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【第24話】
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寝室でパジャマに着換え、典子は化粧を落として浴室に向かった。
浴室に入ると、湯船には適温の湯が張ってあった。
道久が、典子のために沸かし直してくれたのだろう。
そんな心配りが、いたたまらない。
涙が自然に湧いてくる。
夫は、こんなにも尽くしてくれている。
それなのに、私はいったい何をしているのか。
夫だけを愛してきた典子だった。
今でも、その気持ちに変わりはない。
他の男に心が揺れたことだって、一度としてなかった。
なのに何故、佐山という男に惹かれ、心を奪われてしまったのか。
佐山に初めて会ったそのとき、想像していたタイプとは違った彼の体躯と容貌に、胸がときめいたのは確かだ。
けれどそれも、ホテルの部屋に入ったときに見せた、佐山の横暴ともいえる態度で一瞬に冷めてしまったし、典子がその日初めてだと知ったあと、佐山の態度が一変して優しく接してきても、彼がけして悪い人間ではない、そう思ったぐらいだった。
二度目に会ったときも、指名をしてくれた嬉しさはあったが、それ以上の感情はなかった。
いや、果たしてそうだったのだろうか。
酒を呑み、会話を交わし、酔うにつれて佐山のことを知りたいと思ったのは紛れもない事実だ。
いつの間にか佐山に惹かれていながら、あのときは酔っているからだと苦笑し、そんなことはあってはならないと自分を諌(いさ)めたのは、そうすることで胸に生じた想いを誤魔化すためだったのではないのか。
だからこそ、一度ならともかく、二度までも抱かずに帰そうとする佐山にその理由を問おうとしたり、突然起こった衝動のままに、一度乗ったタクシーを停めてまでして、彼に口づけをしたのではなかったのか――
自分に対する問いに、典子は弁解ができない。
胸の奥底へと追いやった想いは、誤魔化しきれずに出口を捜して暴れ出し、それが衝動を引き起こしてしまったのだから。
そして三度目の今日。
典子は自分から抱いてくれと哀願していた。
そう、あれは哀願だった。
口では、抱かれることが仕事なのだと言い、特別扱いはされたくないと反論し、だが、そのときはすでに佐山を求めていたのだ。
そうなった理由などわからない。
気づかぬうちに佐山が胸の中に入り込み、心は乱されていた。
そして典子は、彼との刹那な時の中で、夫を、息子を、その存在を忘れたのだ。
まるで棄て去るように。ほんとうなら、佐山に抱かれることで、胸に生じた想いを断ち切っているはずだった。
なのに気づくと、忘我の渦へと巻き込まれながら心を奪われていき、彼の過去に起きた悲劇を知って、慈しみと愛しさをいだいてしまった。
こうしている今でさえ、彼を求め、心は、身体は、渇望してやまないのだ。
彼を愛してしまった――
だが、典子は首をふった。
認めたくなかった。
それが真実だとわかっていればこそ、心はそれを否定するのだった。
愛してはいけない。忘れるのよ……。
気持ちを切り替えようと、典子は身体を洗う。
けれど自分の意思に逆らって、指先は意識しないままに、佐山が触れたところへ動いていく。
肩、乳房、腹部、腰――まるで彼の意思が乗り移ったかのように、まだ余韻の消えない箇所へと指先が滑り、残滓(ざんし)となった肌の記憶が身体を熱くさせる。
そんな自分に抗うが、身体の奥はすでに濡れ始めている。
嫌!
