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【第25話】
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浴室を出ると、リビングの灯りは消えていた。
典子は二階に上がると、尚行の部屋のドアをゆっくりと開けた。
廊下から入り込む灯りに、ベッドに眠る尚行の顔が浮かぶ。
典子はそっとベッドに近づいていき、床に膝をついて、ぐっすりと眠る息子の寝顔を見つめた。
その寝顔を見つめているだけで、心が癒されていく。
なのにその反面では、心の中を暴かれているように思え、一瞬、尚行の眼が開き、見つめられている気がして典子は凍りつく。
だが、それは錯覚に過ぎず、尚行は静かに寝息を立てている。
穢(けが)れを知らない天使の顔で。
「ごめんね。ママは、悪いママだね」
髪をなでながら呟くと、思わず涙が溢れた。
その涙を堪えようと、典子は眼を閉じる。
泣いたからって、心の罪は消えやしないのよ!
自分をなじる。
けれど、自分を責めれば責めるほど、罪の重さに圧し潰されて、その苦しみが涙に変わる。
涙に濡れた声が、口許からこぼれてれていく。
「ママ……」
突然のその声に典子はハッとして、慌てて涙を拭った。
「帰ってたの……?」
眼を擦りながら、尚行は典子を見る。
「うん、ただいま。起こしちゃったね」
涙が拭いきれていない顔で、典子は微笑む。
「ボク、ママが帰ってくるの待ってたのに、寝ちゃったんだ。ごめんね」
その言葉が胸を締めつける。
「ママも、遅くなっちゃって、ごめんね」
「ううん。ママは、おウチのために頑張ってるんだから、仕方ないよ。だからボク、寂しくなんかないからね」
それが精一杯の強がりなのだろう。
尚行は唇をきつく結び、典子を見つめている。
ボクは強いんだ。ボクは負けないんだ――
その眼がそう語っている。
ほんとうの想いを口には出さず、胸の中に抑えこんで。
典子にはそれが痛いほどわかった。
尚行にとって、そうすることが、我慢をすることが、母親への思いやりであり優しさなのだ。
堪らず、涙がまた溢れてくる。
「ママ、どうしたの? 泣いてるの?」
心配そうに言うと、尚行は半身を起こした。
「ううん、何でもないの。心配しなくていいのよ。もう遅いから寝なさい」
「お仕事で、イヤなことでもあったの?」
尚も心配そうに言う。
「誰かにイジメられたの?」
その尚行を、典子は思わず抱きしめていた。
「ほんとに何でもないのよ。ごめんね、心配かけて。ごめんね……」
語尾が掠れ、それ以上言葉にならなかった。
こんなママだけど、赦(ゆる)してね……。
どんなことがあっても、あなたを離したりしない……。
あなたを守るからね……。
あなたがママを嫌いになっても、ママはあなたを愛してるよ……。
世界で一番あなたを愛してる。誰よりも……。
言葉にならない想いを、典子は抱きしめるその腕にこめた。
「ママをイジメるやつは、ボクがやっつけてやるからね」
なんて泣かせる言葉だろう。小さなこの身体で、守ってくれようとしているのだ。
「ありがとう。尚行は、正義のヒーローだもんね」
「うん」
「さ、もう寝なさい」
典子は腕を解き、涙を拭う。尚行は素直に横になると、布団をかける典子の手を握り、
「もう少し、ここにいてくれる?」
心細そうな眼で訴えかけた。
典子はうなずき、やさしい微笑みを浮かべた。
それで安心したのか、尚行は微笑み返すと、眼を閉じた。典子の手を握ったままで。
しばらくして尚行は寝息を立て始め、握っていた手の力が緩んだ。
