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【第63話】
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「オレ、気の利いたことは言えないと思うけど、聞いてやることはできるよ」
遠藤がやさしくそう言った。
その言葉に里子の心は揺れた。
一度は衝撃としか言いようのない現実から救われたくて、それこそ投げやりな思いで自分の身体をも遠藤に投げ出そうとした。
だがそれも、彼の胸の中で流した涙とともに、身体の奥の闇へと押し流したはずだった。
それが、遠藤の優しい言葉と、項垂れる肩にそっと置かれたその手によって闇の淵に追いやられた激情が蠢きながらその頭をもたげ始めた。
肩に置かれた遠藤の手に、里子の手が伸びる。
その手を遠藤が握り締める。
里子は顔を上げ、遠藤を見つめた。
視線が絡み合う。
ふたりは沈黙の中で見つめ合い、里子はゆっくりと眼を閉じた。
激しく脈打つ鼓動が身体を叩き、湧き上がる激情の渦に身を任せ、暴挙と化していく自分を意識しながら里子は待った。
遠藤を受け入れようとすることにわずかな逡巡さえもなかった。
遠藤の動く気配を肌で感じ、その刹那、遠藤の唇が触れた。
その感触を確かなものとして受け止め、里子はそれに応えようとし、だが、遠藤の唇はすぐに離れた。
眼を開けると、遠藤は何事もなかったようにテーブルへと身体を向けている。
里子が不思議そうに見つめると、
「今のオタクは、抱きたくない」
遠藤は横顔のままそう言い、カップを手に取った。
「オタクは今、投げやりになってる。自分の受けた疵を、オレに抱かれることで癒そうとしてるんだ。そんなオタクを抱いても、オレ嬉しくないよ」
その言葉に里子は俯く。
遠藤は傷つけてしまったと思たのか、
「って言うか、ほんとはさ、抱きたい気持ちはいっぱいあるんだけど、ちょっとカッコつけてみようか、なんて思ったりしてさ」
そんなことを冗談ぽく言ってはみたが、彼女の肩がかすかに震えているのを見て、言葉を失くした。
どうしていいかわからずにいると、
「バカよ」
そう言って里子は顔を上げた。
「こんないい女を抱けるチャンスだったのに、カッコつけるなんてほんとにバカよ」
顔は笑っていたが、その眼には涙が滲み、その涙を指先で拭った。
「バカって何だよ。こういう時はやさしいのね、とか言うんじゃねェの、普通はさ」
「どこがやさしいのよ。こんな私は抱けないんでしょ?」
皮肉っぽく里子は返した。
「いや、だから、それはさ……」
遠藤は言葉に詰まる。
困惑する遠藤が可笑しくて、里子はクスクスと笑った。
「何だよ、笑うなよ」
そう言いながら、いつもの里子らしさがもどったことで、遠藤は内心ホッとしていた。
「でもよかったよ。このまま泣きつづけられたんじゃ、たまんないからな」
「相変わらず憎まれ口を叩くのが上手いのね。そんなアナタでも、女の涙には弱いんだ」
「憎まれ口は、お互いさまだよ」
遠藤は笑い、里子も一緒に笑った。
そこで会話が止まり、ふたりは揃ってカップを口にした。
その沈黙を嫌ってか、遠藤が立ち上がり、リビング・ボードのオーディオ・コンポのスウィッチを入れてCDをかけた。
静寂の中に、デクスター・ゴドーンの「Don`t Explain」が流れ出した。
「あ、私この曲好き」
里子は思わず言った。
それは、吉田がライブで演奏した曲でもあり、里子の気にいっているナンバーでもあった。
それを遠藤も聴いているということに、少し驚きを覚えた。
「アナタもジャズ聴くんだ」
「あァ。このサックスの響きが最高に好きでさ。心をやさしく解してくれるって感じがいいんだ」
「私も好き」
「あ、そうなんだ。これで、ひとつ共通点ができたね」
遠藤はうれしそうに言い、「もう一杯飲む?」と訊いた。里子は遠慮し、遠藤は自分のカップを手にキッチンへ入っていった。
里子はふとオーディオ・コンポの隣にある置時計に眼をやった。
時刻は、深夜の二時を廻っている。
帰らなくちゃ、里子はそう思い、遠藤がもどってくるのを待って、
「私、そろそろ帰る」
と立ち上がった。
「そう……。じゃあ、タクシー拾えるとこまで送ってくよ」
「いいわよ、大通りに出れば拾えるんだから」
「そ、わかった。じゃ、気をつけて」
「うん。今日はごめんなさい。ありがとう」
「また、いつでも愚痴、聞くからさ」
「その時はよろしく」
玄関まで里子を送った遠藤は、何か言おうとして口を開きかけたが、結局は笑顔を浮かべただけで口を閉じた。