抗いきれないと思った典子は、熱めのシャワーを浴びた。
その熱さで、流れていく泡とともに肌に残る記憶をも流してしまいたい。
汚らわしい身体を、背徳に穢れた心を、清められるものなら清めたかった。
更に温度を上げる。
肌を刺してくるそのシャワーの熱が、身体の奥にたぎっていた熱を逆に冷ましてくれた。
シャワーを止めると、湯船に身体を沈めた。
肩まで浸かり、バス・タブのへりに頭をあずけ、眼を瞑る。
適温の湯が身体を揺らす。
かすかなその揺れと、全身を包みこむ湯の温かさに、典子は頭の中を空っぽにしていく。
気持ちが平静になったところで、佐山のことを改めて考えてみる。
彼とのことをどうすべきかを。
このままでは、自分を見失ってしまう。
とことん行くところまで行ってしまうような危険さえ感じている。
だが、どうすべきかなどと考えられる立場ではなかった。
私はあくまで娼婦なのだ。
佐山から指名が入れば、それに従うしかない。
自分から客を選ぶことなどできないのだから。
どんな嫌な客であっても、断ることなどできないのだ。
それが娼婦というものだ。
典子はふと笑った。
気づくと、何の嫌いもなく自分を「娼婦」と位置づけている。
考えてみれば、娼婦という言葉を嫌悪していたはずだった。
それなのに、今では典子自身が娼婦であることを認めてしまっている。
そんな自分が可笑しかった。
そして同時に、娼婦であることに慣れてしまうことが怖い。
いや、実際にはもう慣れてしまっているのかも知れない。
他の男と身体を重ねることが、苦痛であることに変わりはないし、それに慣れるということはこれから先もないだろう。
だが、それは他の女たちも皆同じで、男に抱かれることに苦痛を感じなが、お金のためにつづけている。
今は確かに、典子には借金を返済するためという理由があるが、それも結局は現金のためだ。
典子だけが悲劇を背負っているわけではない。
どんなに否定しようと、他の娼婦となんら変わりはないのだ。
それに気づいたとき、典子は、娼婦であることを認めるしかなかった。
そして、娼婦であることに慣れてしまうというより、それに麻痺していく自分が怖いのだった。
その結果、借金が終わっても、この仕事をずるずるとつづけてしまうのではないか、と。
典子は首をふった。
こんなんじゃいけない。
流されちゃいけない。
自分をしっかりと持たなきゃいけない。
大丈夫よ……。
強い意志を植えつけるように、自分に言い聞かせる。
借金が返し終わったら、きっぱりと辞める。
今の仕事に、たとえ麻痺したとしても絶対に染まったりはしない。
私は娼婦である前に、妻であり母親なんだから……。
そして彼のことも――愛したりしない……。
「大丈夫よ」
胸にあるわだかまりや未練を払拭するように、今度は口に出して言うと、典子は湯船を出た。
浴室に入ると、湯船には適温の湯が張ってあった。
道久が、典子のために沸かし直してくれたのだろう。
そんな心配りが、いたたまらない。
涙が自然に湧いてくる。
夫は、こんなにも尽くしてくれている。
それなのに、私はいったい何をしているのか。
夫だけを愛してきた典子だった。
今でも、その気持ちに変わりはない。
他の男に心が揺れたことだって、一度としてなかった。
なのに何故、佐山という男に惹かれ、心を奪われてしまったのか。
佐山に初めて会ったそのとき、想像していたタイプとは違った彼の体躯と容貌に、胸がときめいたのは確かだ。
けれどそれも、ホテルの部屋に入ったときに見せた、佐山の横暴ともいえる態度で一瞬に冷めてしまったし、典子がその日初めてだと知ったあと、佐山の態度が一変して優しく接してきても、彼がけして悪い人間ではない、そう思ったぐらいだった。
二度目に会ったときも、指名をしてくれた嬉しさはあったが、それ以上の感情はなかった。
いや、果たしてそうだったのだろうか。
酒を呑み、会話を交わし、酔うにつれて佐山のことを知りたいと思ったのは紛れもない事実だ。
いつの間にか佐山に惹かれていながら、あのときは酔っているからだと苦笑し、そんなことはあってはならないと自分を諌(いさ)めたのは、そうすることで胸に生じた想いを誤魔化すためだったのではないのか。
だからこそ、一度ならともかく、二度までも抱かずに帰そうとする佐山にその理由を問おうとしたり、突然起こった衝動のままに、一度乗ったタクシーを停めてまでして、彼に口づけをしたのではなかったのか――
自分に対する問いに、典子は弁解ができない。
