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【第15話】
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(酔いが廻ってるんだわ……)
そう思っていると、
「どうしたの?」
佐山が訝(いぶか)しげに顔を窺った。
「あ、ごめんなさい。何でもないんです」
「何か考えこんでたみたいだけど」
「いえ、ほんとに何でもないんです」
「僕といても、退屈なのかな」
「退屈だなんて、そんなことはありません」
「そう。じゃあ、君のこと何か話してよ」
「私のことなんて、何も……」
とつぜん言われて、典子は困惑した。
相手のことを知ろうとするのもおかしいと思っているのに、自分のことを話すことなどできるわけがない。
「何でもいいんだ。例えば何色が好きだとか。鬱陶しい雨の日は何をしてるとか。お気に入りの靴は何足持ってるとか。そんなことさ」
典子は言葉に窮した。
何でもいい、と言われても、一度口を開いてしまえば余計なことまで話してしまいかねない。
それは、心を許してしまうのと同じことだ。
それだけは、どんなことがあっても避けなければならない。
心まで夫を裏切るようなことは、絶対にあってはならないのだから。
「結婚はしてるの?」
更に佐山はそう訊いてきて、典子は曖昧な笑みを浮かべた。
それは一番触れられて欲しくないことだった。
もし、正直に答えたなら、きっと、蔑(さげす)んだ視線を向けてくるだろう。
結婚しているにもかかわらず、こんなことをしているのか、という眼で。
「いいじゃないですか、そんなことは」
典子はそう言って逃げて、これ以上追及されるのを避けようと、
「それより、どうして私なんかを指名したんですか?」
自分のほうからそう訊いた。
「今度指名するって、言ったはずだよ」
「そうですけど、でも、あのときは失礼なことをしてしまって、怒らせてしまったと思ってましたから」
「気にしてたんだ、そんなこと」
「当然です。初めてのお客様でしたから」
「君って、そういうとこ、ほんとに律儀なんだな」
佐山は笑うとお猪口を手に取った。そして、口に含んでから、
「仕事は、もう慣れた?」
そう訊いた。
「いえ。慣れるなんてこと、これからもないと思います」
「そう……。ほんとうことを言うと、僕は君に興味があるんだ。男としてもそうだけど、むしろ人間として。いや、作家としてと言ったほうが正しいかな」
「どういうことですか……」
「君が働いてるオフィスを利用するようになってから、もう、一年になる。その間、僕は何人もの女性を買ったよ」
女を買った、という言葉に、典子は痛みを覚えた。
だがそれを顔には出さず、佐山に視線を向けていた。
「でも、抱かなかったのは君だけだよ。それまで、君と同じようにその日が初めてだという女性もいたけど、抱けなかったということはなかった。それなのに、君だけは抱けなかった。その理由をずっと考えた。だけどわからなかった。ただ僕がわかったことは、君が他の女性と何かが違う、ってことなんだ。そうしたら、君に興味が湧いてきて、もっと知りたいと思うようになった。他の女性との違いを。そして、僕が君を抱けなかった理由をね」
「私を知って、どうするつもりですか。私のことなんて、小説のネタにもならないと思いますけど」
「君は、僕の小説を読んだことがあるかい?」
「私、小説は読まないんです」
「そうか、だったら今度読んでほしいな。僕が書いてるのは、女性を主人公にしてるものばかりだから、楽しんでもらえると思うよ」
典子はそれに軽くうなずいた。
「ともかく、僕は君をどうこうするつもりはないんだ。小説のネタにするつもりもない」
「でも、今言ってたじゃないですか。作家として興味がある、って」
「確かにね。だけどそれは、作家としてネタが欲しいんじゃなくて、作家として生きている人間として、君を知ることで僕自身を知り、成長したいってことなんだ」
「私には、難しくてよくわかりませんけど、でもそれって、結局は新しいものを書くということにつながっていくわけですよね」
典子は反論した。
「鋭いな君は。そのとおりだよ」
佐山は笑い、そしてふいに真面目な顔になった。
「僕は今まで、女性を書きつづけてきたけど、最近、自分の中に何かが足りない、って思うようになったんだ。それは、ネタが尽きてきたってことでもあるけど、それだけじゃない。それが何かって考えて気づいたのは、女性との出会いがないってことだった。それはただの出会いじゃなくて、遭遇って言えるような、身体の中から何かが湧き上がってくるような、そんな出遭いさ。そんなとき、僕は君と出遭ったんだ。だから僕は、君をとおして何かをみつけたいんだ」
「私は、佐山さんが思ってるような人間じゃありません」
「自分のことは、自分ではよくわからないものだよ。だけど、僕にとって君は、素晴らしい人間なんだ」
「そんな……、私は穢れた女です」
「それは、身体を売ってるから?」
典子は答えられず、眼を伏せた。
「たとえ身体を売っていようと、君は心まで売ってるわけじゃないだろう? 君は、何かの事情があって今の仕事をしてる。それは他の女性たちもそうだと思う。好き好んで身体を売ったりなんて、できるわけがないよ。だけど、しだいに慣れてしまう。そうすると、感情までが麻痺してきて、平気になってしまうんだ。罪悪感も消えて、その世界に染まっていって、そして金に執着していく。それも仕方がないことだと思うよ。人間なんて弱いからね。でも君は違う。ホテルのロビーで見たとき、君は染まってなかった」
「何もかもわかったようなこと、言わないでください」
典子は語気を強めた。
「あなたに何がわかるっていうんですか。あなたの言ってることは、上辺だけのことじゃないですか。そんなことは、週刊誌にだって載ってるようなことです。実際はそんな単純なことじゃないわ。身も心もボロボロになって、泣きつづけて……」
典子は腹立たしさに息が荒れ、思わず酒を煽った。
佐山は驚いた顔で、典子を見つめ、
「すまない。傷つけるようなことを言ったなら、許してほしい。僕は何も、傷つけるつもりで言ったわけじゃないんだ」
そう言った。
「そのつもりのないことが、いちばん人を疵(きず)つけるんです」
「ほんとにすまない。このとおり」
佐山は手を膝につき、深く頭を下げた。
その姿に典子は自分を取りもどし、狼狽した。
「いえ、そんな、あの、私のほうこそ、言いたいこと言っちゃってすいません。ですから、頭を上げてください」
佐山はそこでやっと頭を上げた。
その頃になって、店内は急に混み始めた。
さすがにオフィス・ビルが建ち並んでいるだけあって、仕事帰りのサラリーマンやOLたちで席は埋め尽くされていった。
そう思っていると、
「どうしたの?」
佐山が訝(いぶか)しげに顔を窺った。
「あ、ごめんなさい。何でもないんです」
「何か考えこんでたみたいだけど」
「いえ、ほんとに何でもないんです」
「僕といても、退屈なのかな」
「退屈だなんて、そんなことはありません」
「そう。じゃあ、君のこと何か話してよ」
「私のことなんて、何も……」
とつぜん言われて、典子は困惑した。
相手のことを知ろうとするのもおかしいと思っているのに、自分のことを話すことなどできるわけがない。
「何でもいいんだ。例えば何色が好きだとか。鬱陶しい雨の日は何をしてるとか。お気に入りの靴は何足持ってるとか。そんなことさ」
典子は言葉に窮した。
何でもいい、と言われても、一度口を開いてしまえば余計なことまで話してしまいかねない。
それは、心を許してしまうのと同じことだ。
それだけは、どんなことがあっても避けなければならない。
心まで夫を裏切るようなことは、絶対にあってはならないのだから。
「結婚はしてるの?」
更に佐山はそう訊いてきて、典子は曖昧な笑みを浮かべた。
それは一番触れられて欲しくないことだった。
もし、正直に答えたなら、きっと、蔑(さげす)んだ視線を向けてくるだろう。
結婚しているにもかかわらず、こんなことをしているのか、という眼で。
「いいじゃないですか、そんなことは」
典子はそう言って逃げて、これ以上追及されるのを避けようと、
「それより、どうして私なんかを指名したんですか?」
自分のほうからそう訊いた。
「今度指名するって、言ったはずだよ」
「そうですけど、でも、あのときは失礼なことをしてしまって、怒らせてしまったと思ってましたから」
「気にしてたんだ、そんなこと」
「当然です。初めてのお客様でしたから」
「君って、そういうとこ、ほんとに律儀なんだな」
佐山は笑うとお猪口を手に取った。そして、口に含んでから、
「仕事は、もう慣れた?」
そう訊いた。
「いえ。慣れるなんてこと、これからもないと思います」
「そう……。ほんとうことを言うと、僕は君に興味があるんだ。男としてもそうだけど、むしろ人間として。いや、作家としてと言ったほうが正しいかな」
「どういうことですか……」
「君が働いてるオフィスを利用するようになってから、もう、一年になる。その間、僕は何人もの女性を買ったよ」
女を買った、という言葉に、典子は痛みを覚えた。
だがそれを顔には出さず、佐山に視線を向けていた。
「でも、抱かなかったのは君だけだよ。それまで、君と同じようにその日が初めてだという女性もいたけど、抱けなかったということはなかった。それなのに、君だけは抱けなかった。その理由をずっと考えた。だけどわからなかった。ただ僕がわかったことは、君が他の女性と何かが違う、ってことなんだ。そうしたら、君に興味が湧いてきて、もっと知りたいと思うようになった。他の女性との違いを。そして、僕が君を抱けなかった理由をね」
「私を知って、どうするつもりですか。私のことなんて、小説のネタにもならないと思いますけど」
「君は、僕の小説を読んだことがあるかい?」
「私、小説は読まないんです」
「そうか、だったら今度読んでほしいな。僕が書いてるのは、女性を主人公にしてるものばかりだから、楽しんでもらえると思うよ」
典子はそれに軽くうなずいた。
「ともかく、僕は君をどうこうするつもりはないんだ。小説のネタにするつもりもない」
「でも、今言ってたじゃないですか。作家として興味がある、って」
「確かにね。だけどそれは、作家としてネタが欲しいんじゃなくて、作家として生きている人間として、君を知ることで僕自身を知り、成長したいってことなんだ」
「私には、難しくてよくわかりませんけど、でもそれって、結局は新しいものを書くということにつながっていくわけですよね」
典子は反論した。
「鋭いな君は。そのとおりだよ」
佐山は笑い、そしてふいに真面目な顔になった。
「僕は今まで、女性を書きつづけてきたけど、最近、自分の中に何かが足りない、って思うようになったんだ。それは、ネタが尽きてきたってことでもあるけど、それだけじゃない。それが何かって考えて気づいたのは、女性との出会いがないってことだった。それはただの出会いじゃなくて、遭遇って言えるような、身体の中から何かが湧き上がってくるような、そんな出遭いさ。そんなとき、僕は君と出遭ったんだ。だから僕は、君をとおして何かをみつけたいんだ」
「私は、佐山さんが思ってるような人間じゃありません」
「自分のことは、自分ではよくわからないものだよ。だけど、僕にとって君は、素晴らしい人間なんだ」
「そんな……、私は穢れた女です」
「それは、身体を売ってるから?」
典子は答えられず、眼を伏せた。
「たとえ身体を売っていようと、君は心まで売ってるわけじゃないだろう? 君は、何かの事情があって今の仕事をしてる。それは他の女性たちもそうだと思う。好き好んで身体を売ったりなんて、できるわけがないよ。だけど、しだいに慣れてしまう。そうすると、感情までが麻痺してきて、平気になってしまうんだ。罪悪感も消えて、その世界に染まっていって、そして金に執着していく。それも仕方がないことだと思うよ。人間なんて弱いからね。でも君は違う。ホテルのロビーで見たとき、君は染まってなかった」
「何もかもわかったようなこと、言わないでください」
典子は語気を強めた。
「あなたに何がわかるっていうんですか。あなたの言ってることは、上辺だけのことじゃないですか。そんなことは、週刊誌にだって載ってるようなことです。実際はそんな単純なことじゃないわ。身も心もボロボロになって、泣きつづけて……」
典子は腹立たしさに息が荒れ、思わず酒を煽った。
佐山は驚いた顔で、典子を見つめ、
「すまない。傷つけるようなことを言ったなら、許してほしい。僕は何も、傷つけるつもりで言ったわけじゃないんだ」
そう言った。
「そのつもりのないことが、いちばん人を疵(きず)つけるんです」
「ほんとにすまない。このとおり」
佐山は手を膝につき、深く頭を下げた。
その姿に典子は自分を取りもどし、狼狽した。
「いえ、そんな、あの、私のほうこそ、言いたいこと言っちゃってすいません。ですから、頭を上げてください」
佐山はそこでやっと頭を上げた。
その頃になって、店内は急に混み始めた。
さすがにオフィス・ビルが建ち並んでいるだけあって、仕事帰りのサラリーマンやOLたちで席は埋め尽くされていった。
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