯っぽく笑って言うと、ラハムが呻くように言葉を絞り出した。
なるほど、表向きの発表通りにヴォーレが死んだと思っていたから本当に幽霊だとでも思ったのか。
俺は現場に居合わせて事情を知っているし、いつも一緒にいるからすっかり忘れていたが、全く事情を知らない人間がいきなり出くわせば驚くのも無理はない。
「まぁ、殿下が廃太子になるくらいの騒ぎだったから、誰も責任を取らないって訳に行かないでしょ。……そういう事だから、気が付かなかったことにしてくれる?」
「あ……ああ」
ラハムの顔色は依然として悪い。まだ幽霊だと思っているのか、それとも胸糞悪い上層部の決定に動揺しているのか。
「軍ではよくあることだからさ。次の叙勲まではただの平民の騎兵だよ。もうじき爵位を頂くことになってるけど、ポテスタースの姓はもう使えないから気軽にヴォーレって呼んでくれると嬉しいな」
「なるほど。それでは俺の事はテックスと呼んでもらえないか?」
「うん! 知ってる人は知ってるけど、表向きは死んだことになってるから、僕が生きてるってことは人には言わないでね」
ヴォーレがいつも通りの笑顔で右手の人差し指を唇に当てて言うと、ようやくラハムの顔色も戻って来た。
「ああ、約束する。……それにしても一目見ればわかる人間を書類の上だけ死んだことにして始末をつけるとは、随分とお粗末だな」
「それは僕もそう思うけど……処分を決めた人にそう言ってよね。上の決定に逆らえる立場じゃないんだから」
少し頬を膨らませて憤然と言うヴォーレに、ようやく人心地ついたらしいラハムが苦笑を返した。
「そうだ、良かったら少し組手していかない?お風呂の前に一汗かいておきたくて」
「いいのか?俺では全く相手にならんと思うが」
「それは買い被りだよ。稽古のつもりで軽くやってみよ?」
確かに俺ではあまりにも相手にならない。たとえ新米でも近衛の一員であるラハムの方が少しは良い運動になるだろう。
遠慮しながらも向き合って構えたラハムに対し、ヴォーレは自然体で立っているだけに見える。
出方を待っている素振りに、自分から仕掛けるしかないかとラハムはまず掴みかかってみるが、避けるまでもなく軽く手を添えるだけであっさり捌かれてしまった。その後、しばらく蹴りも交えて次々と拳を繰り出すが、どれも決定打にならずに軽くあしらわれてしまう。
ラハムは最後に鋭い突きを放ったが、ヴォーレが突きかかってきた腕にそっと自分の腕を沿わせながら軽く引いてくるりと身をひるがえすと、回転しながら綺麗に投げられてしまった。
尻もちをついたところにヴォーレがいい笑顔で手を差し伸べる。
「スピードもパワーもあるけど、ちょっと無駄が多いかな? 最後の突きはすごく良かったよ。後は避けられた時にすぐ止められるような細かいコントロールかな?」
「格闘もすごいな……これも師匠から?」
確かに学校で教わる通り一遍の格闘技とは全く違う。どうやら騎士科で教えられたものともだいぶ違うようだ。
感心したようにラハムが尋ねると、少し苦笑して間があいてしまう。師匠の話はヴォーレにとっては鬼門だが、何も知らないラハムに悪気はないのだろう。
「違うよ、これはバージル……第四旅団にいる友達に教わったの。一族に伝わる格闘技なんだって。彼、チュルカだから」
チュルカとはシュチパリア北部の山岳地帯に住む遊牧民族だ。第四旅団は王国北部の山岳警備と国境警備を司る。
なぜそんなところに友人がいるのだろう?