胸の奥底へと追いやった想いは、誤魔化しきれずに出口を捜して暴れ出し、それが衝動を引き起こしてしまったのだから。
そして三度目の今日。
典子は自分から抱いてくれと哀願していた。
そう、あれは哀願だった。
口では、抱かれることが仕事なのだと言い、特別扱いはされたくないと反論し、だが、そのときはすでに佐山を求めていたのだ。
そうなった理由などわからない。
気づかぬうちに佐山が胸の中に入り込み、心は乱されていた。
そして典子は、彼との刹那な時の中で、夫を、息子を、その存在を忘れたのだ。
まるで棄て去るように。ほんとうなら、佐山に抱かれることで、胸に生じた想いを断ち切っているはずだった。
なのに気づくと、忘我の渦へと巻き込まれながら心を奪われていき、彼の過去に起きた悲劇を知って、慈しみと愛しさをいだいてしまった。
こうしている今でさえ、彼を求め、心は、身体は、渇望してやまないのだ。
彼を愛してしまった――
だが、典子は首をふった。
認めたくなかった。
それが真実だとわかっていればこそ、心はそれを否定するのだった。
愛してはいけない。忘れるのよ……。
気持ちを切り替えようと、典子は身体を洗う。
けれど自分の意思に逆らって、指先は意識しないままに、佐山が触れたところへ動いていく。
肩、乳房、腹部、腰――まるで彼の意思が乗り移ったかのように、まだ余韻の消えない箇所へと指先が滑り、残滓(ざんし)となった肌の記憶が身体を熱くさせる。
そんな自分に抗うが、身体の奥はすでに濡れ始めている。
嫌!
抗いきれないと思った典子は、熱めのシャワーを浴びた。
その熱さで、流れていく泡とともに肌に残る記憶をも流してしまいたい。
汚らわしい身体を、背徳に穢れた心を、清められるものなら清めたかった。
更に温度を上げる。
肌を刺してくるそのシャワーの熱が、身体の奥にたぎっていた熱を逆に冷ましてくれた。
シャワーを止めると、湯船に身体を沈めた。
肩まで浸かり、バス・タブのへりに頭をあずけ、眼を瞑る。
適温の湯が身体を揺らす。
かすかなその揺れと、全身を包みこむ湯の温かさに、典子は頭の中を空っぽにしていく。
気持ちが平静になったところで、佐山のことを改めて考えてみる。
彼とのことをどうすべきかを。
このままでは、自分を見失ってしまう。
とことん行くところまで行ってしまうような危険さえ感じている。
だが、どうすべきかなどと考えられる立場ではなかった。
私はあくまで娼婦なのだ。
佐山から指名が入れば、それに従うしかない。
自分から客を選ぶことなどできないのだから。
どんな嫌な客であっても、断ることなどできないのだ。
それが娼婦というものだ。
典子はふと笑った。
気づくと、何の嫌いもなく自分を「娼婦」と位置づけている。
考えてみれば、娼婦という言葉を嫌悪していたはずだった。
それなのに、今では典子自身が娼婦であることを認めてしまっている。
そんな自分が可笑しかった。
そして同時に、娼婦であることに慣れてしまうことが怖い。
いや、実際にはもう慣れてしまっているのかも知れない。
他の男と身体を重ねることが、苦痛であることに変わりはないし、それに慣れるということはこれから先もないだろう。
だが、それは他の女たちも皆同じで、男に抱かれることに苦痛を感じなが、お金のためにつづけている。
今は確かに、典子には借金を返済するためという理由があるが、それも結局は現金のためだ。
典子だけが悲劇を背負っているわけではない。
どんなに否定しようと、他の娼婦となんら変わりはないのだ。
それに気づいたとき、典子は、娼婦であることを認めるしかなかった。
そして、娼婦であることに慣れてしまうというより、それに麻痺していく自分が怖いのだった。
その結果、借金が終わっても、この仕事をずるずるとつづけてしまうのではないか、と。
典子は首をふった。
こんなんじゃいけない。
流されちゃいけない。
自分をしっかりと持たなきゃいけない。
大丈夫よ……。
強い意志を植えつけるように、自分に言い聞かせる。
借金が返し終わったら、きっぱりと辞める。
今の仕事に、たとえ麻痺したとしても絶対に染まったりはしない。
私は娼婦である前に、妻であり母親なんだから……。
そして彼のことも――愛したりしない……。
「大丈夫よ」
胸にあるわだかまりや未練を払拭するように、今度は口に出して言うと、典子は湯船を出た。
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