甦る妻

星 陽月

文字の大きさ
7 / 55

【チャプター 7】

しおりを挟む
 中沢は絆創膏を貼った手の甲をなでた。

(僕はなんてことを。愛する妻を殺してしまうなんて……)

 どうすることもできない後悔が襲いかかる。
 逃れることのできない罪への恐怖が、蔦のように胸に絡みついてくる。
 脳裡に浮かぶのは、苦しさにもがく妻の顔よりも、息絶えて光りを失った眼で見つめてくるその死顔だった。

(すまない、礼子……)

 震える手を組んで、中沢は懺悔をするように詫びた。
 どんなに詫びようとも、自分の犯した罪を償うことなどできはしないが、そうでもしないと、その罪の意識に正気を失ってしまいそうだった。
 それでも、恐怖を拭い去ることができず、心は着実に蝕まれていった。
 どんなに抵抗しようと、その侵食を止めることができない。
 中沢の顔は悲痛にゆがみ、呻(うめ)きのような声が唇から洩れていた。
 そのときだった。
 とつぜん、その唇の両端がつり上がった。
 悲痛にゆがんでいた顔が、別のものに変わっていく。
 笑っていた。
 それは、精神を病んだ者のように、狂気に満ちた笑みだった。

(礼子。君は朽ちていくんだよ)

 中沢は想像していたのだ。
 地中深くに埋められた妻の肉体が、おぞましく蠢く幾匹もの蛆に喰われ、ゆっくりと腐乱しながら腐敗していくさまを。

(そうさ、礼子。君のその瞳は、唇は、美しい肢体は、蝕まれ、喰われて、腐臭を放ちながら朽ちていくんだ……)

 笑っている眼が異様な光りを放つ。
 我を忘れているのか、その眼は焦点が定まっていなかった。
 そんな状態のまま、何かに引きつけられるように中沢は窓の外へと眼を向けた。
 ぶれていた焦点が一点へ絞られていく。
 視線のその先には、ひとりの女性の姿があった。
 通りの向こう側に、水色のワンピースを着た女性がオフィスビルを背にして立っている。
 だれかを待っているのだろうか、その女性はわずかに眼を伏せていた。
 その顔は覗うことができない。
 中沢は我に返ってその女性を見つめた。
 見つめずにはいられなかった。
 女性の着ているワンピースに見覚えがあったからだ。
 妻と結婚する前、初めてのデートのときに彼女が着ていたものにそれは似ていた。
 デザインまでは憶えていないが、その色合いはおなじだった。
 あの日、中沢が待ち合わせの場所に立っていると、彼女は笑顔をうかべて小走りになって駆け寄ってきた。
 水色のそのワンピースがよく似合っていた。
 そのときの彼女の美しさを、いまでも忘れはしない。
 そしてこれからも忘れはしないだろう。

(礼子……)

 胸の中で妻の名を呼んだ。
 すると、その声が届いたかのように女性が顔を上げた。
 中沢は驚愕に眼を見開いた。
 見間違いではない。
 その女性はまぎれもなく、妻の礼子だった。

「礼子――」

 思わず声になっていた。
 と、またもその声が聴こえたかのように、妻の視線が中沢を捉えた。
 視線と視線が絡み合う。
 妻の眼が妖しく光り、赤い唇の端に笑みが浮かんだ。
 たまらず中沢は顔をそむけ、テーブルに視線を落とした。

「馬鹿な――」

 強く眼を瞑った。
 鼓動が激しく胸を打つ。

(ありえない。礼子は確かに……)

 そう、確かに妻は死んだ。
 この手で首を絞め、殺したのだから。
 そして死体となった妻を、山林の奥深くへと運んでいき、1メートルほど掘った穴の中に埋めた。
 もどした土はしっかりと踏みならして、枯れ枝や枯葉で隠した。
 だから、妻が眼の前にいるはずがなかった。
 中沢はもう一度、恐る恐る女性へと眼を向け、だが、視線をやったその先にワンピースの女性の姿はなかった。
 身を乗り出すようにして周辺に眼を配ってみても、その女性の姿を見つけることはできなかった。

(どういうことだ……)

 中沢はうろたえた。
 いまの女性は妻に違いなかった。
 視線を合わせた妻の顔を、見間違うわけがない。

(まさか、生きていたというのか……)

 だがすぐに、中沢は胸の中で首をふった。
 妻は死んだのだ。
 生きているわけがない。
 中沢は湧き上がる怒りと憎悪に我を忘れ、狂気に駆られた手で妻の首を絞めたのだから。

 ならば、いま眼にした女性はいったい――

 見間違いでないとするなら、この昼日中に亡霊を見たとでもいうのか。
 いや、違う。
 きっと、妻を殺したという罪の意識が、ストレスとなって幻を見せたのだろう。
 中沢は指先で瞼を揉んだ。

「幻だ……」

 自分に言い聞かせるようにそう呟くと、窓の外へ眼を馳せた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

側妃契約は満了しました。

夢草 蝶
恋愛
 婚約者である王太子から、別の女性を正妃にするから、側妃となって自分達の仕事をしろ。  そのような申し出を受け入れてから、五年の時が経ちました。

処理中です...