マンションを出ると、冬を思わせるような夜気が肌に冷たかった。
遠藤がやさしくそう言った。
その言葉に里子の心は揺れた。
一度は衝撃としか言いようのない現実から救われたくて、それこそ投げやりな思いで自分の身体をも遠藤に投げ出そうとした。
だがそれも、彼の胸の中で流した涙とともに、身体の奥の闇へと押し流したはずだった。
それが、遠藤の優しい言葉と、項垂れる肩にそっと置かれたその手によって闇の淵に追いやられた激情が蠢きながらその頭をもたげ始めた。
肩に置かれた遠藤の手に、里子の手が伸びる。
その手を遠藤が握り締める。
里子は顔を上げ、遠藤を見つめた。
視線が絡み合う。
ふたりは沈黙の中で見つめ合い、里子はゆっくりと眼を閉じた。
激しく脈打つ鼓動が身体を叩き、湧き上がる激情の渦に身を任せ、暴挙と化していく自分を意識しながら里子は待った。
遠藤を受け入れようとすることにわずかな逡巡さえもなかった。
遠藤の動く気配を肌で感じ、その刹那、遠藤の唇が触れた。
その感触を確かなものとして受け止め、里子はそれに応えようとし、だが、遠藤の唇はすぐに離れた。
眼を開けると、遠藤は何事もなかったようにテーブルへと身体を向けている。
里子が不思議そうに見つめると、
「今のオタクは、抱きたくない」
遠藤は横顔のままそう言い、カップを手に取った。
「オタクは今、投げやりになってる。自分の受けた疵を、オレに抱かれることで癒そうとしてるんだ。そんなオタクを抱いても、オレ嬉しくないよ」
その言葉に里子は俯く。
遠藤は傷つけてしまったと思たのか、
「って言うか、ほんとはさ、抱きたい気持ちはいっぱいあるんだけど、ちょっとカッコつけてみようか、なんて思ったりしてさ」
そんなことを冗談ぽく言ってはみたが、彼女の肩がかすかに震えているのを見て、言葉を失くした。
どうしていいかわからずにいると、
「バカよ」
そう言って里子は顔を上げた。
「こんないい女を抱けるチャンスだったのに、カッコつけるなんてほんとにバカよ」
顔は笑っていたが、その眼には涙が滲み、その涙を指先で拭った。
「バカって何だよ。こういう時はやさしいのね、とか言うんじゃねェの、普通はさ」
「どこがやさしいのよ。こんな私は抱けないんでしょ?」
皮肉っぽく里子は返した。
「いや、だから、それはさ……」
遠藤は言葉に詰まる。
困惑する遠藤が可笑しくて、里子はクスクスと笑った。
「何だよ、笑うなよ」
そう言いながら、いつもの里子らしさがもどったことで、遠藤は内心ホッとしていた。
「でもよかったよ。このまま泣きつづけられたんじゃ、たまんないからな」
「相変わらず憎まれ口を叩くのが上手いのね。そんなアナタでも、女の涙には弱いんだ」
「憎まれ口は、お互いさまだよ」
遠藤は笑い、里子も一緒に笑った。
そこで会話が止まり、ふたりは揃ってカップを口にした。
その沈黙を嫌ってか、遠藤が立ち上がり、リビング・ボードのオーディオ・コンポのスウィッチを入れてCDをかけた。
静寂の中に、デクスター・ゴドーンの「Don`t Explain」が流れ出した。
「あ、私この曲好き」
里子は思わず言った。
それは、吉田がライブで演奏した曲でもあり、里子の気にいっているナンバーでもあった。
それを遠藤も聴いているということに、少し驚きを覚えた。
「アナタもジャズ聴くんだ」
「あァ。このサックスの響きが最高に好きでさ。心をやさしく解してくれるって感じがいいんだ」
「私も好き」
「あ、そうなんだ。これで、ひとつ共通点ができたね」
遠藤はうれしそうに言い、「もう一杯飲む?」と訊いた。里子は遠慮し、遠藤は自分のカップを手にキッチンへ入っていった。
里子はふとオーディオ・コンポの隣にある置時計に眼をやった。
時刻は、深夜の二時を廻っている。
帰らなくちゃ、里子はそう思い、遠藤がもどってくるのを待って、
「私、そろそろ帰る」
と立ち上がった。
「そう……。じゃあ、タクシー拾えるとこまで送ってくよ」
「いいわよ、大通りに出れば拾えるんだから」
「そ、わかった。じゃ、気をつけて」
「うん。今日はごめんなさい。ありがとう」
「また、いつでも愚痴、聞くからさ」
「その時はよろしく」
玄関まで里子を送った遠藤は、何か言おうとして口を開きかけたが、結局は笑顔を浮かべただけで口を閉じた。
マンションを出ると、冬を思わせるような夜気が肌に冷たかった。
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