柴犬ゴン太のひとりごと

星 陽月

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【Episode 31】

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 こうなったら、もう寝るしかない。
 あーだこーだと不満を並べ連ねようが結局のところ、退屈のいちばんの解決法は、寝る。
 基本的に、これしかないのである。
 身体を伏せ、顎(あご)を地につけて眼を閉じる。

 ふむふむ……。
 ふむ……、むむ?

 いったい、どうしたことか。
 なぜなのか眠くならない。
 こんなことは初めてである。
 致しかたないので、羊を数えることにする。

(羊が1匹、羊が2匹……、羊が3……)

 ちょっと待った。
 ところで、羊とはどのような生き物なのであろうか。
 吾輩は羊なる生き物を、眼にしたことがない。
 であるからして、羊を数えたとしても、イメージがわかないので意味がないのである。
 そういえば、確か奈美が動物図鑑を持っていたはずだ。
 今度貸してもらえるように頼んでみることにしよう。
 とは言え、頼めるわけもないのだが。
 ということで、改めて寝ることにする。

 ふむ……。
 むむむむむ……。

 やはり、だめだ。
 どんなに眠ろうとしても、頭の中は馬鹿みたいに冴えまくっている。
 羊の他に何か、眠りへといざなってくれるイメージはないものか。
 と言って、思い浮かぶのはひとつしかない。

(ケンタのチキンが一ピース、ケンタのチキンが2ピース、ケンタの……)

 って、これでは眠れるわけがない。
 眠気よりも食い気が活発になるだけであった。
 どうすればいいのだ。
 これでは、「眠れる森の美女」ならぬ、「眠れぬ犬のゴン太」ではないか。
 などと、あまりうまくないことを言っている場合ではない。
 このまま夜も眠ることができなくなってしまったらえらいことだ。
 不眠症の犬など洒落にもならぬ。
 ともかく、眠れぬ理由を考えてみる。
 思いあたることがないことはない。
 それは、サラに嘘をつかれたということだ。
 サラは助けを求める代価として、鶏の唐揚げを提示してきた。
 吾輩はそれを受けたのであるから、これは立派な契約である。
 それを助けられてから嘘でしたとは、なんたることか。
 詐欺(さぎ)である。
 訴え出ればサラは刑務所へ行き、臭い飯を食うことになるだろう。
 今更ながらに、書面にしなかったことが悔やまれる。
 それを考えると、悔しくて夜も眠れないほどだ。
 あ、そうか。
 なるほど。
 夜も眠れないと思うほどなのだから、いま眠れないのも当然なのであった。
 何ものよりも、食い物の恨みは根深いのである。
 だがしかし、眠れぬ理由がわかったからとて、どうなるわけでもない。
 まあ、それでも、いくらかは時間潰しになったであろうか。
 と、そのとき、門の前に自転車が止まる音がした。
 首を起こして眼を向けると、新聞配達のお兄さんが姿を現した。

「よう、ゴン太!」

 お兄さんは、愛想良く声をかけてくる。
 吾輩はシッポをふって、お兄さんに近づいていく。

『どうしました、こんな時間に。夕刊にはまだ早いんじゃないですか? あ、そうか。今日は集金の日ですね』

 お兄さんは吾輩の頭をなでると、玄関のチャイムを押した。
 このお兄さんに、吾輩は吠えたことがない。
 なぜかと言えば、このお兄さんは、まだ夜が明けきらぬうちから起きて、新聞を配達しているのである。
 風の日も雨の日も、そして雪の日も。
 暑くとも寒くとも、お兄さんは新聞を配達するのだ。
 なんと立派な人間であろうか。
 そんな立派なお兄さんに、吠えることなどできるわけがないのである。
 お兄さんとは、吾輩が大原家に来た翌朝からのつき合いだ。
 その朝、吾輩は小さな身体を丸めて、まだ夢の中にいた。
 だから、そっと門を開けて入ってきたお兄さんに気づくわけもなく、それでも、新聞をポストに差しこむかすかな音に気づいて、眠気まなこに首を上げた。
 初めて眼にする侵入者に驚いて吠えようとすると、お兄さんは薄闇の中で吾輩に笑顔を向け、「おはよう」と声をかけてきたのである。
 その爽やかな笑顔に、吾輩は吠えることも忘れてお兄さんを見上げた。
 するとお兄さんは、しゃがみこんで吾輩の頭をなで、

「おまえ、この家の家族になったのか。今日からよろしくな」

 そう言ったのだった。
 吾輩は、いっぺんにそのお兄さんが好きになってしまったのだ。
 いまでは、大の仲良しなのである。
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