典子は尚行の手を布団の中に入れると、静かに部屋を出た。
寝室の前に立ち、わずかな躊躇いのあとにドアを開けた。
スタンドの灯りだけがともされている。
道久はすでにベッドの中にいて、半身を起こし、枕に背を預けて本を読んでいた。
「何を読んでるの?」
ドレッサーに坐り、普段と変わらぬ声で典子は訊いた。
「うん、時代物の小説なんだけどさ。会社の人が、面白いから読んでみろ、って言うもんだから、借りてきた」
道久は本から顔を上げずに答える。
「パパが小説を読むなんて、珍しいわね。前は本を読んでても、ビジネス関係のものばかりだったのに」
「そうだな。小説なんて学生のとき以来だよ。その頃だって、時代物は読まなかったけど、これ、読んでみると結構ハマるんだ」
「ふーん」
そこで会話が途切れ、典子が化粧水を顔につけ始めると、ふいに何かを思い出したのか、道久が顔を上げた。
「そう言えばさ」
「え?」
典子は化粧水をつける指先を止めずに口許で答えた。
「佐山慎一郎って作家、知ってる?」
その名を聞いたとたん、典子の指先が止まり、一瞬にして身体が凍りついた。
夫の口からその名が出たことが信じられなかった。
戦慄ともいえる慄(おのの)きが身体を走り、心臓を鷲掴みされたような痛みに、呼吸さえ止まるほどだった。
どうして……。
そればかりが脳裡を巡った。
夫に知られてしまったのだ、という思いに、身体の中から自分が崩れていくようだった。それでも、何とか平静を繕い、
「その人がどうしたの?」
鏡に顔を向けたままで、そう訊いた。
夫に顔を向けることなどできなかった。
胸を抉られるような痛みを覚えながら、夫の次の言葉を待った。
「事務の女のコが言ってたんだけど、女性よりも女性の気持ちがわかる作家、って、今すごく売れてる作家なんだってさ」
道久がそう言ったそのとき、典子は身体の力が抜けていった。
軽い眩暈さえ覚え、ほんとうに崩れそうになった。
知られたわけじゃなかった……。
その思いに、だが、安堵の息をつくわけにはいかない。
「そうなの。私は知らなかったわ。仕事をしてても、そんな話題が持ち上がったことなかったから」
かろうじてそう言ったが、声はかすかに震えていた。
それに道久は気づかない。
「そうか。読む年齢層が違うのかな。それにしても、男が、女性よりも女性の気持ちわかるなんてこと、あるのかな?」
「どうかしら。年齢層が違うかどうかは、読んでみなければわからないけど、でもそれって、女性の心を上手にくすぐってるんじゃないかな。女性の本質まではわかるわけがないもの」
「女性の本質って?」
「女性には、男が覗いたり絶対に入り込めない闇があるの」
「闇? 典子にも、その闇があるわけ?」
「私にだってあるわよ」
粘りつくその闇に、裏切りを潜ませている。
決してそれを面に出すわけにはいかない。
「なんだか、恐いな」
「女性は、男のように単純じゃないもの」
「確かに、女性は単純じゃないよな。でもさ、女性の心をくすぐるぐらいの作家だったら、他にいくらでもいるじゃないか。なのにどうして、その作家は持て囃されるんだ?」
「そうね。でも、そうなるってことは、その作家には、他の作家にはない何かがあるのよ。女性に対して、恋とか愛よりも深い何かが。過去に、心に疵を刻むようなことがあったとか。それが文章に現れてて、読む者を惹きつけるんじゃない」
典子は、佐山が語った、彼が苦しみつづけてきた過去のことを思い出していた。
「心の疵か……。もしかして、子供の頃、母親から虐待を受けて、それがトラウマになってたりして」
「どうして、そんなふうに思うのよ」
典子は語気を強め、睨むように道久を見た。
