平凡という名の幸福

星 陽月

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【第21話】

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 エレベーターに乗ると、佐山は一階ではなく十階を押した。
 典子はフロントに行くものとばかり思っていたが、すでに部屋を取っていたらしい。
 今はこのホテルで執筆をしているのだろうか。
 それとも、ほんとうは初めから抱くつもりでいたのか。
 もしそうなら、自分の言動が今更ながらに恥ずかしい。
 そんなことを思いながら佐山の横顔を見つめていると、エレベーターは十階で停まった。
 部屋にはいると、すぐに典子はバスルームに向かった。
 あくまで仕事に徹するために。佐山への想いを消去して。
 熱めのシャワーを浴び、心をリセットにしてバスタオルを身体に巻いてバスルームを出ると、佐山は窓際に立っていた。

「シャワーを浴びてください」

 典子の声に、佐山は夜景の先にある闇に眼を馳せたまま、動く気配を見せずにいた。
 スタンドの灯りに照らされたその背が、どこか物哀しく、そして、典子からというよりも別の何かから背けているように思えた。

「佐山さん」

 その声にやっと佐山は反応し、

「あァ」

 そう返すと、バスルームにはいっていった。
 典子は、スタンドの灯りを仄かにともる程度に落とすと、ベッドに身体を滑りこませた。

 あの人には、やっぱり何かあるんだ……。

 かすかに響くシャワーの音を耳にしながら、典子は、佐山と会った日のことを思い返した。
 あの日佐山は、その日が典子の初日なのだと知ると、それまでの態度が一変し、もう典子には触れようともせず、柔和な笑みさえ浮かべて帰るように促した。
 あのときも、窓際に立ったその背はどこか物哀しかった。

 いったい何があるんだろうか……。

 そう思っていると、シャワーの音が止まり、バスルームのドアが開いた。
 洩れる灯りが薄闇を払い、典子は眼を閉じた。
 佐山がベッドに入ってくる気配を感じながら、身体の内で響く鼓動を聴いた。
 仕事に徹するのよ、と何度も胸の中でくり返し、だが、佐山の肌が触れたとたん、典子の身体は硬くなり、指先さえも動かなかった。
 それとは逆に、響く鼓動だけが、胸の中で激しく暴れた。
 佐山の動きが止まり、典子はゆっくりと眼を開く。
 そこには、静かな瞳で見つめる佐山の顔があった。
 ほんのひとときふたりは見つめ合い、そして、佐山が唇を落としていった。
 重ねられた唇に、典子は激しく応えた。
 仕事に徹しようと反芻するようにくり返した言葉は、いつの間にか頭の中から消えていた。
 それどころか、動かなかった手や身体が、呪縛から解き放たれたように佐山を求め動いた。
 そんな自分を意識することもできず、典子は思考することさえできなくなっていた。

 もう、どうなってもいい――

 本能がそう言っていた。
 流れる血が炎と化す。
 その炎は、地獄の業火となってその身を灼き尽くそうとする。

 燃え尽きてしまえばいい――
 
 そんな声が聴こえる。
 何もかもが燃え尽きて、真っ白な灰になってしまえばいい。

 そうすれば、すべてから解放される。すべてから――

 本能の声が響きつづける中、典子は高みへと昇りつめていった。
 果てたあと、典子はすぐにベッドから出ることができなかった。
 夫以外の男に抱かれて、そんなふうになるのは初めてだった。
 いや、今まで他の男と身体を重ねても、一度として果てることなどもなかった。
 抱かれながら気持ちはいつも冷めていた。
 一秒でも早く男の身体と臭気から逃れて、その部屋から出て行くことだけを考えつづけていた。
 それが今、典子は佐山の腕の中で眼を閉じ、時間の流れさえわからなくなっている。
 
 このままでいたい……。
 
 混濁(こんだく)した意識の中で典子は思う。
 だが、

「もう、帰ったほうがいい」

 その佐山の言葉が現実へと引きもどした。
 そう、帰らなければならない。
 夫と息子のもとへと。
 そう思いながら、その思いとは裏腹に、典子は佐山の胸に預けた腕に力をこめた。
 それが佐山の言葉への、精一杯の答えだった。
 今は何も考えたくない。
 今のこのひとときを、何ものにも破られたくはない。
 願うその想いは、

「ご主人が待ってるじゃないか」

 思いもよらないその言葉によって破られた。
 典子は一瞬身体がすくみ、どうしていいのかわからず、半身を起こした。

「どうして、それを……」

 思わずそう言っていた。
 ふり返ることはできなかった。
 以前、結婚しているのかと訊かれたとき、言葉を濁したはずだった。
 指環だって外している。
 それに、夫がいることを口にするほど酔った憶えもない。
 まさかオフィスのほうで、そんなことまで話したのだろうか。
 そんなことが一瞬にして頭を巡った。

「君の左手の薬指、指環の跡がある。それって、日頃つけてるのを外した跡だよ」

 そう言われ、典子は自分の左手に眼を落とした。
 確かに、薬指の根元にリングの跡が残っている。
 そこまでは気が廻らなかった。

「私を抱かなかったのは、それが原因ですか」

 ふと思いついたことを典子は口にした。

「それは違う。それに気づいたのは、さっきラウンジにいたときだし、君を抱かなかったのはそんなことじゃない」
「だったら――」

 そこで典子は言葉を切った。

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