平凡という名の幸福

星 陽月

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【第23話】

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 典子が自宅に着いたときには、十一時半を過ぎていた。
 そんなに遅くなったことは今までになかった。
 それだけに、典子はすぐにドアを開けることができなかった。
 うしろめたさが、ドアノブに伸ばす手を躊躇(ためら)わせる。
 夫はまだ起きているだろう。
 あまりにも遅い帰宅に、何て言い訳をすればいいだろうか。
 ほんとうなら、合わせる顔などない。
 ついに心まで、夫を裏切ってしまったのだ。
 言い訳は、更に裏切ることになる。
 だからといって、真実を話せるわけがない。

 立ち尽くしたまま逡巡していると、家の前をひとが通りかかり、怪訝に思われたくなくて、典子は玄関のドアをそっと開けた。
 リビングから灯りが洩れている。
 だが、物音はしない。
 静かに三和土から上がり、リビングへ入って行くと、道久が焼酎の水割りを呑んでいた。

「お帰り」

 道久は典子に顔を向けて薄く笑ったが、その声はいつもと違い、沈んだ響きがあった。
 夫は怒ってる、そう感じた。

「ごめんなさい。商品を買ってくれたお客さんがスナックをやってて、呑んでって、って言うもんだから、少しだけならと思ってたのに、こんな時間になっちゃって……」

 とっさにそんなことを口にしていた。

 何て言い訳だろう……

 平然とそんな嘘を口にできる自分が、典子は赦せなかった。にもかかわらず、尚も平然とした笑みを浮かべ、

「着替えて、お風呂にはいるわ」

 そう言い、背を向けた。その背に、

「ちょっと、坐ってくれないか」

 道久の声がかかった。
 典子は足を止めて、

「明日じゃダメかな。今日は疲れちゃった」

 ふり返らずに答えた。今は何も話したくなかった。
 これ以上、平静を装って会話を交わすことなどできない。
 夫を直視することも。

「いいから坐ってくれ」

 幾分、道久の語気が強まった。
 険しいものが背に伝わって、典子は逆らわずに夫に従い、向かい側に坐った。
 道久は典子を見ずにグラスを口に運んだ。
 典子も夫の顔を見ることができない。
 重い沈黙が佇む。その沈黙が、典子の胸を圧し潰す。
 道久はテーブルにグラスを置き、一度典子に眼を向け、そしてすぐに伏せた。
 自分を抑えながら、胸にあるものを整理しているようだった。
 しばらく沈黙がつづいたあと、

「遅く帰ってきたことを、責めるつもりはないんだ」

 道久が口を開いた。

「仕事をしていれば色んなことがある。営業だったら尚更だ。だけど、こんなに遅くなるなら、電話ぐらいしてくれよ。スマホだって持ってるじゃないか。何の連絡もなきゃ、心配するだろ? 尚行だって、ママが帰ってくるまで起きてるって、ついさっきまで頑張って起きてたんだ。それぐらいができないなら、今の仕事辞めろよ」

 典子には返す言葉がなかった。
 夫の言っていることはもっともなことだ。
 電話ぐらいできたはずだった。
 それ以前に、もっと早く帰ってくるべきだった。
 いや、本当なら帰ってくることはできたのだ。
 なのに典子は、道久や尚行の心配をよそに、その夫と息子のことを忘れようとし、佐山の傍(そば)にいたいと望 んだのだ。
 そして彼の過去を知り、心を奪われ、自分を見失ってしまった。
 この裏切りを、どう償えばいいのだろう。
 たとえ償えたとしても、償って償いきれるものではない。
 どんな罰を科せられたとしても、それを受け入れるしかない。
 越えてはならないところへ、脚を踏み入れてしまったのだから。
 典子は項垂れるしかなかった。
 それなのに、夫は優しい言葉をかけてくる。

「疲れてるのに悪かった。キツイこと言って」

 その優しさに、典子は胸に突き上げるものを覚えて、顔を上げた。

「私――」

 けれど、それ以上言葉をつづけられない。

 パパを裏切ったの――

 真実を、どうしても口にすることができなかった。
 そんなことをすれば、すべてが崩れ去ってしまう。
 典子は何か話そうとする。
 だが、何か言おうとすればするほど、かえって何も言えなくなって、典子は顔を伏せた。

「何も言うな。俺は、典子を信じてる」

 その言葉は、胸に堪えた。
 道久は、何か話しかけた妻を問いただそうともせず、ただ「信じてる」と言う。
 それはきっと、自分自身に言い聞かせた言葉なのだろう。
 妻を信じられなくてどうするのだ、と。
 典子は涙が溢れた。

 こんないい夫を私は裏切りつづけてる……。

 身体だけでなく、心までも。心までは裏切らない、そう誓ったはずなのに。
 自分自身を殴りつけたかった。

「典子……」

 気づかう夫の声が辛い。
 これ以上優しくされたくない。
 典子は涙を拭うと顔を上げ、

「ごめんね、パパ。これからは、ちゃんと電話する」

 言って笑顔を作った。

「あァ、そうしてくれよ。尚行のためにも」
「うん。じゃ、お風呂入るね」

 典子は答えて、リビングを出た。
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