「もしそんなことがあったとしたら、女性の気持ちなんて書けないわよ。女性に対して屈折してしまうだけよ」
佐山を誹謗(ひぼう)するような夫の言い方に、思わずカッとなった。
「何だよ、急に怒ったりして」
そう言われ、里子はハッとして自分の言動に狼狽した。
「別に怒ってなんて……」
鏡に顔をもどし、
「パパがひどいことを言うからよ。母親に虐待されたなんて……。私も尚行の母親なのよ。そんなこと言って欲しくない」
そう言い繕うと、ブラシを髪にあてて狼狽を隠した。
「――そうだよな、ごめん。悪かった」
道久は素直に反省し、それきり口を閉ざして本に眼をもどした。
髪を梳かしながら、典子は鏡の中の顔を見つめる。
平静を装い、偽りを覆い隠した仮面のようなその顔は醜かった。
思わず眼を背けたくなってブラシを置くと、典子はドレッサーから立ち上がり、
「先に寝るわ」
そう声をかけて、ベッドへと入った。
それを見て道久は本を閉じ、
「俺も寝るかな」
ひとつ大きな欠伸をすると、スタンドの灯りを消した。
道久の動く気配が消え、とたんに部屋の中には闇と静寂が佇む。
典子は闇の中の天井を見つめる。
その闇に、佐山の苦渋に満ちた横顔が浮かぶ。
佐山のことを思うと胸が締めつけられて苦しくなる。
愛してはいけないと思えば思うほど、心は掻き乱されていく。
私はいったいどうしてしまったのか……。
つくづく自分がわからない。
夫への愛が冷めてしまったわけではない。
今も変わらず愛しているし、それは息子に対しても同じだ。
その想いは、これからも変わることはないだろう。
それなのに何故、佐山を自分の中から拭い去ることができないのか。
何故、これほど佐山への想いが募るのか。
娼婦であることで夫を裏切りつづけ、そして尚、心まで裏切ったというのに、まだこれ以上の罪を重ねようとするつもりなのか。
ダメよ……。
胸に疼く想いを払拭しようと、典子は眼を瞑り首をふった。
そのとき、静寂を割って道久の声がした。
「典子――」
その声に、典子は顔を道久に向けた。
「こっちにこないか」
その言葉に、典子の身体は硬直した。
夫の誘いに、応えることができなかった。
というよりも、それは拒否反応と言ってよかった。
佐山のことをふり払おうとしたにもかかわらず、心が、身体が、佐山とのあのひとときを汚すまいと、夫を拒絶したのだ。
「ごめんね、パパ。私、眠いわ」
気づくとそう言っていた。
だが道久はその言葉を聞き入れようとせず、ベッドから出ようとした。
その気配を感じて、
「パパ、ほんとに今日はダメ。疲れてるのよ」
まるで避けるように、典子は夫に背を向けた。
それは露骨と思えるほどの避け方だった。
それを道久も感じ取ったのか、少しの間があって、
「そうか……、わかった」
ポツリと言うと、枕に頭をもどした。
それきり道久は何も言わず、闇に静寂がもどった。
典子は二階に上がると、尚行の部屋のドアをゆっくりと開けた。
廊下から入り込む灯りに、ベッドに眠る尚行の顔が浮かぶ。
典子はそっとベッドに近づいていき、床に膝をついて、ぐっすりと眠る息子の寝顔を見つめた。
その寝顔を見つめているだけで、心が癒されていく。
なのにその反面では、心の中を暴かれているように思え、一瞬、尚行の眼が開き、見つめられている気がして典子は凍りつく。
だが、それは錯覚に過ぎず、尚行は静かに寝息を立てている。
穢(けが)れを知らない天使の顔で。
「ごめんね。ママは、悪いママだね」
髪をなでながら呟くと、思わず涙が溢れた。
その涙を堪えようと、典子は眼を閉じる。
泣いたからって、心の罪は消えやしないのよ!
