平凡という名の幸福

星 陽月

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【第26話】

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典子は道久のベッドから背を向けたまま、仄かに白く浮かぶ壁を見つめていた。
罪悪感がこみ上げてくる。
自分の取った態度は、きっと夫を疵つけたに違いない。
今まで、夫を避けるような態度など、見せたことはなかったのだから。
夫は今、どんな思いをしているのだろうか。
 それを思うと胸が痛む。
 けれど、どうしても夫のことを受け入れることができなかった。
 佐山の温もりが残る肌に、触れられたくなかったのだ。
 夫から背を向けた一瞬の、衝動的な態度は、卑劣でさえあった。
 それにしても、まさか夫の口から佐山の名が出てくるなどと、夢にも思わなかった。
 会社の事務員が話題にしただけのこととはいえ、その偶然は典子にとって、身体を切り刻まれる思いだった。
 だが、それは果たしてほんとうに偶然だったのか。
 実際は、すべてを知っていて、夫はあんなふうに言ってきたのではないか。
 典子にはそう思えた。
 そんなことあるはずがない。

 考え過ぎよ……。

 そう思いながらも、胸に生じた杞憂を消し去ることはできなかった。
 しばらくして、道久の寝息が聴こえてきた。
 典子は仰向けになり、道久へと顔を向けた。
 とつぜん涙が溢れてくる。
 色んな物が胸の中で入り乱れて、どうにもできない想いが涙となってこみ上げてくるのだった。

 パパ、ほんとうにごめんね……。

 今まで、幾度となくこうして胸の中で謝罪してきた。
 だがそれは、決して夫に届くことはない。
 それで何が謝罪といえるのか。
 それはただ、そうすることで自分を納得させていただけに過ぎない。
 ほんとうに謝罪する気があるなら、何の迷いもなく、今の仕事を辞めることができるはずなのだ。
 なのにどうしてそれができないのだろう。
 その理由を、借金があるからだと、ずっとそう言い聞かせてきた。
 確かに、それに違いはない。
 だが、ほんとうにそれだけなのだろうか。
 自分の心を覗いてみれば、答えにならない何かが蠢いている。
 いったいそれは何なのか。
 もしや、佐山と逢えなくなることを恐れているからなのか。
 けれど、それならむしろ仕事を辞めて、自分の携帯電話の番号を教え、逢えるときに逢い、逢瀬を重ねたほうがいいはずだ。
 そうすれば、他の男と身体を重ねなくともいいのだから。
 とはいえ、そんなことは絶対にできないことは、典子自身が一番わかっている。
 もしそんなことになれば、家庭は確実に崩壊するだろう。
 それこそ何度も思いつづけてきたことだ。
 だからこそ、佐山への想いを断ち切ろうとしているのだ。
 だったら他に何があるというのか。
 どんなに考えてみても、その答えはみつかりそうにない。
 それどころか、様々なことを考えているうちに、ほんとうは家族のことなど、どうでもいいと思っているのではないかと、自分を責めたりした。
 夫を愛し、息子を愛し、これからも愛しつづけていくというその思いも、実はそう思いこもうとしてるだけなのではないか。
 そんな疑念さえ湧いてくる。

 違うわ!

 典子は胸の中で叫ぶ。

 そんなこと絶対にない……。

 そう強く思いながらも、胸の中にある、しこりのようなものを拭えない。
 ほんとうのところはどうなのか。
 家族を愛し、平凡な幸せを望んでいながら、心のどこかに、それを望まない自分がいるのではないだろうか。
 典子は思わず首をふった。
 もう、そんなことを考えたくなかった。
 考えれば考えるほど、自分を蔑(さげす)むだけだ。
 このままでは、どんどん自暴自棄に陥(おちい)っていく。
 典子は気持ちを切り替えようとして正面に顔をもどし、そして深く息を吸った。
 きっと今、自分自身に疑念をいだくのは、心まで裏切ってしまったことへの罪の意識がそうさせるのだ。
 そう思うようにした。
 仕事にしても、辞めよう思えば辞められないことではない。
 残りの借金も、当初の額からは半分近くまで減ってきている。
 どうにもならないという額ではない。
 オフィスから渡された支度金も、全額返金した。
 それなのに、辞めようという気になれないのは、結局のところ、意志の問題なのだ。
 減ってきたとはいえ、借金を残したまま仕事を辞め、パートをやったからといって、それで返済していけるのか。
 またそこから、借金が増えてしまうのではないか。
 そんな不安が、意志を鈍らせてしまったに違いない。
 ならば、その不安に打ち勝つ強い意志を持てばいい。
 家族のことを想い、平凡な生活を望むというのなら、それだけを考え、意志を強く持ちつづければ、きっとできるはずだ。
 そう思うと、典子は気持ちが楽になった。
 そして今、考えるべきことはひとつしかない。
 それは、佐山とのことをどうするべきかだ。
 だが、そんなことは考えるまでもない。
 今度佐山に会ったなら、もう指名はしないでほしいと伝えればいいのだから。
 それだけでいいのだ、それだけで。

 簡単なことよ……

 典子は強くそう言い聞かせた。けれど、そのそばから暗鬱な思いがこみ上げてくる。
 今は確かに、佐山への想いを断ち切るつもりでいるが、いざ彼を前にしたとき、その気持ちを維持することができるだろうか。
 彼の顔を見たら、心が揺らいでしまうのではないだろうか。
 そんな思いが脳裡を駆け巡る。典子はまた首をふった。

 強い意志を持つのよ……

 惑わされては駄目だ。
 佐山へのこの想いは、ほんのひとときの気の迷いなのだから。
 その迷いのために、愛する家族を失ってどうするというのだ。

 誰のためでもない。
 自分のために……。

 もう一度自分にそう言い聞かせると、典子は決意を固めた。

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