平凡という名の幸福

星 陽月

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【第27話】

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 その日、典子は遠山響子に呼ばれて、オフィスへと足を運んだ。
 典子が決意を固めた二日後に、オフィスから電話が入り、

「社長が折り入ってお話があるそうです」

 受付の女性は、いつもの口調でそう言ったのだった。
 今まで、呼び出されたことなど一度もなく、折り入ってのお話、というのも気になってはいたが、典子も仕事を辞 める旨を伝えるつもりでいたので、直接会って話すほうが都合よかった。
 マンションの前まで来ると、典子はその豪奢な建物を見上げた。
 オフィスを訪れるのは、研修が終わった日以来だった。
 ふと思えば、それが一年も前のことようでもあり、つい一週間前のことようにも思える。
 そしてその日から、典子は娼婦になった。
 すべては、遠山響子に会ったときから始まったのだ。
 切っ掛けは、電柱に貼ってあったチラシを眼にしたからなのだが、もし彼女に会っていなければ、娼婦になんてなっていなかったような気がする。
 彼女に会うまでは、たとえ借金があったとはいえ、身体を売ってまで返済しようとは思いもしなかったのだから。
 かといっても、彼女に会ってすぐに、娼婦になろうとしたわけでもない。
 事実、典子は彼女の話を聞き、身体を売るのだと知って、そんなことはできない、とオフィスをあとにした。
 その典子に、身体を売る決意をさせたのは、

「ご主人を愛いしているなら、自分を犠牲にしてもいいんじゃないですか――」

 その彼女の言葉だった。
 そしてその決断の引き金になったのが、返済を待ってもらおうと電話をしたときの、高利貸しの男の威圧的な言葉 に畏怖し、追いつめられた精神状態にあったといえる。
 そのときは、そんなことは考えもしなかったが、今になってみると、あの言葉がなかったら、娼婦にはなっていなかっただろう。
 それなら、佐山と出逢うこともなかった。
 哀しみとも寂しさとも取れる思いに囚われて、典子はその思いをふり払うようにマンションへ入っていった。
 大理石のエントランスに、ヒールの音が小気味よく響いた。
 エレベーターが都合よく開いて、中から派手なミニスカートのスーツを着た、二十代半ばと思える女性が降りてきた。
 典子は小さく会釈をしたが、その女性は典子を無視して横を通り過ぎていった。
 エレベーターに乗ると、今の女性がつけていたに違いないパヒュームの匂いが鼻についた。
 受付のスタッフにリビングに通されると、ソファには遠山響子の姿があった。

「わざわざ来ていただいて、申しわけなかったわね」

 彼女は相変わらずの穏やかな微笑で迎え、典子に坐るよう促した。

「沢上さん、少しお痩せになった?」
「いえ、そんなことはないと思います」

 典子はぎこちない笑みを浮かべる。この人の前では、どうしてもそうなってしまう。

「でも、奇麗になったことだけは確かだわ」
「そんな……」

 そして、彼女の声と言葉に翻弄されてしまうのだ。
 会話がふと途切れたところで、タイミングよく受付のスタッフが珈琲を運んできた。
 彼女が珈琲を口にするのを待って、典子もカップを手にした。
 芳ばしい香りが鼻孔を刺激する。

「沢上さん」

 カップを置くと、改まったように彼女が言った。

「今日来てもらったのは、あなたに頼みたいことがあったからなの」

 典子は無言で彼女を見つめる。

「実は、今度新たにオフィスを開こうと思ってるの。そこは、依頼者が女性と月契約を結ぶシステムになっていて、女性が依頼者に会うのは、週一回。依頼者の指定先に行くことになってるわ」

 彼女は、オフィスという言葉を使う。
 やっていることは買春の斡旋でしかないのに、あくまでビジネスとして捉えているのだろうか。

「そこで、そのオフィスを、責任者として沢上さんにお願いしたいのよ」
 思いもよらない話に、典子は言葉を失った。彼女は話をつづける。
「働いてもらう時間は、沢上さんにできる限り合わせるわ。収入は、今より多少は少なくなるけど、仕事としては、今よりも精神的や肉体的な負担がなくなると思うの。悪い話ではないと思うんだけど、どうかしら?」

 答えを急かすことはせず、その顔は余裕のある微笑を湛えている。
 だが、眼だけは笑っていない。
 典子はわずかに顔を伏せる。
 彼女が言ったように、悪い話ではなかった。
 娼婦を辞めるつもりでいた典子にとっては、願ってもないことだ。
 たとえ今よりも収入が減るとはいえ、パートで働くのと比べれば、その差は歴然としているだろう。
 それなら借金の返済も楽になる。
 そして何より身体を売らなくていいのだ。
 夫を裏切りつづけてきたことにも終止符を打つことができる。

 だけど……

 典子は胸の中で首をふる。
 いくら身体を売ることがなくなるとはいえ、この世界に身を置いていては、今まで夫を裏切りつづけたことに対して、何の謝罪にもならないではないか。
 そんなものは終止符とは言わない。
 そうまでして借金の返済を楽にしようというのなら、このまま娼婦をつづけていけばいい。
 そして、他の男に抱かれながら、精神と肉体の苦痛を味わいつづければいいのだ。
 罪を犯した代価として。
 決意を固めたのは、いったい何だったのだ。
 夫と息子を愛しつづけていくために、平凡な幸せを送るために、この世界から身を引こうとしたのではないのか。
 自分が変わらなければ、何も変わりはしないというのに。

 しっかりするのよ!