そんな俺たちの疑問を感じ取ったのか、ヴォーレは苦笑したまま理由を説明してくれた。
「僕たち第二旅団は監査もかねて、毎年合同演習で半月くらいあちこち行くから。僕はいつも第四に行くんだ」
なるほど、警邏は軍警察も兼ねているので、他の旅団に不正がないかの監査にも行かねばならないらしい。
「なるほどな。まだまだひよっこで上の人に言われた事をこなすのがやっとの俺とは大違いだ」
「大丈夫、最初は誰だってひよっこだよ。しっかり上司や先輩の話を聞いてきちんと頑張っていれば自然に実力も経験も身について行くものだから」
悔し気に感嘆するラハムにヴォーレがにこにこと言えば、奴の表情もすっきりと明るくなった。
「それじゃせっかく身体も温まってきたことだし、みんなでお風呂入ろう?」
うきうきとヴォーレが誘うとラハムも実に嬉しそうに頷いた。
……もしかして、今日はこのまま一緒に行動する事になるのか?
何とはなしに気まずいものを感じながら、俺も二人に続いて更衣室を兼ねた微温室に向かった。
今日も割り当てられた書類の処理を終え、なんとか定時で退庁できそうだと内心喜んでいたところ、視界の隅を見慣れた赤い尻尾が過ぎった。
「ヴォーレ?」
廊下に顔を出して声をかけると、彼は長い三つ編みを翻してくるりと振り返った。満月のように煌めく琥珀色の瞳を三日月に細め、にぱっと笑ってこちらに駆け寄る姿はまるで子犬のよう。
「コニー! ちょうど会いたかったんだ。明日の日曜日、空いてる?」
足取りだけでなく、声までが弾むようだ。
「ああ、特に用はないが……」
社交シーズンがちょうど終わったばかりの今は毎夜のように夜会が催されることもない。脳内でスケジュールを確認しながら答えると、彼は笑みを更に深くして浮き立つように言った。
「だったら明日一緒に公衆浴場に行かない? 最近行ってないから久しぶりにのんびりしたいな」
キラキラと期待に満ちた瞳で見上げられれば否やはない。
「もちろん構わないが……何か法務省に用があったのではないか?」
「あ、もう終わったんだ。次の叙勲で少尉に昇進する事になって。ついでに授爵もするから、その手続き」
彼は三か月ほど前に起きた元王太子クセルクセス殿下の毒殺未遂事件で表向きは殉職したことになっている。その際、それまで受けた授爵も白紙になって「平民出身の平騎士」という建前で原隊に復帰した。
しかし、その後も着々と実績を積み上げて来たので、改めて昇進と授爵を行う事になったらしい。
いずれも書類の上だけとはいえ、めでたい事には変わりない。
「そうか。それではお祝いをしないと」
「うん、だから明日は二人でお祝いしよう」
心から嬉しそうな様子にこちらの心も浮き立ってくる。
「せっかくだからプールで泳ごうよ。この夏は忙しすぎて海に行けなかったから。あとは中庭で美味しいものを食べて、図書館で何か読もうか……劇場に行くのもいいよね」
瞳を輝かせて指折り数えながらうきうきと明日の予定について話すヴィゴーレ。やりたい事が多すぎて、なかなか決まらないらしい。
この国の公衆浴場は単なる入浴施設ではない。
まず最初に中庭の一角に設けられた運動場でランニングやウエイトリフティングなどの運動を楽しむのが普通だ。更に本格的にスポーツを楽しみたい時は、隣接する屋外運動場でしっかり身体を鍛えたりテニスなどの競技を楽しむこともできる。
それからオイルマッサージを受けて座浴盆や蒸気サウナ、大浴場で身体を流す。
熱い湯で火照った身体は冷浴場と呼ばれるプールで水浴びしたり泳いだりして適度に冷ましながら毛穴を引き締める。
入浴後は談話室で会話やチェスを楽しむのがイリュリア市民の常だ。図書館も併設されていて、ゆったりと寛ぎながら好きなだけ読書を楽しむことも可能だ。
「とりあえず汗が引くまでは図書館で本を選ぶのはどうだ?俺も読みたい文献があるし」
ガラス張りの温室になっている中庭には南方の珍しい花木や果樹が植えられていて、散策するだけでも目にも楽しい上、美しい花壇を眺めながら食事を楽しめる。