自分をなじる。
けれど、自分を責めれば責めるほど、罪の重さに圧し潰されて、その苦しみが涙に変わる。
涙に濡れた声が、口許からこぼれてれていく。
「ママ……」
突然のその声に典子はハッとして、慌てて涙を拭った。
「帰ってたの……?」
眼を擦りながら、尚行は典子を見る。
「うん、ただいま。起こしちゃったね」
涙が拭いきれていない顔で、典子は微笑む。
「ボク、ママが帰ってくるの待ってたのに、寝ちゃったんだ。ごめんね」
その言葉が胸を締めつける。
「ママも、遅くなっちゃって、ごめんね」
「ううん。ママは、おウチのために頑張ってるんだから、仕方ないよ。だからボク、寂しくなんかないからね」
それが精一杯の強がりなのだろう。
尚行は唇をきつく結び、典子を見つめている。
ボクは強いんだ。ボクは負けないんだ――
その眼がそう語っている。
ほんとうの想いを口には出さず、胸の中に抑えこんで。
典子にはそれが痛いほどわかった。
尚行にとって、そうすることが、我慢をすることが、母親への思いやりであり優しさなのだ。
堪らず、涙がまた溢れてくる。
「ママ、どうしたの? 泣いてるの?」
心配そうに言うと、尚行は半身を起こした。
「ううん、何でもないの。心配しなくていいのよ。もう遅いから寝なさい」
「お仕事で、イヤなことでもあったの?」
尚も心配そうに言う。
「誰かにイジメられたの?」
その尚行を、典子は思わず抱きしめていた。
「ほんとに何でもないのよ。ごめんね、心配かけて。ごめんね……」
語尾が掠れ、それ以上言葉にならなかった。
こんなママだけど、赦(ゆる)してね……。
どんなことがあっても、あなたを離したりしない……。
あなたを守るからね……。
あなたがママを嫌いになっても、ママはあなたを愛してるよ……。
世界で一番あなたを愛してる。誰よりも……。
言葉にならない想いを、典子は抱きしめるその腕にこめた。
「ママをイジメるやつは、ボクがやっつけてやるからね」
なんて泣かせる言葉だろう。小さなこの身体で、守ってくれようとしているのだ。
「ありがとう。尚行は、正義のヒーローだもんね」
「うん」
「さ、もう寝なさい」
典子は腕を解き、涙を拭う。尚行は素直に横になると、布団をかける典子の手を握り、
「もう少し、ここにいてくれる?」
心細そうな眼で訴えかけた。
典子はうなずき、やさしい微笑みを浮かべた。
それで安心したのか、尚行は微笑み返すと、眼を閉じた。典子の手を握ったままで。
しばらくして尚行は寝息を立て始め、握っていた手の力が緩んだ。
典子は尚行の手を布団の中に入れると、静かに部屋を出た。
寝室の前に立ち、わずかな躊躇いのあとにドアを開けた。
スタンドの灯りだけがともされている。
道久はすでにベッドの中にいて、半身を起こし、枕に背を預けて本を読んでいた。
「何を読んでるの?」
ドレッサーに坐り、普段と変わらぬ声で典子は訊いた。
「うん、時代物の小説なんだけどさ。会社の人が、面白いから読んでみろ、って言うもんだから、借りてきた」
道久は本から顔を上げずに答える。
「パパが小説を読むなんて、珍しいわね。前は本を読んでても、ビジネス関係のものばかりだったのに」
「そうだな。小説なんて学生のとき以来だよ。その頃だって、時代物は読まなかったけど、これ、読んでみると結構ハマるんだ」
「ふーん」
そこで会話が途切れ、典子が化粧水を顔につけ始めると、ふいに何かを思い出したのか、道久が顔を上げた。
「そう言えばさ」
「え?」
典子は化粧水をつける指先を止めずに口許で答えた。
「佐山慎一郎って作家、知ってる?」
その名を聞いたとたん、典子の指先が止まり、一瞬にして身体が凍りついた。
夫の口からその名が出たことが信じられなかった。
戦慄ともいえる慄(おのの)きが身体を走り、心臓を鷲掴みされたような痛みに、呼吸さえ止まるほどだった。
どうして……。
そればかりが脳裡を巡った。
夫に知られてしまったのだ、という思いに、身体の中から自分が崩れていくようだった。それでも、何とか平静を繕い、
「その人がどうしたの?」
鏡に顔を向けたままで、そう訊いた。
夫に顔を向けることなどできなかった。
胸を抉られるような痛みを覚えながら、夫の次の言葉を待った。
「事務の女のコが言ってたんだけど、女性よりも女性の気持ちがわかる作家、って、今すごく売れてる作家なんだってさ」
道久がそう言ったそのとき、典子は身体の力が抜けていった。
軽い眩暈さえ覚え、ほんとうに崩れそうになった。
知られたわけじゃなかった……。
