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【第20話】
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「もう、指名はしてくれないと思ってました」
カクテルのスプモーニを、唇に濡らす程度にふくむと、典子は言った。
「どうして?」
佐山は訊き返し、バーボンのロックグラスを手にすると、丸く削られた氷を軽く廻した。
「この前は、失礼なことをしてしまったから」
「とつぜんだったな。あれは」
バーボンを口にふくむと、佐山は眼元に笑みを浮かべた。
「何てお詫びしたらいいのか……」
「お詫びだなんて、大袈裟だな。だけど、正直驚いた。まさか、君があんなに大胆なひとだったなんて」
「自分でもよくわからないんです。何故あんなことをしてしまったのか……酔っていたのかも知れません」
「誰にでも、理解できない衝動が走るときってあるもんだよ。僕なんて、原稿を書き上げる度に、破り棄ててしまいたい衝動に駆られるんだ。突発的にね」
そう言うと佐山は、実際に破ったこともあるんだ、と笑った。
その屈託のない笑顔に、典子は一瞬見惚れてしまい、そんな自分に気づいて、眼下に広がる夜景へと眼をそらした。
海にせり出すように建つそのホテルの、最上階にあるトップ・ラウンジからは、ベイサイド・エリアが一望できる。
天空の瞬く星たちに、負けないほどの煌めきを魅せる夜景は、ベイサイドを外れると、まるでそこだけが切り取られたように、ふいに闇に変わる。
そこには海が広がっているのだろうが、今はただ漆黒の闇があるだけだった。
その闇に眼を馳せながら、典子は佐山に惹かれている自分を知った。
それがどういうことなのかは、充分にわかっている。
そんなことがあってはならないことも。
けれど、彼に惹かれていく自分をどうすることもできなかった。
漆黒の闇が、心の奥の闇に芽生えていた佐山に対する想いをあらわにしたようだった。
視点を引くと、窓に映る自分の顔がある。
ダウンライトされた照明に、淡く映し出されたその顔は、卑しくも女の色香さえ漂わせている。
妻でもなく母親でもなく、ただひとりの女としての。
そんな自分の顔から背けるように、典子は斜めに眼を伏せた。
「どうかした?」
佐山が心配げに訊いてきた。
「いえ、何でもありません。ただ……」
典子は顔を上げ、佐山を見つめた。
「今日は、このまま帰れなんて、言わないでください」
その言葉に、佐山は典子を見つめ返すと、
「そんなこと、言ってほしくない」
グラスを手にし、ひと息に呷(あお)った。
「僕をがっかりさせないでくれよ。僕は君を、他の女のように、ただ抱くだけの関係にしたくないんだ。君は特別なんだよ」
ランプ・シェードに揺れるその眼は愁いを帯びていた。
「だったら、こうしてお酒を呑んだり、食事をするだけの関係をつづけるって言うんですか?」
「それが何故いけないんだ」
「何故って、私は抱かれることが仕事なんです。それを特別扱いされたら、心が乱されるだけです。それがわからないのなら、作家をお辞めになったほうがいいと思います」
そう言ってしまってから、典子はまずいことを口にしてしまったことに気づいた。
なのに、それだけでは済まず、
「もし、これからも私を特別扱いなさるんでしたら、佐山さんのお相手をすることはできません」
きっぱりと言った。典子は、佐山に抱かれることを望んでいるわけではない。
むしろ佐山に抱かれることによって、心に芽生えた想いを断ち切ろうと思ったのだ。
そうすれば、仕事として割り切ることができる。
あくまで、客と娼婦の関係として。
佐山にしてみても、一度抱いてしまえば、妄想ともいえる典子にいだいていた想いから醒め、ただの虚像に過ぎなかったことを思い知るだろう。
今まで抱いてきた女と、なんら変わりはないということを。
そう思ってくれたほうがいいのだ。
そして、ひとりの娼婦として接してくれれば、心を乱されなくて済む。
「私を抱かないのなら、もう指名もしないでください」
典子は佐山を真っ直ぐに見つめた。
佐山は、視点が定まらないというような眼で、典子を見つめていたが、その視線をふと横へと切り、
「君の言うとおりだ。僕は作家を辞めたほうがいいのかも知れないな……」
そう言うと、口端に薄い笑みを浮かべた。
「僕は女性の気持ちにどこまで近づけるか、という思いで、ずっと女性を書きつづけてきて、それが実際に女性の読者に受けて、女性以上に女性がわかる作家、なんて安いキャッチ・コピーで持て囃されて……。結局その安いキャッチ・コピーに踊らされて、自惚れてたんだな。実際、女性のことを何もわかってなかったんだ。僕の書いてたものなんて、ただの男のエゴと願望に過ぎない。君に逢ってそれがわかった」
そこで佐山は、典子に視線をもどした。
「もう、君を特別に考えたりはしない。だから僕は君を抱く。ただし、それは娼婦としてじゃない。女性を知る意味での題材としてだ。君が律儀にも仕事をまっとうするつもりなら、僕は仕事の糧として君に接する」
それでいいだろ? そう言う佐山に、典子はうなずいた。
そのうなずきとともに佐山は立ち上がり、典子もそれに従った。
カクテルのスプモーニを、唇に濡らす程度にふくむと、典子は言った。
「どうして?」
佐山は訊き返し、バーボンのロックグラスを手にすると、丸く削られた氷を軽く廻した。
「この前は、失礼なことをしてしまったから」
「とつぜんだったな。あれは」
バーボンを口にふくむと、佐山は眼元に笑みを浮かべた。
「何てお詫びしたらいいのか……」
「お詫びだなんて、大袈裟だな。だけど、正直驚いた。まさか、君があんなに大胆なひとだったなんて」
「自分でもよくわからないんです。何故あんなことをしてしまったのか……酔っていたのかも知れません」
「誰にでも、理解できない衝動が走るときってあるもんだよ。僕なんて、原稿を書き上げる度に、破り棄ててしまいたい衝動に駆られるんだ。突発的にね」
そう言うと佐山は、実際に破ったこともあるんだ、と笑った。
その屈託のない笑顔に、典子は一瞬見惚れてしまい、そんな自分に気づいて、眼下に広がる夜景へと眼をそらした。
海にせり出すように建つそのホテルの、最上階にあるトップ・ラウンジからは、ベイサイド・エリアが一望できる。
天空の瞬く星たちに、負けないほどの煌めきを魅せる夜景は、ベイサイドを外れると、まるでそこだけが切り取られたように、ふいに闇に変わる。
そこには海が広がっているのだろうが、今はただ漆黒の闇があるだけだった。
その闇に眼を馳せながら、典子は佐山に惹かれている自分を知った。
それがどういうことなのかは、充分にわかっている。
そんなことがあってはならないことも。
けれど、彼に惹かれていく自分をどうすることもできなかった。
漆黒の闇が、心の奥の闇に芽生えていた佐山に対する想いをあらわにしたようだった。
視点を引くと、窓に映る自分の顔がある。
ダウンライトされた照明に、淡く映し出されたその顔は、卑しくも女の色香さえ漂わせている。
妻でもなく母親でもなく、ただひとりの女としての。
そんな自分の顔から背けるように、典子は斜めに眼を伏せた。
「どうかした?」
佐山が心配げに訊いてきた。
「いえ、何でもありません。ただ……」
典子は顔を上げ、佐山を見つめた。
「今日は、このまま帰れなんて、言わないでください」
その言葉に、佐山は典子を見つめ返すと、
「そんなこと、言ってほしくない」
グラスを手にし、ひと息に呷(あお)った。
「僕をがっかりさせないでくれよ。僕は君を、他の女のように、ただ抱くだけの関係にしたくないんだ。君は特別なんだよ」
ランプ・シェードに揺れるその眼は愁いを帯びていた。
「だったら、こうしてお酒を呑んだり、食事をするだけの関係をつづけるって言うんですか?」
「それが何故いけないんだ」
「何故って、私は抱かれることが仕事なんです。それを特別扱いされたら、心が乱されるだけです。それがわからないのなら、作家をお辞めになったほうがいいと思います」
そう言ってしまってから、典子はまずいことを口にしてしまったことに気づいた。
なのに、それだけでは済まず、
「もし、これからも私を特別扱いなさるんでしたら、佐山さんのお相手をすることはできません」
きっぱりと言った。典子は、佐山に抱かれることを望んでいるわけではない。
むしろ佐山に抱かれることによって、心に芽生えた想いを断ち切ろうと思ったのだ。
そうすれば、仕事として割り切ることができる。
あくまで、客と娼婦の関係として。
佐山にしてみても、一度抱いてしまえば、妄想ともいえる典子にいだいていた想いから醒め、ただの虚像に過ぎなかったことを思い知るだろう。
今まで抱いてきた女と、なんら変わりはないということを。
そう思ってくれたほうがいいのだ。
そして、ひとりの娼婦として接してくれれば、心を乱されなくて済む。
「私を抱かないのなら、もう指名もしないでください」
典子は佐山を真っ直ぐに見つめた。
佐山は、視点が定まらないというような眼で、典子を見つめていたが、その視線をふと横へと切り、
「君の言うとおりだ。僕は作家を辞めたほうがいいのかも知れないな……」
そう言うと、口端に薄い笑みを浮かべた。
「僕は女性の気持ちにどこまで近づけるか、という思いで、ずっと女性を書きつづけてきて、それが実際に女性の読者に受けて、女性以上に女性がわかる作家、なんて安いキャッチ・コピーで持て囃されて……。結局その安いキャッチ・コピーに踊らされて、自惚れてたんだな。実際、女性のことを何もわかってなかったんだ。僕の書いてたものなんて、ただの男のエゴと願望に過ぎない。君に逢ってそれがわかった」
そこで佐山は、典子に視線をもどした。
「もう、君を特別に考えたりはしない。だから僕は君を抱く。ただし、それは娼婦としてじゃない。女性を知る意味での題材としてだ。君が律儀にも仕事をまっとうするつもりなら、僕は仕事の糧として君に接する」
それでいいだろ? そう言う佐山に、典子はうなずいた。
そのうなずきとともに佐山は立ち上がり、典子もそれに従った。
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