帰りは劇場で芝居や音楽を楽しんだり、市場をひやかしても良い。
「うん、それから美味しいもの食べよう。ちょうど良い出し物があったら劇場にも寄ろうね。あと帰る前に市場ものぞきたいな」
結局、全部楽しむことにしたようだ。
日頃我が身を顧みずに王都の安寧を守るため無茶な任務にも自ら身を投じる彼のことだ。たまには羽を伸ばすのも良いと思う。
当日、入浴前に軽く汗を流す予定なので運動用の動きやすい衣服を着て、街歩き用の服は着替えとして持って行く。
休日なので従僕がついて来ようとしたが、帰りに使いを出すからと待ち合わせ場所で先に帰す事にした。少し渋い顔をされたが、ヴォーレが一緒だからいざという時の護衛は不要と告げれば不承不承に納得したようだ。
こんな時ばかりはしがらみの多い身分がわずらわしくもなるが、その分大切なものを守る力も持てるのだから致し方あるまい。
待ち合わせ場所ではヴォーレが既に待っていて、俺が馬車を降りるのを認めるとすぐに駆け寄ってきてくれた。
いつだって朗らかな親友だが、今日はひときわ機嫌が良いようだ。
「コニー! 今日はつきあってくれてありがとう!」
「いや、俺も久しぶりに来たかったから。誘ってくれてちょうど良かった」
星をまき散らすかのように輝かしい笑顔を振りまく友人を見ていると、それだけでもう楽しくなってくるのだから不思議なものだ。
「まずは中庭で一汗流すか」
「うん、軽くランニングでもしよう。それからマッサージ受けて、座浴盆ですっきりしたら大浴場でゆったりしようよ」
中庭に入ってすぐの受付で料金を払って余計な荷を預ける。この事務所には従者のための控室もあり、ここで主人が戻ってくるのを寛ぎながら待っている者も多い。
ガラス張りの高い天井に覆われた中庭は明るく開放的で、色鮮やかな花がそこここに咲き乱れている。
南国の花特有の甘やかな芳香が漂う中、ランニング用のコースを軽く一周するとやや汗ばんできた。
「ね、今度はレスリングする?」
正直、現役の騎士の中でも腕利きである彼と組み手をしてもまったく歯が立たないとは思うが、ニコニコと楽し気に誘われては断れるはずもなく。
数秒後。
「もう、コニー隙が多すぎ。いくら護衛がつくと言っても少しは身を守れないと」
「すまん。……しかしお前ほど腕の立つ襲撃者というのもそうそういないと思うぞ」
構えるとほぼ同時に懐に入られたかと思うとなすすべもなく投げられて、そのまま関節をを極められてしまった。彼が何をどうしたのかさっぱり見えなかったしわからない。
「筋肉はしっかりついてるみたいだし、鍛錬すればもっといい動きができると思うよ」
「う……善処する」
組み付いたままご丁寧にあちこち触って筋肉のつき具合まで確かめられ、笑顔で言いきられてしまうといたたまれない。
「あれ?ポテスタース……?」
驚愕の混じった声に声の方を見上げると、赤みがかった金髪の長身の男が呆然とした顔で立っていた。たしかウェルテクス・ラハム……軍閥貴族の中心的な存在であるラハム侯爵家の三男坊だ。
俺たちとは学園の同期で、騎士科では首席だったはず。
「そんな……どういう事だ……?」
ヴォーレは幽霊でも見たかのように顔色を悪くしてこちらを凝視する彼の様子に不思議そうに目を瞬かせると、ふと思い至って俺を放して立ち上がった。無論、俺もすぐに立ち上がる。
「驚かせてごめん、そういえば表向き殉死したことになってたんだよね」
「表向き……? 本当は生きていたのか」
ヴォーレが悪戯っぽく笑って言うと、ラハムが呻くように言葉を絞り出した。
なるほど、表向きの発表通りにヴォーレが死んだと思っていたから本当に幽霊だとでも思ったのか。
俺は現場に居合わせて事情を知っているし、いつも一緒にいるからすっかり忘れていたが、全く事情を知らない人間がいきなり出くわせば驚くのも無理はない。