その思いに、だが、安堵の息をつくわけにはいかない。
「そうなの。私は知らなかったわ。仕事をしてても、そんな話題が持ち上がったことなかったから」
かろうじてそう言ったが、声はかすかに震えていた。
それに道久は気づかない。
「そうか。読む年齢層が違うのかな。それにしても、男が、女性よりも女性の気持ちわかるなんてこと、あるのかな?」
「どうかしら。年齢層が違うかどうかは、読んでみなければわからないけど、でもそれって、女性の心を上手にくすぐってるんじゃないかな。女性の本質まではわかるわけがないもの」
「女性の本質って?」
「女性には、男が覗いたり絶対に入り込めない闇があるの」
「闇? 典子にも、その闇があるわけ?」
「私にだってあるわよ」
粘りつくその闇に、裏切りを潜ませている。
決してそれを面に出すわけにはいかない。
「なんだか、恐いな」
「女性は、男のように単純じゃないもの」
「確かに、女性は単純じゃないよな。でもさ、女性の心をくすぐるぐらいの作家だったら、他にいくらでもいるじゃないか。なのにどうして、その作家は持て囃されるんだ?」
「そうね。でも、そうなるってことは、その作家には、他の作家にはない何かがあるのよ。女性に対して、恋とか愛よりも深い何かが。過去に、心に疵を刻むようなことがあったとか。それが文章に現れてて、読む者を惹きつけるんじゃない」
典子は、佐山が語った、彼が苦しみつづけてきた過去のことを思い出していた。
「心の疵か……。もしかして、子供の頃、母親から虐待を受けて、それがトラウマになってたりして」
「どうして、そんなふうに思うのよ」
典子は語気を強め、睨むように道久を見た。
「もしそんなことがあったとしたら、女性の気持ちなんて書けないわよ。女性に対して屈折してしまうだけよ」
佐山を誹謗(ひぼう)するような夫の言い方に、思わずカッとなった。
「何だよ、急に怒ったりして」
そう言われ、里子はハッとして自分の言動に狼狽した。
「別に怒ってなんて……」
鏡に顔をもどし、
「パパがひどいことを言うからよ。母親に虐待されたなんて……。私も尚行の母親なのよ。そんなこと言って欲しくない」
そう言い繕うと、ブラシを髪にあてて狼狽を隠した。
「――そうだよな、ごめん。悪かった」
道久は素直に反省し、それきり口を閉ざして本に眼をもどした。
髪を梳かしながら、典子は鏡の中の顔を見つめる。
平静を装い、偽りを覆い隠した仮面のようなその顔は醜かった。
思わず眼を背けたくなってブラシを置くと、典子はドレッサーから立ち上がり、
「先に寝るわ」
そう声をかけて、ベッドへと入った。
それを見て道久は本を閉じ、
「俺も寝るかな」
ひとつ大きな欠伸をすると、スタンドの灯りを消した。
道久の動く気配が消え、とたんに部屋の中には闇と静寂が佇む。
典子は闇の中の天井を見つめる。
その闇に、佐山の苦渋に満ちた横顔が浮かぶ。
佐山のことを思うと胸が締めつけられて苦しくなる。
愛してはいけないと思えば思うほど、心は掻き乱されていく。
私はいったいどうしてしまったのか……。
つくづく自分がわからない。
夫への愛が冷めてしまったわけではない。
今も変わらず愛しているし、それは息子に対しても同じだ。
その想いは、これからも変わることはないだろう。
それなのに何故、佐山を自分の中から拭い去ることができないのか。
何故、これほど佐山への想いが募るのか。
娼婦であることで夫を裏切りつづけ、そして尚、心まで裏切ったというのに、まだこれ以上の罪を重ねようとするつもりなのか。
ダメよ……。
胸に疼く想いを払拭しようと、典子は眼を瞑り首をふった。
そのとき、静寂を割って道久の声がした。
「典子――」
その声に、典子は顔を道久に向けた。
「こっちにこないか」
その言葉に、典子の身体は硬直した。
夫の誘いに、応えることができなかった。
というよりも、それは拒否反応と言ってよかった。
佐山のことをふり払おうとしたにもかかわらず、心が、身体が、佐山とのあのひとときを汚すまいと、夫を拒絶したのだ。
「ごめんね、パパ。私、眠いわ」
気づくとそう言っていた。
だが道久はその言葉を聞き入れようとせず、ベッドから出ようとした。
その気配を感じて、
「パパ、ほんとに今日はダメ。疲れてるのよ」
まるで避けるように、典子は夫に背を向けた。
それは露骨と思えるほどの避け方だった。
それを道久も感じ取ったのか、少しの間があって、
「そうか……、わかった」
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