平凡という名の幸福

星 陽月

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【第14話】

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 その日JRで新宿に出ると、典子は駅からタクシーに乗り、ホテルに向かった。
 待ち合わせの時間は五時だった。
 その時間から食事をし、ホテルの部屋に行くとしたら、自宅に帰るのは九時過ぎになるだろう。
 だから道久には、社員のひとりが会社を辞めたので、送別会をやるから遅くなると伝えておいた。
 ホテルに着き、ロビーを見渡したが、佐山の姿はなかった。
 五時にはまだ十分ほど間があり、典子はソファに坐った。
 佐山は三分前に姿を現した。
 外から来るとばかり思っていたが、彼はエレベーター・ホールから歩いてきた。

「ここで一週間、缶詰になって小説を書き上げてたんだ」

 佐山はそう言うと、久しぶりだね、と柔和な微笑みを浮かべた。

「作家の方が、ホテルに缶詰になるってほんとうなんですね」
「強制的にね。ほとんど軟禁だよ」

 佐山は苦笑した。
 ふたりはホテルを出ると、新宿住友ビルに入り、エレベーターを五十階で降りた。
 飲食店のテナントが並んでいる中の、和食の店の暖簾を佐山はくぐった。
 店内は広く、カウンターにテーブル席があり、その奥には座敷があった。
 そこは、シンプルで落ち着きのある和の空間が演出されている。
 佐山は座敷を選択し、ふたりは店員に案内されて、窓際の座敷に坐った。

「さすがに高いですね」

 典子は眼下に広がる光景に魅入った。
 眼下の先には東京タワーやお台場、そしてスカイ・ツリーが一望できる。
 すでに陽は落ちて、その暮色に染まる都会の街並みを、夜の闇が徐々に覆い始めていた。

「このくらいの高さが一番、空がゆっくりと紺碧に変わっていくのを観ることができるんだ。朝が訪れる情景も美しいけど、僕は、闇が少しずつすべてを包みこんでいく、この情景が好きだな」

 窓の外へと眼を向けている、佐山の横顔を典子は見つめた。
 童顔を残したその横顔から覗く眼には、どこか寂しい翳りが含んでいる。
 それは、何かに想いを馳せ、それでいて、その想いに苦しんでいるようでもあった。

(この人には、ずっと忘れられない過去があるんだわ……)

 典子はそう感じた。
 ふたりはまず、生ビールで乾杯した。

「この店は、創作和食を食べさせてくれるんだ。料金も手頃だし、女性にも人気が高い店だよ」

 そう言って品書きを開いた佐山に、典子は料理を任せた。
 先に前菜の盛り合わせを注文し、その品が運ばれてきたところで、佐山は料理を二、三品と地方の銘酒を頼んだ。
 酒が運ばれてくると、ふたりは改めて乾杯した。
 その酒は辛口ではあったが、口当たりが軽く、すっと喉を流れていき、典子は思わず、

「美味しい」

 そう口にしていた。

「いける口なんだね」

 佐山はそう言い、酒を差し出してきた。
 典子は断るわけにもいかず、差し出された酒を遠慮がちに受けた。
 運ばれてきた料理は、どれも箸で食べやすいように工夫が施されていた。

「この、鮪の頬肉とあん胆のソテーが、酒によく合うんだ」

 その品に箸をつけ、佐山は咀嚼してから酒を口に含んだ。典子もその品に箸をつけて口に運んだ。
 弾力感のある鮪の頬肉と、口の中で溶けていくあん胆のソテーは、お互いを邪魔せずに調和し、そこに絡むソースがまた、ふたつの素材を引き立て、まさに酒に合う料理だった。

「ほんとうに、お酒に合いますね」

 透明感のある、水色をした硝子製のお猪口を口にしてから、典子は言った。

「ここはさ、料亭とか小料理屋とはまた違った和を楽しめるところがいいんだ。そして酒が美味い」

 佐山は酒を煽(あお)り、そして、

「料理が美味いから、酒も美味いのか。酒が美味いから、料理も美味いのか。いったいどっちなのかな」

 そんなことを言った。
 その顔は、ほんとうに考えこんでいるようだった。
 里子は可笑しくなって、思わずクスッと笑った。
 佐山は、どうして笑うんだ? という表情で典子を見た。

「ごめんなさい。つい……」
「可笑しいかな」
「だって、五十過ぎの人が口にするようなこと言ったと思ったら、今度は子供みたいな顔で考えこんでいたから、つい可笑しくて」

 そこで典子は、失礼なことを言ってしまったことに気づき、

「私、こんなこと……、ほんとうにごめんなさい」

 慌てて頭を下げた。

「いや、いいんだ。そんなことで、気にしたりしないよ」

 微笑む佐山にホッとし、典子は彼に酌をした。
 酒が空き、佐山は、呑んでいたものとは別の銘酒を注文した。
 酒が進むにつれ、典子は佐山のことが知りたくなった。
 今まで、相手の男のことを知りたいと思ったことなど一度もない。
 皆、仕事としての相手であり、それ以外の何ものでもなく、一秒でも早く解放されることだけを典子は願っていた。
 できることなら、口も利きたくないほどだった。
 それだけに、男が話しかけてきたことに返答はしても、自分から話しかけるようなことはできる限り避けてきた。
 なのに何故、ふいに眼の前の男のことが知りたいと思ったのだろう。
 酔って気を許したのか、それとも、若く美しい男に、心惹かれてしまったのだろうか。
 典子は胸の中で苦笑した。
 そんなこと、あるわけがない。
 いや、心惹かれることなど、あってはならないことだ。
 これは仕事なのだ。
 今はこうして食事をし、語り合ってはいても、この店を離れればホテルの部屋へと向かい、抱かれるだけなのだから。
 そして私は現金をもらい、その部屋をあとにする。
 ただそれだけの関係だ。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 だから、その相手の男のことを、知りたいと思ったりするのはおかしいのだ。
 典子は、手にしたお猪口に眼を落とした。
 まだ、酒は半分ほど残っている。
 その表面に、店の照明の灯りが、まるで月のように浮かんでいた。

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