里子の恋愛

星 陽月

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【第62話】

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 今起きた現実から、逃れたかった。
 その思いにバッグからスマート・フォンを取り出すと、里子の指は着信履歴を検索した。
 着信履歴にはメモリーしていない番号がある。
 それは遠藤が掛けてきた番号だった。
 里子は躊躇することなくその番号へと掛けていた。
 どうして遠藤に掛ける気になったのか。
 今はそんなことを考える余裕などなかった。
 そこには何の戸惑いもなく、自然に指が動いていた。
 それは衝動だった。
 玲子のことも、頭に浮かばなかったわけではない。
 自分に起きた衝動は、玲子を裏切ることなのだということも分かっていた。
 分かっていながら、そんな自分を制めることができなかった。
 混乱の渦は、里子の理性を破壊し、暴走を止めるブレーキをも破壊した。

「オタクから掛かってくるなんて嬉しいね」

 電話が継ながるなり、遠藤が言った。
 その声を聴いたとたん、里子の眼にまた涙が溢れた。

「もしもし――どうかした?」

 何も言わず、明らかにいつもと様子の違う里子に、遠藤は窺うように訊いた。
 その声が里子の耳にやさしく響く。
 里子は震える唇を噛み、何か話そうとしても言葉にならず、堪えていた嗚咽が洩れた。

「泣いてるの?」

 それにも答えられず、里子は声を押し殺して泣くのが精一杯だった。

「何だよ、どうしたんだよ」

 里子が泣いていることを知った遠藤は、沈黙の中でかすかなノイズだけを伝えてくるスマート・フォンに神経を集中させた。

「逢いたい……」

 その声はノイズにさえかき消されるかのようにか細く、だが確かに遠藤はその言葉を耳で拾った。
 だが、とつぜんのその言葉に返す言葉を失った。

「お願い、独りでいたくないの。このままだと私、おかしくなる」

 里子は懇願した。

「わかった。今からそこに行くよ。どこにいるの」

 狼狽しながらも遠藤は何とかそう言った。

「ううん、私がアナタの部屋に行く」

 自分がいったい何を言ってるのか、里子はそれさえも理解できなかった。
 心の暴走は止まることなく遠藤へと向かっていた。

 里子は遠藤の胸でしばらく泣いたあと、彼の胸から身体を離した。

「ごめんなさい、私……」
「そんなこといいよ。とにかく上がって。玄関じゃ話もできないしさ」

 遠藤が部屋のドアを開けるなり、里子は胸に跳びこんだのだった。

「珈琲、淹れるから坐って」

 遠藤に言われるまま、里子はリビングのソファに坐った。
 しばらくすると、遠藤が珈琲を淹れたマグカップをふたつ持ってきた。

「豆が切れててさ、インスタントしかないんだ。ブラックだけど、シュガーとミルクは?」
「ううん、平気。ありがと」

 カップを受け取り、里子は口に運んだ。
 泣いたせいか酔いは醒めていたが、珈琲の苦味が気持ちまですっきりさせてくれた。
 すると、自分が見せた醜態が急に恥ずかしくなり、そして、衝動のままに遠藤のもとへやってきた己の愚かさに呆れた。
 けれど、どんなに平静を取りもどしたとはいえ、自分が眼にした光景と、倉田が口にしたその真実が消えるわけもない。
 それは平静になった分、却って太い荒縄となり胸を締めつけてくる。
 呼吸をするのもままならないほどに。
 里子は思わず眉根を寄せ俯いた。

「彼氏と喧嘩でもした?」

 重くなっている里子に、遠藤は軽く訊いた。
 こんな時はさらっとしていたほうがいい、そう思ったからだ。
 里子はしばらくのあいだ俯いたままでいたが、

「喧嘩ですむ問題じゃないわ」

 ポツリと答えた。

「ってことは、女? そうだよな。そんなにヘコんでるってことは、それしかねェもんな」

 里子は首をふり、

「女だったら、まだよかったのよ」

 力なく宙の一点を見つめ、そしてもう一度首をふった。
 執拗なほど脳裡に絡んでくる、倉田から突きつけられた現実を払拭するように。

「何か複雑みたいだな。無理に話せとは言わないけどさ、胸にあるもん吐き出せば、少しは楽になるんじゃない?」

 遠藤は里子に身体を向けた。
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