柴犬ゴン太のひとりごと

星 陽月

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【Episode 14】

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 春の暖かさに包まれた公園を、風がやさしく流れていく。
 その風に、吾輩は身をゆだねた。
 風の中にかすかではあるが、潮の匂いが混じっている。
 吾輩は大きく息を吸いこんだ。
 吾輩が大原家に来て最初の年、パパの運転する車で海水浴に行ったことがあった。
 海岸沿いを走る車の中から、初めて眼にする海の広大さに吾輩は圧倒されまくった。
 感動のあまり、まだ小さかった身体を小刻みに震わせたほどだ。
 吾輩を膝の上に載せてくれていたママがウインドウを開けると、車内はあっという間に潮の匂いで満ちた。
 半分ほど開いたウインドウから、吾輩は顔を出して潮風を受け、そのとき、潮の匂いというものを初めて嗅いだのである。
 眼を細めながら潮風を感じていると、すぐに鼻先が乾いてしまい、吾輩は顔を引っこめてママの顔を見上げた。
 ママは微笑みの中で、やさしく吾輩の頭をなでてくれた。
 隣には大ママとその膝の上に抱かれた、まだ赤ん坊の真紀の姿があった。
 あのころは吾輩も真紀もほんとに小さかった。
 彼女はよく泣いてばかりいた。
 そんなとき、吾輩が顔を覗きこむと、不思議と真紀は泣きやんで、「きゃ、きゃ!」と手を伸ばしてきて笑うのだった。
 真紀はとても可愛いくて、もちろん暴力的な行為をするはずもなかった。
 
 そのころはまだ――
 
 そして真紀は成長し、吾輩の天災となったのだ。
 思えば、あのころがとても懐かしい。
 平和な日々であった。
 桜の花びらが舞う園内を、眼を細めて眺めながら吾輩は思いを馳せた。
 と、

「おい、ゴン太」

 物思いに耽っている吾輩に、マイケルが声をかけてきた。

「我らのマドンナがやって来たぜ」

 マイケルの視線を追って眼を向けると、シェットランド・シープドッグのルーシーが、主人に連れられて公園に入ってくるところだった。

 ああ、ルーシー……。

 彼女はなんとも美しい。
 風に流れる、長い毛並み。
 そして、しなやかな体躯。
 すっと通った鼻筋に、口許から覗く見事な犬歯。
 黒目の勝った瞳は、黒く煌(かがや)いたブラック・ダイヤモンドだ。
 どこからどう見ても、完璧な美しさである。
 その美しさに、吾輩はしばし見惚れる。

「ゴン太、声をかけに行こうぜ」

 言う間に、マイケルはルーシーに向かって歩き出した。

「お、おい……」

 吾輩はためらいながらも、マイケルのあとをついていく。
 鼓動が激しく胸を打ちはじめる。
 いままでも、幾度となく声をかけ合ったことはあるが、それはいつも挨拶程度で、その挨拶というもの決まってルーシーのほうからである。

「こんにちは、ゴン太さん」

 やさしく声をかけてくるルーシーに対し、

「やあ、ルーシー」

 吾輩ときたら、そう返すのがやっとで、「君は、いつ見ても美しいね」などとは言えるわけもなく、ハンパに眼をそらして、そそくさとその場を離れるのであった。
 そうして、オス犬たちに囲まれているルーシーを、遠目から見つめているのだ。
 彼女は高嶺(たかね)の花。
 いや、高嶺の花ならばまだ、何万分の一ほど可能性はあるかもしれない。
 だが、吾輩のような柴犬とシェットランド・シープドッグの彼女とでは、遺伝子のレベルで違いすぎる。
 ふたりが結ばれることは、何億分の一の確率もないのである。
 吾輩とて、馬鹿ではない。
 結ばれる確立のない彼女にアプローチをかけるような、愚かな真似はしたくない。
 そう思いつつも、彼女に惹かれている自分を、どうともしがたいのである。
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