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【第22話】
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いったい何を訊こうというのか。
今更抱こうとしなかった理由を聞いたところで、何になるというのか。
そう思いながら、けれど典子には、それで拭えないものがあった。
それは、抱こうとしなかった理由だけではなく、典子を特別な存在としたことや、ふとしたときに見せる物哀しい 眼や背の過去にはいったい何があったのか、それを知りたいという思いだった。
そんなことは、いらぬ詮索というものだとわかっていても、典子は知りたいという思いがあった。
だがそれを訊くこともできず、口を閉ざした。
すると、佐山が口を開いた。
「君を抱かなかったのは……」
そこで一度言葉をつめ、佐山は思いつめたように薄闇の天井を見つめていたが、
「似てたんだ。君が五年前の女に」
そう言った。典子はふり向かず、耳に神経を集中した。
「その彼女も娼婦だった。ホテルの部屋から電話で呼んだんだ。彼女、その日が初日だった。あの日君が言ったことと同じことを言ったよ。今日が初めてなんです、って。そのとき僕を見た彼女の眼や声は、あのときの君と同じだった」
そこまで言うと佐山は、バスタオルを腰に巻き、ベッドを出るとスタンドを点け、テーブルの上に置いてある煙草を手に取った。
椅子に坐った佐山に顔を向け、典子は次の言葉を待った。
「僕は、泣きながら嫌がる彼女を無理やり抱いたんだ。屈辱的な言葉を口にしながら……だからって、まさか自殺するなんて……」
佐山は唇を噛み、眉根をよせて眼を閉じた。
その顔は悲痛にゆがんでいた。
それは佐山にとって消えることのない過去であり、深い心の疵だった。
あれは五年前の、忘れることのできない出来事だった。
佐山の部屋をあとにしたその彼女は、初めからそうすることを決めていたかのように、ラヴ・ホテルの屋上に行くと、躊躇うことなく死へと身を投じたのだった。
そんなことを知る由もない佐山は、シャワーを浴びて缶ビールを呑んでいた。
そのときには、ホテルの前の路上では騒ぎになっていて、大勢の野次馬が集まっていた。
だが、部屋の中にいる佐山がそれに気づくわけもなく、缶ビールを呑み干すと、衣服を身につけ、帰ることをフロントに連絡しようと受話器を手にしたそのとき、ドアがノックされ、開けてみると警官がふたり立っていた。
「アナタと一緒にいたと思われる女性が、このホテルの屋上から飛び降りました。事情をお聞かせ願いたいので、ご同行願えますか」
事情が呑みこめないまま、佐山は警官に従った。
警察署で調書を取られ、佐山は訊かれるままに答えた。
そのさなか、彼女が病院に運ばれていく救急車の中で、命を落としたことを知らされた。
そのときになって佐山は、ことの重大さに恐怖を覚え、手が震えて止まらなくなった。
刑事は彼女が飛び降りたことに、何か関係しているのではないかと、執拗に問いただしてきたが、それに対して佐山は首をふりつづけた。
「何も知らないってわけないだろう。協力してもらえないんだったら、今日は帰れないぞ」
脅しとも取れる横暴な刑事の言葉にも、佐山は何も答えなかった。
まるで「お前が突き落としたんだろう」と言わんばかりの尋問がつづき、だが、彼女が屋上から飛び降りるのを見た、という目撃者の証言があったことで、佐山は警察署から帰された。
買春行為についても、現行犯ではなかったので、罪に問われることはなかった。
罪に問われることはなかったとはいえ、その日から佐山は、罪の意識に苛まされることになった。
彼女を殺したのは自分なのだと。
そして佐山は、その頃勤めていた会社を辞め、何もできないまま、人に会うことも拒み、部屋の中に閉じこもった。
アルコールに逃げてしまえば、まだ楽だったのかも知れない。
だが、そうすることもできないほど、佐山は自分自身を追いつめた。
食事もほとんど摂らず、眠りについても、彼女が夢の中に現れ、うなされつづけた。
夢の中で佐山は、泣きながら抗う彼女を陵辱している。
すると突然彼女は抗うのをやめ、ピクリとも動かなくなる。
佐山は彼女の肩を揺するがそれでも動かず、彼女の顔を覆うようにかかった髪を払う。
その瞬間、佐山は驚愕に彼女から離れる。
彼女の顔は、頭部から流れる血で赤く染まり、血は溢れつづけ、ベッドをも赤く染めていく。
佐山は逃げることもできずに大声を上げ、そこで眼を醒ます。
そんな日々がつづき、このままでは気が変になってしまうと思った佐山は、彼女への懺悔の気持ちをこめて、文章を書き始めた。
そんなことをしたからといって、罪滅ぼしになるわけでもないのに、佐山は涙を流しながら書き進めていった。
文章を書いているあいだだけは、罪の意識から解放された。
そのときだけは、自分を忘れることができた。
