20 / 38
【第20話】
しおりを挟む
「もう、指名はしてくれないと思ってました」
カクテルのスプモーニを、唇に濡らす程度にふくむと、典子は言った。
「どうして?」
佐山は訊き返し、バーボンのロックグラスを手にすると、丸く削られた氷を軽く廻した。
「この前は、失礼なことをしてしまったから」
「とつぜんだったな。あれは」
バーボンを口にふくむと、佐山は眼元に笑みを浮かべた。
「何てお詫びしたらいいのか……」
「お詫びだなんて、大袈裟だな。だけど、正直驚いた。まさか、君があんなに大胆なひとだったなんて」
「自分でもよくわからないんです。何故あんなことをしてしまったのか……酔っていたのかも知れません」
「誰にでも、理解できない衝動が走るときってあるもんだよ。僕なんて、原稿を書き上げる度に、破り棄ててしまいたい衝動に駆られるんだ。突発的にね」
そう言うと佐山は、実際に破ったこともあるんだ、と笑った。
その屈託のない笑顔に、典子は一瞬見惚れてしまい、そんな自分に気づいて、眼下に広がる夜景へと眼をそらした。
海にせり出すように建つそのホテルの、最上階にあるトップ・ラウンジからは、ベイサイド・エリアが一望できる。
天空の瞬く星たちに、負けないほどの煌めきを魅せる夜景は、ベイサイドを外れると、まるでそこだけが切り取られたように、ふいに闇に変わる。
そこには海が広がっているのだろうが、今はただ漆黒の闇があるだけだった。
その闇に眼を馳せながら、典子は佐山に惹かれている自分を知った。
それがどういうことなのかは、充分にわかっている。
そんなことがあってはならないことも。
けれど、彼に惹かれていく自分をどうすることもできなかった。
漆黒の闇が、心の奥の闇に芽生えていた佐山に対する想いをあらわにしたようだった。
視点を引くと、窓に映る自分の顔がある。
ダウンライトされた照明に、淡く映し出されたその顔は、卑しくも女の色香さえ漂わせている。
妻でもなく母親でもなく、ただひとりの女としての。
そんな自分の顔から背けるように、典子は斜めに眼を伏せた。
「どうかした?」
佐山が心配げに訊いてきた。
「いえ、何でもありません。ただ……」
典子は顔を上げ、佐山を見つめた。
「今日は、このまま帰れなんて、言わないでください」
その言葉に、佐山は典子を見つめ返すと、
「そんなこと、言ってほしくない」
グラスを手にし、ひと息に呷(あお)った。
「僕をがっかりさせないでくれよ。僕は君を、他の女のように、ただ抱くだけの関係にしたくないんだ。君は特別なんだよ」
ランプ・シェードに揺れるその眼は愁いを帯びていた。
「だったら、こうしてお酒を呑んだり、食事をするだけの関係をつづけるって言うんですか?」
「それが何故いけないんだ」
「何故って、私は抱かれることが仕事なんです。それを特別扱いされたら、心が乱されるだけです。それがわからないのなら、作家をお辞めになったほうがいいと思います」
そう言ってしまってから、典子はまずいことを口にしてしまったことに気づいた。
なのに、それだけでは済まず、
「もし、これからも私を特別扱いなさるんでしたら、佐山さんのお相手をすることはできません」
きっぱりと言った。典子は、佐山に抱かれることを望んでいるわけではない。
むしろ佐山に抱かれることによって、心に芽生えた想いを断ち切ろうと思ったのだ。
そうすれば、仕事として割り切ることができる。
あくまで、客と娼婦の関係として。
佐山にしてみても、一度抱いてしまえば、妄想ともいえる典子にいだいていた想いから醒め、ただの虚像に過ぎなかったことを思い知るだろう。
今まで抱いてきた女と、なんら変わりはないということを。
そう思ってくれたほうがいいのだ。
そして、ひとりの娼婦として接してくれれば、心を乱されなくて済む。
「私を抱かないのなら、もう指名もしないでください」
典子は佐山を真っ直ぐに見つめた。
佐山は、視点が定まらないというような眼で、典子を見つめていたが、その視線をふと横へと切り、
「君の言うとおりだ。僕は作家を辞めたほうがいいのかも知れないな……」
そう言うと、口端に薄い笑みを浮かべた。
「僕は女性の気持ちにどこまで近づけるか、という思いで、ずっと女性を書きつづけてきて、それが実際に女性の読者に受けて、女性以上に女性がわかる作家、なんて安いキャッチ・コピーで持て囃されて……。結局その安いキャッチ・コピーに踊らされて、自惚れてたんだな。実際、女性のことを何もわかってなかったんだ。僕の書いてたものなんて、ただの男のエゴと願望に過ぎない。君に逢ってそれがわかった」
そこで佐山は、典子に視線をもどした。
「もう、君を特別に考えたりはしない。だから僕は君を抱く。ただし、それは娼婦としてじゃない。女性を知る意味での題材としてだ。君が律儀にも仕事をまっとうするつもりなら、僕は仕事の糧として君に接する」
それでいいだろ? そう言う佐山に、典子はうなずいた。
そのうなずきとともに佐山は立ち上がり、典子もそれに従った。
