平凡という名の幸福

星 陽月

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【第19話】

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「寝言を言ってたよ」

 道久は典子の横に坐った。

「どんな?」

 訊き返しながら典子は立ち上がると、キッチンに向かった。

「うん、でも、よく聞き取れなかった」

 道久は煙草を銜え、TVのチャンネルを換えた。
 典子はお茶を淹れた湯呑みを持って、リビングにもどってきた。
 しばらくお茶を飲みながら、ふたりはTVに眼を向けていたが、

「尚行、今日泣いたんだよ」

 唐突に道久が言った。

「さっき言ってたこと? 絶叫マシーン泣きそうになったって」
「いや、違うんだ。アイツ、ほんとに泣いたんだ。ベンチに坐ってるときに」

 横顔のまま話す、道久を典子は見つめた。

「ママはボクのこと嫌いになったんじゃないか、って言い出して」

 典子は言葉を失い、見つめる眼が揺れた。

「典子の帰りが遅くなったのも、日曜日なのに仕事に行ったのも、ボクがママを困らせて、言うことを聞かないからだって、尚行はそう思ってたらしいんだ」

 そう言って道久は顔を向けたが、それとは逆に、典子は視線をそらすように伏せた。
 いたたまらなさに眼を瞑る。

 いったい私は何をしているの!

 胸の内でそう叫んだ。
 尚行がそんなふうに考えていたとも知らず、典子は自分だけが苦しみに耐えていると思っていた。
 家族のため、生活のためと思いながら、その実、息子の気持ちまでは考えようともしなかった。
 自分だけが勝手に、理解していてくれていると思いこみ、息子の心の中を気づこうともしなかったのだ。

(私は母親として失格だわ……)

 不甲斐ない自分が情けない。
 尚行は苦しんでいたのだ。
 母親に嫌われているのではないかと思いつづけながら。
 それに気づいてやれなかった自分が許せない。
 典子は深い罪悪感に囚われた。
 肩を落とし、項垂れている典子を見て、

「そんなに、深く考えることもないよ」

 道久は優しく言った。

「まァ、子供っていうのはデリケートだし、それに男の子は父親よりも母親に求める愛情が強いから、ちょっとした母親の変化を敏感に感じ取るんだよ。俺も小さい頃、母親が買い物に出て、いつもより帰りが遅いと、このまま帰ってこないんじゃないか、って思ったことがある。そのときは神様に祈ったよ。これからはいい子にしますから、お母さんが早く帰ってきますように、って。子供はさ、母親に何かあると、自分が悪いんだって思っちゃうもんなんだよ」

 自分の子供の頃の話を持ち出し、妻の気持ちを和らげようとしてくれる道久に、典子は胸が熱くなった。
だが、その優しさが却って典子を辛くさせた。

(私は、妻としても……)

 その思いが胸を突き刺す。
 そんな典子の、ほんとうの理由を知らない道久は、

「だからさ、大丈夫だよ、尚行のことは。俺がちゃんとフォローしておくから」

 尚も気づかうように言ってきた。
 その道久の優しさに、典子は顔を上げた。
 泣くまいと思いながら、涙は意志に逆らって溢れてくる。

「何だよ、そんな泣くほどのことじゃないじゃないか。お前は家族のために頑張ってるんだから。尚行だって、ほんとうはわかってるんだよ。ただ、ちょっと甘えたくなってるだけさ」

 道久は笑って典子の髪をなでた。
 それが尚更典子の涙をそそった。

 ごめんねパパ、ごめんね……。
 どんなに謝っても、謝りきれないけど、でも、私には謝るしかないの……。
 だからごめんなさい……。
 私は、優しくしてもらう資格なんてないのに、それなのに……。

 それは口にはできない想いだった。
 だから典子は、胸の内で声にした。
 涙はあとからあとから溢れ出て、唇が震えた。
 そんな典子を、道久が胸の中に抱きよせた。

「もういいから泣くな。大丈夫だから」

 抱きよせられ、それで気持ちの糸が切れたのか、典子は声をあげて泣いた。
 その典子の背を、泣いてるあいだずっと道久は擦りつづけた。
 しばらく泣くと、典子は道久の胸から顔を離し、

「ごめんね」

 眼を赤く腫らした顔で笑った。

「とつぜん泣き出すんだもんなァ。ちょっとビビった」
 
 道久は冗談めかしに言った。

「だけど、お前も色々たまってるんだよな。ごめんな、苦労かけちゃって」

 その言葉に、典子はまた胸が熱くなる。
 涙が滲んでくる。

「ダメダメ、もう泣くなよ。これ以上、パジャマをびしょ濡れにはされたくないからな」

 そう言って道久は立ち上がり、

「少し、呑むか」

 とキッチンに向かった。
 それから十一時頃まで呑んで、ふたりは二階に上がった。
 お互いベッドに入ると、おやすみと言葉をかけ合い、その声の余韻が消えるとともに、静寂が包みこんだ。
 典子は眼を閉じて、一度は眠りに就こうとしたが、

「パパ」

 静寂を破った。

 私、仕事辞めるわ――

 胸にいだいたその思いを、だが、典子は口にはできず、

「これからは、なるべく早く帰るようにする」

 そう言っていた。
 それに道久は、わずかに沈黙をおき、

「あァ……」

 ポツリとそう返すと、それ以上は何も言わなかった。
 典子もそれきり口を閉じ、すぐにまた静寂がもどった。
 ほんとうなら、息子のことを想うならば、すぐにでも今の仕事を辞めるべきなのだ。
 たとえ借金を返すためとはいえ、息子を犠牲にしてまでつづけていくべきではない。
 それなのに、息子の話を聞き、心が揺らいだにもかかわらず、まるで固執するかのように、仕事をつづけていこうとしているのは何故なのだろうか。
 そんな自分がわからない。
 確かに、借金はまだ多額な金額が残っている。
 実際、今の仕事を辞め、パートなどで収入を得たとしても、その収入はすべて借金の返済に消え、生活が楽になることはない。
 それは明らかだ。
 けれど、果たしてそれだけが理由なのか。
 ふと、そんな疑問が胸に湧いてくる。
 とはいえ、他にどんな理由があるというのか。
 そのとき、脳裡によぎるものがあった。

(まさか……)

 典子はすぐにその思いを払拭した。
 そんなこと、あるわけがない。
 それはあまりにも馬鹿げたことだ。

(ありえない……)

 典子は失笑した。
 だが、ほんの一瞬であっても、佐山慎一郎のことが脳裡によぎったのは紛れもない事実であり、そしてそのことに、動揺を覚えたのも確かな事実だった。
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