何かにとり憑かれたように書きつづけ、それまで文章らしいものなど何ひとつ書いたこともない佐山だったが、一ヵ月足らずで原稿用紙六百枚を書き上げていた。
それはひとりの娼婦の苦悩を書いた物語だった。
主人公の娼婦は一度は自殺を考えるが、ひとりの男との出逢いによって思いとどまり、強く生き、幸せになっていくという、そんな内容のものだった。
その文章には、佐山の切実なる思いがあった。
物語の中だけは、彼女を死なせたくなかった。
どんなことがあっても生きつづけて欲しかった。
書き上がったとたん、身体の中から何かが抜けていったように、佐山は放心した状態になった。
己の責め苦からやっと解き放たれ、救われたという感じだった。
だからといって、罪の意識を感じなくなったというわけではない。
罪は罪として心に刻み、自分を取りもどしたということだった。
その夜、あの出来事以来初めて、佐山は夢を観ることもなく、深い眠りにつくことができた。
書き上げた原稿は、誰の眼にも触れさせることなく封印するつもりだった。
だが、そうすることは罪を引きずってしまう気がして、一度は燃やしてしまおうとも思ったが、ある雑誌で小説の新人賞の募集を眼にし、考えに考えた末、その新人賞に投稿することにした。
そして佐山は新人賞を獲得し、作家になったのだった。
「――僕はそれから三年間、女をひとりも抱かなかった。いや、抱けなくなったんだ。だから恋人もできなかった。だけど、三年も経つと罪の意識も薄れてきて、それにその頃になると、人気が出てきた自分に自惚れるようにもなって、また、女を買うようになり始めたんだ……女の心を書いていながら、僕は女を蔑ろにしてきたんだ」
最低だよ、最後にポツリとそう言うと、佐山は煙草を灰皿で揉み消した。
苦渋に満ちた顔が、スタンドの灯りに浮かぶ。
その佐山の顔を典子は黙って見つめている。
このひとは不器用なだけだ。決して女を蔑(ないがし)ろになんてしてない。
ずっとずっと苦しんできた。
そして今も……。
裸身のまま典子はベッドを出ると、佐山のもとへ行き、彼の頭を胸に抱いた。
「あなたは何も悪くないわ。だからもう忘れよう。ずっと苦しんできたじゃない。自分を責めてきたじゃない。彼女だって、もう赦してくれるわ。だからもういいのよ」
佐山は、典子の背に腕を廻した。
肩が小刻みに震え始める。典子は、その佐山の髪を優しくなでた。
時間だけが静かに流れていく。
しばらくして佐山は、廻していた腕を解き、典子を見上げた。
その佐山に、典子は唇を落とした。
スタンドの灯りに、重なり合うふたりの影がひとつになっていた。
今更抱こうとしなかった理由を聞いたところで、何になるというのか。
そう思いながら、けれど典子には、それで拭えないものがあった。
それは、抱こうとしなかった理由だけではなく、典子を特別な存在としたことや、ふとしたときに見せる物哀しい 眼や背の過去にはいったい何があったのか、それを知りたいという思いだった。
そんなことは、いらぬ詮索というものだとわかっていても、典子は知りたいという思いがあった。
だがそれを訊くこともできず、口を閉ざした。
すると、佐山が口を開いた。
「君を抱かなかったのは……」
そこで一度言葉をつめ、佐山は思いつめたように薄闇の天井を見つめていたが、
「似てたんだ。君が五年前の女に」
そう言った。典子はふり向かず、耳に神経を集中した。
「その彼女も娼婦だった。ホテルの部屋から電話で呼んだんだ。彼女、その日が初日だった。あの日君が言ったことと同じことを言ったよ。今日が初めてなんです、って。そのとき僕を見た彼女の眼や声は、あのときの君と同じだった」
そこまで言うと佐山は、バスタオルを腰に巻き、ベッドを出るとスタンドを点け、テーブルの上に置いてある煙草を手に取った。
椅子に坐った佐山に顔を向け、典子は次の言葉を待った。
「僕は、泣きながら嫌がる彼女を無理やり抱いたんだ。屈辱的な言葉を口にしながら……だからって、まさか自殺するなんて……」
佐山は唇を噛み、眉根をよせて眼を閉じた。
その顔は悲痛にゆがんでいた。
それは佐山にとって消えることのない過去であり、深い心の疵だった。
あれは五年前の、忘れることのできない出来事だった。
佐山の部屋をあとにしたその彼女は、初めからそうすることを決めていたかのように、ラヴ・ホテルの屋上に行くと、躊躇うことなく死へと身を投じたのだった。
そんなことを知る由もない佐山は、シャワーを浴びて缶ビールを呑んでいた。
そのときには、ホテルの前の路上では騒ぎになっていて、大勢の野次馬が集まっていた。
だが、部屋の中にいる佐山がそれに気づくわけもなく、缶ビールを呑み干すと、衣服を身につけ、帰ることをフロントに連絡しようと受話器を手にしたそのとき、ドアがノックされ、開けてみると警官がふたり立っていた。