カクテルのスプモーニを、唇に濡らす程度にふくむと、典子は言った。
「どうして?」
佐山は訊き返し、バーボンのロックグラスを手にすると、丸く削られた氷を軽く廻した。
「この前は、失礼なことをしてしまったから」
「とつぜんだったな。あれは」
バーボンを口にふくむと、佐山は眼元に笑みを浮かべた。
「何てお詫びしたらいいのか……」
「お詫びだなんて、大袈裟だな。だけど、正直驚いた。まさか、君があんなに大胆なひとだったなんて」
「自分でもよくわからないんです。何故あんなことをしてしまったのか……酔っていたのかも知れません」
「誰にでも、理解できない衝動が走るときってあるもんだよ。僕なんて、原稿を書き上げる度に、破り棄ててしまいたい衝動に駆られるんだ。突発的にね」
そう言うと佐山は、実際に破ったこともあるんだ、と笑った。
その屈託のない笑顔に、典子は一瞬見惚れてしまい、そんな自分に気づいて、眼下に広がる夜景へと眼をそらした。
海にせり出すように建つそのホテルの、最上階にあるトップ・ラウンジからは、ベイサイド・エリアが一望できる。
天空の瞬く星たちに、負けないほどの煌めきを魅せる夜景は、ベイサイドを外れると、まるでそこだけが切り取られたように、ふいに闇に変わる。
そこには海が広がっているのだろうが、今はただ漆黒の闇があるだけだった。
その闇に眼を馳せながら、典子は佐山に惹かれている自分を知った。
それがどういうことなのかは、充分にわかっている。
そんなことがあってはならないことも。
けれど、彼に惹かれていく自分をどうすることもできなかった。
漆黒の闇が、心の奥の闇に芽生えていた佐山に対する想いをあらわにしたようだった。
視点を引くと、窓に映る自分の顔がある。
ダウンライトされた照明に、淡く映し出されたその顔は、卑しくも女の色香さえ漂わせている。
妻でもなく母親でもなく、ただひとりの女としての。
そんな自分の顔から背けるように、典子は斜めに眼を伏せた。
「どうかした?」
佐山が心配げに訊いてきた。
「いえ、何でもありません。ただ……」
典子は顔を上げ、佐山を見つめた。
「今日は、このまま帰れなんて、言わないでください」
その言葉に、佐山は典子を見つめ返すと、
「そんなこと、言ってほしくない」
グラスを手にし、ひと息に呷(あお)った。
「僕をがっかりさせないでくれよ。僕は君を、他の女のように、ただ抱くだけの関係にしたくないんだ。君は特別なんだよ」
ランプ・シェードに揺れるその眼は愁いを帯びていた。
「だったら、こうしてお酒を呑んだり、食事をするだけの関係をつづけるって言うんですか?」
「それが何故いけないんだ」
「何故って、私は抱かれることが仕事なんです。それを特別扱いされたら、心が乱されるだけです。それがわからないのなら、作家をお辞めになったほうがいいと思います」
そう言ってしまってから、典子はまずいことを口にしてしまったことに気づいた。
なのに、それだけでは済まず、
「もし、これからも私を特別扱いなさるんでしたら、佐山さんのお相手をすることはできません」
きっぱりと言った。典子は、佐山に抱かれることを望んでいるわけではない。
むしろ佐山に抱かれることによって、心に芽生えた想いを断ち切ろうと思ったのだ。
そうすれば、仕事として割り切ることができる。
あくまで、客と娼婦の関係として。
佐山にしてみても、一度抱いてしまえば、妄想ともいえる典子にいだいていた想いから醒め、ただの虚像に過ぎなかったことを思い知るだろう。
今まで抱いてきた女と、なんら変わりはないということを。
そう思ってくれたほうがいいのだ。
そして、ひとりの娼婦として接してくれれば、心を乱されなくて済む。
「私を抱かないのなら、もう指名もしないでください」
典子は佐山を真っ直ぐに見つめた。
佐山は、視点が定まらないというような眼で、典子を見つめていたが、その視線をふと横へと切り、
「君の言うとおりだ。僕は作家を辞めたほうがいいのかも知れないな……」
そう言うと、口端に薄い笑みを浮かべた。
「僕は女性の気持ちにどこまで近づけるか、という思いで、ずっと女性を書きつづけてきて、それが実際に女性の読者に受けて、女性以上に女性がわかる作家、なんて安いキャッチ・コピーで持て囃されて……。結局その安いキャッチ・コピーに踊らされて、自惚れてたんだな。実際、女性のことを何もわかってなかったんだ。僕の書いてたものなんて、ただの男のエゴと願望に過ぎない。君に逢ってそれがわかった」
そこで佐山は、典子に視線をもどした。
「もう、君を特別に考えたりはしない。だから僕は君を抱く。ただし、それは娼婦としてじゃない。女性を知る意味での題材としてだ。君が律儀にも仕事をまっとうするつもりなら、僕は仕事の糧として君に接する」
それでいいだろ? そう言う佐山に、典子はうなずいた。
そのうなずきとともに佐山は立ち上がり、典子もそれに従った。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる