里子の恋愛

星 陽月

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【第56話】

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 言いようのない怒りが、里子の中で沸騰していた。
 なぜ教えてくれないのか。
 答えはもう決まっているのに。
 そう、どう考えてみても、その答えは女以外にはないのだから。
 それをあえて本人から聞けなんて、あまりにもひどい仕打ちだ。

 もういいわ……。

 孝紀の口から聞くまでもない。

 これでほんとうに終わり……。
 もう何を言われようと、泣いてすがってこようと心を動かしたりしない……。
 そして後悔すればいいんだ……。
 私を失ったことを……。
 私は忘れてやる……。
 出逢ったことも……。
 手の温もりも……。
 やさしい言葉も……。
 孝紀の存在すべてを、忘れてやる……。

 怒りのまま胸の中で悪態をつき、けれど、それが却って哀しさを募らせた。
 胸が締めつけられる。

 泣いたりなんかするもんか……

 唇を固く結び、里子はタクシーを拾った。

「六本木に行ってください」

 自然にそう口をついていた。
 なぜ、六本木に行く気になったのか自分でもわからなかった。
 ただ、何もかも忘れたかったのだ。
 男でもなく、決して女でもないあのふたりになら、すべてをぶちまけられそうだった。
 きっと、けなされ、罵られるだろうがそれでよかった。
 ぼろぼろになりたかった。

「あら、里子ちゃん。今日はひとり?」

 店のドアを開けると、モモコが出迎えてくれた。
 相変わらずピンクのパンツを穿き、左肩から胸にかけて金色の刺繍が入ったやたらと襟の大きいシャツを着ていた。
 厚い化粧に長いつけ睫毛は健在だ。
 客はいなかった。
 今日も口開けに来てしまったらしい。

「憶えててくれたんだ」

 里子は名前を憶えていてくれたことがうれしかった。

「あたり前よ。一度来たお客さんは忘れないの」

 モモコは里子におしぼりを渡した。

「私、女なのに」
「あら、オカマはみんなオンナが嫌いだって思ってない? それって偏見よ。私はオンナだって好きよ。里子ちゃんみたいなキレイなコなら尚更。美しければオトコもオンナも関係ないの」
「じゃあ、モモちゃんは女も愛せる人なんだ」
「やめてよ。私が愛せるのはオトコだけ。私が言ってるのは、美しいものが好きだってこと」

 その時ドアが開き、買い物袋を下げたトシが入ってきた。

「いらっしゃい。今日も口開けなのね。アンタまた騒ぎたいの?」

 そう言いながらトシは、カウンターの奥の小さな厨房に入っていった。

「ママは女が嫌いみたい」

 里子がそう言うと、

「美しいオンナを見ると、ママは嫉妬するのよ」

 モモコは里子に顔を近づけ小声で言い、そして、「何にする?」と訊いた。
 里子はボトルを入れてもらおうかと思ったが、

「私、ビールが呑みたい」

 とモモコが言い出したので、ビールにした。
 さっそくモモコはビールとビアグラスを出し、ふたりは乾杯した。
 トシは厨房で何やら作り出したらしく、包丁の音がし始めた。

「何かあったんでしょ?」

 モモコは一杯目を煽ると、ビールを注ぎ足しながら訊いた。

「ちょっとね」
「ちょっと、って顔じゃないわよ」
「そんなにひどい?」
「この世の終わりって感じ」
「そう……」

 里子は肩を落としグラスを口にした。

「理由は訊かないわよ。メソメソされるの嫌いだから。でもさ、落ちこんだときは、とことん呑んだほうがいいわ。中途半端はダメよ、グズグズするだけだから。徹底的に呑んで自分をぼろぼろにしてなんども吐くのよ。身体の中にあるもの全部ね。そうやって惨めな自分と向き合えば、強くなれるわ」
「そうね、呑んで何もかも忘れてやる」

 里子はビールを一気に呑み干した。

「その意気よ。今日は私がつき合ってあげるわ」

 モモコは里子のグラスにビールを注ぎ、ふたりはもう一度乾杯した。
 しばらくすると、手に器を持ってトシが厨房から出てきた。

「私の特製うどんよ、食べて」

 里子の前にその器を置くと「モモコも食べなさい」そう言い、モモコは、「ママの作ったうどん美味しいのよ」と厨房に入っていった。
 揺らぐ湯気とともに鼻腔を刺激する香りに、里子は空腹を覚えた。
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