甦る妻

星 陽月

文字の大きさ
上 下
15 / 55

【チャプター 15】

しおりを挟む
「礼子……」

 中沢は愕然と、その妻の死顔を見つめた。
 血の気のない顔は蒼白く、艶を失っている。
 なぜか唇だけが赤く潤いを保って息づいて見える。
 いまにもその唇が動いて、何かを呟くのではないかとさえ思える。
 中沢は恐ろしくなってシーツで妻の顔を被おうとした。
 そのときだった。
 閉じていた瞼が、かっと開き、見開かれた眼がぎょろりと中沢に向けられた。

「どうしたのよ、あなた」

 唇が動く。

「うわあああああッ!」

 一瞬のその戦慄に、中沢は尻餅をついて後ずさった。

「どうしたのよ、あなた」

 死体の妻が尚も言う。

「やめろ、やめてくれッ!」

 中沢は頭を抱え、眼をきつく瞑った。

「どうしたのよ、あなた」

 その声は、耳にはっきりと聴こえてくる。
 中沢は耳を塞いだ。

「許してくれ、礼子。僕が悪かった」

 恐怖の慄(おのの)きにそう呟いたとき、だれかに肩を揺すられた。

「うわあああああッ!」

 全身が総毛立つほどの怯え、中沢はまたも声を上げた。

「どうしたのよ、あなた」

 妻の声はまだつづく。
 だがその声は死体からではなく耳元のすぐ近くで聴こえた。

「あなた!」

 また肩を強く揺すられ、中沢はハッとしてその声に顔を向けた。
 そこには、屈みこんで心配そうに見つめる妻の顔があった。

「礼子……」

 わけがわからず妻の名を呟くと、すぐに死体へと眼を向けた。

 だが、あったはずの死体がそこにはなかった。

「いまここに、君の、し、死体が……」

 気が動転している中沢は、思わずそう口にしていた。

「え? 私の死体?」

 妻は訝るように夫を見つめる。

「あ、いや、そうじゃない。違うんだ。僕は、その……」

 言い繕うこともできずに、中沢は両手で顔を拭った。

「あなた、ほんとうにどうしたのよ。私、心配よ。疲れてるだけだとしても、明日、病院へ行きましょう」
「いや、僕は大丈夫だから。病院だなんて、そんな大げさにすることはないよ」

 中沢は目許に薄い笑みを浮かべて、そう答え返した。

「大丈夫じゃないわ。いまだって、私に許してくれだとか、僕が悪かったとか言っていたのよ。大丈夫だって言うんだったら、それがどういうことか説明して」

 妻は引き下がろうとしない。

「わかった、わかったよ。そんなに心配なら、行くよ。明日、病院に」

 仕方なくそう答えるしかなかった。

「そう、よかった。だったら、私も一緒に行く」

 安心したのか、妻は立ち上がってソファに坐り直した。

「いいよ、そんな。子供じゃないんだから、ひとりで行くよ」
「あら、私と一緒じゃ恥ずかしい?」

 妻は悪戯っぽい表情を浮かべる。

「そんなことはないよ」

 苦笑しつつ、中沢は自分の中にあった恐怖と混乱が治まっていることに気づいた。
 それどころか、妻とのちょっとした会話で、心が癒されていることにも気づく。
 こんな日々があったと、中沢はそんなことを思った。
しおりを挟む

処理中です...