「まぁ、殿下が廃太子になるくらいの騒ぎだったから、誰も責任を取らないって訳に行かないでしょ。……そういう事だから、気が付かなかったことにしてくれる?」
「あ……ああ」
ラハムの顔色は依然として悪い。まだ幽霊だと思っているのか、それとも胸糞悪い上層部の決定に動揺しているのか。
「軍ではよくあることだからさ。次の叙勲まではただの平民の騎兵だよ。もうじき爵位を頂くことになってるけど、ポテスタースの姓はもう使えないから気軽にヴォーレって呼んでくれると嬉しいな」
「なるほど。それでは俺の事はテックスと呼んでもらえないか?」
「うん! 知ってる人は知ってるけど、表向きは死んだことになってるから、僕が生きてるってことは人には言わないでね」
ヴォーレがいつも通りの笑顔で右手の人差し指を唇に当てて言うと、ようやくラハムの顔色も戻って来た。
「ああ、約束する。……それにしても一目見ればわかる人間を書類の上だけ死んだことにして始末をつけるとは、随分とお粗末だな」
「それは僕もそう思うけど……処分を決めた人にそう言ってよね。上の決定に逆らえる立場じゃないんだから」
少し頬を膨らませて憤然と言うヴォーレに、ようやく人心地ついたらしいラハムが苦笑を返した。
「そうだ、良かったら少し組手していかない?お風呂の前に一汗かいておきたくて」
「いいのか?俺では全く相手にならんと思うが」
「それは買い被りだよ。稽古のつもりで軽くやってみよ?」
確かに俺ではあまりにも相手にならない。たとえ新米でも近衛の一員であるラハムの方が少しは良い運動になるだろう。
遠慮しながらも向き合って構えたラハムに対し、ヴォーレは自然体で立っているだけに見える。
出方を待っている素振りに、自分から仕掛けるしかないかとラハムはまず掴みかかってみるが、避けるまでもなく軽く手を添えるだけであっさり捌かれてしまった。その後、しばらく蹴りも交えて次々と拳を繰り出すが、どれも決定打にならずに軽くあしらわれてしまう。
ラハムは最後に鋭い突きを放ったが、ヴォーレが突きかかってきた腕にそっと自分の腕を沿わせながら軽く引いてくるりと身をひるがえすと、回転しながら綺麗に投げられてしまった。
尻もちをついたところにヴォーレがいい笑顔で手を差し伸べる。
「スピードもパワーもあるけど、ちょっと無駄が多いかな? 最後の突きはすごく良かったよ。後は避けられた時にすぐ止められるような細かいコントロールかな?」
「格闘もすごいな……これも師匠から?」
確かに学校で教わる通り一遍の格闘技とは全く違う。どうやら騎士科で教えられたものともだいぶ違うようだ。
感心したようにラハムが尋ねると、少し苦笑して間があいてしまう。師匠の話はヴォーレにとっては鬼門だが、何も知らないラハムに悪気はないのだろう。
「違うよ、これはバージル……第四旅団にいる友達に教わったの。一族に伝わる格闘技なんだって。彼、チュルカだから」
チュルカとはシュチパリア北部の山岳地帯に住む遊牧民族だ。第四旅団は王国北部の山岳警備と国境警備を司る。
なぜそんなところに友人がいるのだろう?
そんな俺たちの疑問を感じ取ったのか、ヴォーレは苦笑したまま理由を説明してくれた。
「僕たち第二旅団は監査もかねて、毎年合同演習で半月くらいあちこち行くから。僕はいつも第四に行くんだ」
なるほど、警邏は軍警察も兼ねているので、他の旅団に不正がないかの監査にも行かねばならないらしい。
「なるほどな。まだまだひよっこで上の人に言われた事をこなすのがやっとの俺とは大違いだ」
「大丈夫、最初は誰だってひよっこだよ。しっかり上司や先輩の話を聞いてきちんと頑張っていれば自然に実力も経験も身について行くものだから」
悔し気に感嘆するラハムにヴォーレがにこにこと言えば、奴の表情もすっきりと明るくなった。
「それじゃせっかく身体も温まってきたことだし、みんなでお風呂入ろう?」
うきうきとヴォーレが誘うとラハムも実に嬉しそうに頷いた。
……もしかして、今日はこのまま一緒に行動する事になるのか?
