14 / 94
【Episode 14】
しおりを挟む
春の暖かさに包まれた公園を、風がやさしく流れていく。
その風に、吾輩は身をゆだねた。
風の中にかすかではあるが、潮の匂いが混じっている。
吾輩は大きく息を吸いこんだ。
吾輩が大原家に来て最初の年、パパの運転する車で海水浴に行ったことがあった。
海岸沿いを走る車の中から、初めて眼にする海の広大さに吾輩は圧倒されまくった。
感動のあまり、まだ小さかった身体を小刻みに震わせたほどだ。
吾輩を膝の上に載せてくれていたママがウインドウを開けると、車内はあっという間に潮の匂いで満ちた。
半分ほど開いたウインドウから、吾輩は顔を出して潮風を受け、そのとき、潮の匂いというものを初めて嗅いだのである。
眼を細めながら潮風を感じていると、すぐに鼻先が乾いてしまい、吾輩は顔を引っこめてママの顔を見上げた。
ママは微笑みの中で、やさしく吾輩の頭をなでてくれた。
隣には大ママとその膝の上に抱かれた、まだ赤ん坊の真紀の姿があった。
あのころは吾輩も真紀もほんとに小さかった。
彼女はよく泣いてばかりいた。
そんなとき、吾輩が顔を覗きこむと、不思議と真紀は泣きやんで、「きゃ、きゃ!」と手を伸ばしてきて笑うのだった。
真紀はとても可愛いくて、もちろん暴力的な行為をするはずもなかった。
そのころはまだ――
そして真紀は成長し、吾輩の天災となったのだ。
思えば、あのころがとても懐かしい。
平和な日々であった。
桜の花びらが舞う園内を、眼を細めて眺めながら吾輩は思いを馳せた。
と、
「おい、ゴン太」
物思いに耽っている吾輩に、マイケルが声をかけてきた。
「我らのマドンナがやって来たぜ」
マイケルの視線を追って眼を向けると、シェットランド・シープドッグのルーシーが、主人に連れられて公園に入ってくるところだった。
ああ、ルーシー……。
彼女はなんとも美しい。
風に流れる、長い毛並み。
そして、しなやかな体躯。
すっと通った鼻筋に、口許から覗く見事な犬歯。
黒目の勝った瞳は、黒く煌(かがや)いたブラック・ダイヤモンドだ。
どこからどう見ても、完璧な美しさである。
その美しさに、吾輩はしばし見惚れる。
「ゴン太、声をかけに行こうぜ」
言う間に、マイケルはルーシーに向かって歩き出した。
「お、おい……」
吾輩はためらいながらも、マイケルのあとをついていく。
鼓動が激しく胸を打ちはじめる。
いままでも、幾度となく声をかけ合ったことはあるが、それはいつも挨拶程度で、その挨拶というもの決まってルーシーのほうからである。
「こんにちは、ゴン太さん」
やさしく声をかけてくるルーシーに対し、
「やあ、ルーシー」
吾輩ときたら、そう返すのがやっとで、「君は、いつ見ても美しいね」などとは言えるわけもなく、ハンパに眼をそらして、そそくさとその場を離れるのであった。
そうして、オス犬たちに囲まれているルーシーを、遠目から見つめているのだ。
彼女は高嶺(たかね)の花。
いや、高嶺の花ならばまだ、何万分の一ほど可能性はあるかもしれない。
だが、吾輩のような柴犬とシェットランド・シープドッグの彼女とでは、遺伝子のレベルで違いすぎる。
ふたりが結ばれることは、何億分の一の確率もないのである。
吾輩とて、馬鹿ではない。
結ばれる確立のない彼女にアプローチをかけるような、愚かな真似はしたくない。
そう思いつつも、彼女に惹かれている自分を、どうともしがたいのである。
その風に、吾輩は身をゆだねた。
風の中にかすかではあるが、潮の匂いが混じっている。
吾輩は大きく息を吸いこんだ。
吾輩が大原家に来て最初の年、パパの運転する車で海水浴に行ったことがあった。
海岸沿いを走る車の中から、初めて眼にする海の広大さに吾輩は圧倒されまくった。
感動のあまり、まだ小さかった身体を小刻みに震わせたほどだ。
吾輩を膝の上に載せてくれていたママがウインドウを開けると、車内はあっという間に潮の匂いで満ちた。
半分ほど開いたウインドウから、吾輩は顔を出して潮風を受け、そのとき、潮の匂いというものを初めて嗅いだのである。
眼を細めながら潮風を感じていると、すぐに鼻先が乾いてしまい、吾輩は顔を引っこめてママの顔を見上げた。
ママは微笑みの中で、やさしく吾輩の頭をなでてくれた。
隣には大ママとその膝の上に抱かれた、まだ赤ん坊の真紀の姿があった。
あのころは吾輩も真紀もほんとに小さかった。
彼女はよく泣いてばかりいた。
そんなとき、吾輩が顔を覗きこむと、不思議と真紀は泣きやんで、「きゃ、きゃ!」と手を伸ばしてきて笑うのだった。
真紀はとても可愛いくて、もちろん暴力的な行為をするはずもなかった。
そのころはまだ――
そして真紀は成長し、吾輩の天災となったのだ。
思えば、あのころがとても懐かしい。
平和な日々であった。
桜の花びらが舞う園内を、眼を細めて眺めながら吾輩は思いを馳せた。
と、
「おい、ゴン太」
物思いに耽っている吾輩に、マイケルが声をかけてきた。
「我らのマドンナがやって来たぜ」
マイケルの視線を追って眼を向けると、シェットランド・シープドッグのルーシーが、主人に連れられて公園に入ってくるところだった。
ああ、ルーシー……。
彼女はなんとも美しい。
風に流れる、長い毛並み。
そして、しなやかな体躯。
すっと通った鼻筋に、口許から覗く見事な犬歯。
黒目の勝った瞳は、黒く煌(かがや)いたブラック・ダイヤモンドだ。
どこからどう見ても、完璧な美しさである。
その美しさに、吾輩はしばし見惚れる。
「ゴン太、声をかけに行こうぜ」
言う間に、マイケルはルーシーに向かって歩き出した。
「お、おい……」
吾輩はためらいながらも、マイケルのあとをついていく。
鼓動が激しく胸を打ちはじめる。
いままでも、幾度となく声をかけ合ったことはあるが、それはいつも挨拶程度で、その挨拶というもの決まってルーシーのほうからである。
「こんにちは、ゴン太さん」
やさしく声をかけてくるルーシーに対し、
「やあ、ルーシー」
吾輩ときたら、そう返すのがやっとで、「君は、いつ見ても美しいね」などとは言えるわけもなく、ハンパに眼をそらして、そそくさとその場を離れるのであった。
そうして、オス犬たちに囲まれているルーシーを、遠目から見つめているのだ。
彼女は高嶺(たかね)の花。
いや、高嶺の花ならばまだ、何万分の一ほど可能性はあるかもしれない。
だが、吾輩のような柴犬とシェットランド・シープドッグの彼女とでは、遺伝子のレベルで違いすぎる。
ふたりが結ばれることは、何億分の一の確率もないのである。
吾輩とて、馬鹿ではない。
結ばれる確立のない彼女にアプローチをかけるような、愚かな真似はしたくない。
そう思いつつも、彼女に惹かれている自分を、どうともしがたいのである。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
33
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる