平凡という名の幸福

星 陽月

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【第16話】

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「出ようか」

 佐山のその言葉に典子はうなずき、ふたりは席を立った。
 ビルを出た途端、冬の風が冷たく頬を刺した。
 凍てつく大気に吐く息も白く、夜空に煌めく欠けた月までが寒々としていて、典子はふと、尚行のことを思った。
 今頃、ひとりで何をしているのだろう。
 TVのアニメでも観ているのだろうか。
 それとも、寂しい思いをしながら両親の帰りを待っているのだろうか。
 そんなことを考えると堪らない気持ちになり、胸が締めつけられて、典子は胸に手をやった。
 そのとき、佐山がふいに立ち止まり、ポケットから白い封筒を出すと、これ、と言って典子に差し出してきた。
 典子が不思議そうにしていると、

「今日の報酬だよ。札のまま渡すのもなんだから、ホテルの封筒に入れてきたんだ」

 佐山はそう言った。
 典子は、どうして? という顔をし、何か言おうとしたが、それを佐山が制して、

「実はさ、小説がまだ書き上がってなくて、一分でも時間が欲しいところなんだ。だから、君の仕事はこれで終わりだ」

 言うと車道に出て、タクシーに手を上げた。
 だが、走ってきたタクシーには、すでに人が乗車していて、手を上げている佐山に構うことなく走り去っていっ た。
佐山は軽く舌打ちをすると、次のタクシーを待った。
 その背を見つめながら、

「なぜ、私を抱かないんですか」

 典子は呟くようにそう言っていた。

「嘘なんでしょう? 小説が書き上がってないなんて」

 その言葉に、佐山は首だけをねじって典子を見つめ、だがすぐに視線を路上に落とし、口許に笑みを浮かべた。

「何故だろう、自分でもわからないよ。君は僕にとって……」

 そこで佐山は首をふり、

「いいじゃないか、こういう男がいても」

 そう言った。典子は佐山が何を言おうとしたのか気になったが、そこへ空車が来て、開きかけた口を閉じた。

「さ、乗って」

 言われるまま典子はタクシーに乗り、窓を開けた。

「じゃ、失礼します」
「うん、また」

 佐山は笑って手をふり、走り出したタクシーのテール・ランプを見送った。
 しばらく見送って、彼がホテルへと脚を向けたとき、典子の乗ったタクシーが、急に停まった。するとドアが開き、典子が降りてきた。
 佐山は驚いてその場に立ち尽くした。
 その彼に典子は近づいていく。
 何も考えず、自分が何故、佐山のもとへと歩いているのかもわからずに。

「どうしたの?」

 その問いにも答えず、典子は佐山の前に対峙すると彼の首に腕を廻し、唇を重ねていた。
 突然のことに佐山は狼狽え、だが、唇が重ねられていたのは、ほんのつかの間だった。
 唇を離した途端、その自分の行動に今度は典子のほうが狼狽し、それでもそれを顔には出さず、戸惑ったように見つめる佐山に、

「いいでしょ? こんな女がいても」

 彼が言った台詞と同じことを口にしていた。
 そして何ごともなかったように背を向け、待たせてあったタクシーにもどった。
 車が走り出し、そのときになって、鼓動が胸を激しく叩き始めた。
 自分のしたことが、まったく理解できなかった。
 何故、突然口づけをしようという気になったのか。
 典子は考えた。
 けれど、どんなに考えてみても、その答えはみつかりそうになかった。
 いや、みつかるわけがないのだ。
 あの行動には理由などなく、自分でも予期しないまま起こった衝動なのだから。
 その衝動が口づけという形になり、今になってそんな自分に驚いている。

(何てことをしたのよ……)

 典子は自分自身を恥じた。
 だが、今更後悔してみても、自分の取った行動を打ち消すことはできない。
 たとえそれが、自分の意識しないものに衝き動かされたことだとしても、それで済む問題ではない。
 佐山はあくまで仕事の相手なのだ。
 その相手に、まだ抱かれていないとはいえ、それも自分から口づけをするなど、あってはならないことだった。
 あれではまるで、貢いでくれるパトロンに媚を売っているようなものだ。
 それは少し大袈裟な考えかも知れないが、典子にはそう思えた。
 佐山はいったいどう思っただろうか。
 きっと、私にいだいていたそれまでのイメージや想いは、粉々に砕けたのではないだろうか。
 そしてきっと、幻想から醒めたように気持ちまでが冷めて、私が特別な女ではないということを思い知っただろう。

(でも、これでよかったんだわ……)

 そう、これでいいのだ、と典子は思った。
 佐山はあまりにも私を美化し、大切にしようとしている。
 けれど、これで私という女を知り、もう特別扱いはしないはずだ。
 いや、もう指名などしないかも知れない。
 たとえそうだとしても、却ってそのほうがいい。
 過剰な想いを持った人間の相手をすれば、どんなに平静を装うとしても、必ず心を乱される。
 それは、仕事に支障をきたすだけだ。
 この仕事に感情はいらない。ただ抱かれ、お金をもらう。

 それ以上でもそれ以下でもない――
 
 反芻するかのように何度も言い聞かせたその言葉を、胸の中で呟いていると、何故か喪失感のようなものが生じた。
 それが、佐山に対して生じたものなのか、自己を棄てた自分に対して生じたものなのか、典子にはわからなかった。

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