 自分を叱責し、典子は顔を上げて遠山響子を見据え、

「申しわけありませんが、そのお話、お断りします」

 はっきりとそう言った。
 その答えが思いもよらなかったのか、遠山響子は微笑をかすかに歪め、だがそれは一瞬のことで、その顔からすうっと微笑を消した。

「どうして?」

 そして静かに訊いた。

「私のようなものを、責任者にしていただくというのは、大変ありがたいことだとは思いますが、私は、これ以上夫と息子を裏切りつづけることはできません。だから――」
「ちょっと待って、沢上さん」

 話の途中で、彼女が制した。
 彼女には珍しく、感情の乱れた声だった。

「裏切りつづける、って、それは今のままならわかるけど、責任者になったら――」
「最後まで聞いてください」
 今度は典子ほうが、彼女を制した。

「私にとっては、身体を売っても売らなくても、この世界で働くということは、裏切りつづけていくことと同じなんです。それに、裏切りつづけているのは、夫や息子だけじゃありません。自分自身も裏切ってきました。もう、そんな自分ではいたくないんです。ですから――」

 そこで一度言葉を切り、そして、

「この仕事も辞めさせていただきます」

 そう言うとソファを立ち、お世話になりました、と深く頭を下げ、玄関に向かった。

「沢上さん」

 呼び止められ、だが、典子はそれに構わずリビングを出ると、オフィスをあとにした。
マンションを出ると、とたんに身体の力がふうっと抜けた。
それとは逆に、何かをやり遂げたような充実感と開放感が溢れ、解き放たれた思いが胸を包みこんだ。
これでやっと、裏切りつづけてきたことに、幕を下すことができた。
これからは、今まで裏切りつづけたきた分、いやそれ以上に、夫と息子を愛していこう。
それで犯した罪が消えるわけではないけれど、精一杯尽くしていくしかない。
 残りの借金を返していくのは、まだまだ大変に違いない。
でも、返済に追いつめられていた頃のことを考えれば何でもないはずだ。
仕事はきつくてもいいから、時給のいいパート先を捜せばいい。
それだって、他の男と身体を重ねてきた苦痛を考えれば、耐えられないことなんてない。
ゆとりのある生活は望めないが、それでも、夫がいて、息子がいて、笑いの絶えない生活があれば、それでいい。
そんな平穏で平凡な生活こそが、私の望む幸福なのだから。

 そうよね……。

 典子はふと、空を仰いだ。
 雲ひとつない蒼天に君臨する陽は、休むことを知らずに、神々しいまでの光の粒子を放っている。
それはまさに圧倒的といえるが、それでいて慈悲深く、春にはまだ早い今日という日を、穏やかな暖かさで包みこんでいる。
それなのに、突然典子の心を暗雲が覆った。
 これでもう、佐山とは逢うことはできない、という思いがふいにこみ上げてきて、足取りさえも重くした。
ほんとうなら、佐山から指名がはいるまでは、仕事をつづけるつもりでいたのだ。
ほんのひとときの短い関係ではあっても、心から愛してしまった男だった。
逢ったうえで、きちんと別れを告げたかった。
なのに典子は、ほとんど勢いに任せて、辞めると宣告してしまったのだ。
辞めることを伝えようとしていたのは確かだが、何も今すぐにというわけでもなく、遠山響子が、新しいオフィスの責任者になってほしいと、そんな話を持ちかけてこなければ、勢いに任せて辞めるなどと口にすることもなかった。
だが、だからといって、今からオフィスへともどり、もう少し働きたい、と願い出るわけにもいかない。

 でも、これでよかったのよ……

 典子は思い直した。
 もしこれで佐山からの指名を待ち、そして彼に逢ってしまったら、別れを告げることができたかどうかわからない。
 それどころか、佐山との関係を断たなければならないという思いが、却って拍車をかけることになり、背徳の渦へと呑みこまれていったかも知れない。
 もしそうなっていたら、自分を止められる自信はない。
 それは、家族の崩壊を意味した。
 想像するだけで、とても恐ろしいことだった。
 それを考えれば、これでよかったのだと思うしかなかった。
 彼とはもう逢えない、その思いは、胸を抉り、息苦しくさせるばかりだが、今はそれに耐えるしかない。
 心に疵を刻み、日々の生活の中に陰影を落とすとしても、いつかきっと、美しい想い出となって彩るだろうから。

「頑張らなきゃ」

 典子はそう口にすると、降り注ぐ陽差しの中をしっかりとした足取りで歩き出していた。
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