「アナタと一緒にいたと思われる女性が、このホテルの屋上から飛び降りました。事情をお聞かせ願いたいので、ご同行願えますか」
事情が呑みこめないまま、佐山は警官に従った。
警察署で調書を取られ、佐山は訊かれるままに答えた。
そのさなか、彼女が病院に運ばれていく救急車の中で、命を落としたことを知らされた。
そのときになって佐山は、ことの重大さに恐怖を覚え、手が震えて止まらなくなった。
刑事は彼女が飛び降りたことに、何か関係しているのではないかと、執拗に問いただしてきたが、それに対して佐山は首をふりつづけた。
「何も知らないってわけないだろう。協力してもらえないんだったら、今日は帰れないぞ」
脅しとも取れる横暴な刑事の言葉にも、佐山は何も答えなかった。
まるで「お前が突き落としたんだろう」と言わんばかりの尋問がつづき、だが、彼女が屋上から飛び降りるのを見た、という目撃者の証言があったことで、佐山は警察署から帰された。
買春行為についても、現行犯ではなかったので、罪に問われることはなかった。
罪に問われることはなかったとはいえ、その日から佐山は、罪の意識に苛まされることになった。
彼女を殺したのは自分なのだと。
そして佐山は、その頃勤めていた会社を辞め、何もできないまま、人に会うことも拒み、部屋の中に閉じこもった。
アルコールに逃げてしまえば、まだ楽だったのかも知れない。
だが、そうすることもできないほど、佐山は自分自身を追いつめた。
食事もほとんど摂らず、眠りについても、彼女が夢の中に現れ、うなされつづけた。
夢の中で佐山は、泣きながら抗う彼女を陵辱している。
すると突然彼女は抗うのをやめ、ピクリとも動かなくなる。
佐山は彼女の肩を揺するがそれでも動かず、彼女の顔を覆うようにかかった髪を払う。
その瞬間、佐山は驚愕に彼女から離れる。
彼女の顔は、頭部から流れる血で赤く染まり、血は溢れつづけ、ベッドをも赤く染めていく。
佐山は逃げることもできずに大声を上げ、そこで眼を醒ます。
そんな日々がつづき、このままでは気が変になってしまうと思った佐山は、彼女への懺悔の気持ちをこめて、文章を書き始めた。
そんなことをしたからといって、罪滅ぼしになるわけでもないのに、佐山は涙を流しながら書き進めていった。
文章を書いているあいだだけは、罪の意識から解放された。
そのときだけは、自分を忘れることができた。
何かにとり憑かれたように書きつづけ、それまで文章らしいものなど何ひとつ書いたこともない佐山だったが、一ヵ月足らずで原稿用紙六百枚を書き上げていた。
それはひとりの娼婦の苦悩を書いた物語だった。
主人公の娼婦は一度は自殺を考えるが、ひとりの男との出逢いによって思いとどまり、強く生き、幸せになっていくという、そんな内容のものだった。
その文章には、佐山の切実なる思いがあった。
物語の中だけは、彼女を死なせたくなかった。
どんなことがあっても生きつづけて欲しかった。
書き上がったとたん、身体の中から何かが抜けていったように、佐山は放心した状態になった。
己の責め苦からやっと解き放たれ、救われたという感じだった。
だからといって、罪の意識を感じなくなったというわけではない。
罪は罪として心に刻み、自分を取りもどしたということだった。
その夜、あの出来事以来初めて、佐山は夢を観ることもなく、深い眠りにつくことができた。
書き上げた原稿は、誰の眼にも触れさせることなく封印するつもりだった。
だが、そうすることは罪を引きずってしまう気がして、一度は燃やしてしまおうとも思ったが、ある雑誌で小説の新人賞の募集を眼にし、考えに考えた末、その新人賞に投稿することにした。
そして佐山は新人賞を獲得し、作家になったのだった。
「――僕はそれから三年間、女をひとりも抱かなかった。いや、抱けなくなったんだ。だから恋人もできなかった。だけど、三年も経つと罪の意識も薄れてきて、それにその頃になると、人気が出てきた自分に自惚れるようにもなって、また、女を買うようになり始めたんだ……女の心を書いていながら、僕は女を蔑ろにしてきたんだ」
最低だよ、最後にポツリとそう言うと、佐山は煙草を灰皿で揉み消した。
苦渋に満ちた顔が、スタンドの灯りに浮かぶ。
その佐山の顔を典子は黙って見つめている。
このひとは不器用なだけだ。決して女を蔑(ないがし)ろになんてしてない。
ずっとずっと苦しんできた。
そして今も……。
裸身のまま典子はベッドを出ると、佐山のもとへ行き、彼の頭を胸に抱いた。
「あなたは何も悪くないわ。だからもう忘れよう。ずっと苦しんできたじゃない。自分を責めてきたじゃない。彼女だって、もう赦してくれるわ。だからもういいのよ」
佐山は、典子の背に腕を廻した。
肩が小刻みに震え始める。典子は、その佐山の髪を優しくなでた。
時間だけが静かに流れていく。
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