何とはなしに気まずいものを感じながら、俺も二人に続いて更衣室を兼ねた微温室に向かった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
私と子供より、夫は幼馴染とその子供のほうが大切でした。
小野 まい
恋愛
結婚記念日のディナーに夫のオスカーは現れない。
「マリアが熱を出したらしい」
駆けつけた先で、オスカーがマリアと息子カイルと楽しげに食事をする姿を妻のエリザが目撃する。
「また裏切られた……」
いつも幼馴染を優先するオスカーに、エリザの不満は限界に達していた。
「あなたは家族よりも幼馴染のほうが大事なのね」
離婚する気持ちが固まっていく。
婚約破棄ですか???実家からちょうど帰ってこいと言われたので好都合です!!!これからは復讐をします!!!~どこにでもある普通の令嬢物語~
tartan321
恋愛
婚約破棄とはなかなか考えたものでございますね。しかしながら、私はもう帰って来いと言われてしまいました。ですから、帰ることにします。これで、あなた様の口うるさい両親や、その他の家族の皆様とも顔を合わせることがないのですね。ラッキーです!!!
壮大なストーリーで奏でる、感動的なファンタジーアドベンチャーです!!!!!最後の涙の理由とは???
一度完結といたしました。続編は引き続き書きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
没落港の整備士男爵 ~「構造解析」スキルで古代設備を修理(レストア)したら、大陸一の物流拠点になり、王家も公爵家も頭が上がらなくなった件~
namisan
ファンタジー
大陸の南西端に位置するベルナ子爵領。
かつては貿易で栄えたこの港町も、今は見る影もない。
海底には土砂が堆積して大型船は入港できず、倉庫街は老朽化し、特産品もない。借金まみれの父と、諦めきった家臣たち。そこにあるのは、緩やかな「死」だけだった。
そんな没落寸前の領地の嫡男、アレン(16歳)に転生した主人公には、前世の記憶があった。
それは、日本で港湾管理者兼エンジニアとして働き、現場で散った「整備士」としての知識。
そして、彼にはもう一つ、この世界で目覚めた特異な能力があった。
対象の構造や欠陥、魔力の流れが設計図のように視えるスキル――【構造解析】。
「壊れているなら、直せばいい。詰まっているなら、通せばいい」
アレンは錆びついた古代の「浚渫(しゅんせつ)ゴーレム」を修理して港を深く掘り直し、魔導冷却庫を「熱交換の最適化」で復活させて、腐るだけだった魚を「最高級の輸出品」へと変えていく。
ドケチな家令ガルシアと予算を巡って戦い、荒くれ者の港湾長ゲンと共に泥にまみれ、没落商会の女主人メリッサと手を組んで販路を開拓する。
やがてその港には、陸・海・空の物流革命が巻き起こる。
揺れない「サスペンション馬車」が貴族の移動を変え、「鮮度抜群の魚介グルメ」が王族の胃袋を掴み、気性の荒いワイバーンを手懐けた「空輸便」が世界を結ぶ。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
無能妃候補は辞退したい
水綴(ミツヅリ)
ファンタジー
貴族の嗜み・教養がとにかく身に付かず、社交会にも出してもらえない無能侯爵令嬢メイヴィス・ラングラーは、死んだ姉の代わりに15歳で王太子妃候補として王宮へ迎え入れられる。
しかし王太子サイラスには周囲から正妃最有力候補と囁かれる公爵令嬢クリスタがおり、王太子妃候補とは名ばかりの茶番レース。
帰る場所のないメイヴィスは、サイラスとクリスタが正式に婚約を発表する3年後までひっそりと王宮で過ごすことに。
誰もが不出来な自分を見下す中、誰とも関わりたくないメイヴィスはサイラスとも他の王太子妃候補たちとも距離を取るが……。
果たしてメイヴィスは王宮を出られるのか?
誰にも愛されないひとりぼっちの無気力令嬢が愛を得るまでの話。
この作品は「小説家になろう」「カクヨム」にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる