甦る妻

星 陽月

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【チャプター 41】

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(これでほんとうによかったのか……)

 中沢の思いは、またそこにもどる。
 これでは堂々巡りだ。
 脳裡に聴こえてきたあの声は、何かが変わると言っていた。
 これまでとは違う何かに。
 だが、これといって何かが変わったという変化は起こらない。
 いったい何が変わるというのだろうか。
 いや、じつはすでに変わっていて、それに気づかないだけなのかもしれない。
 しかし、何かが変わったというだけではだめだ。
 このメビウスの環から抜け出さなければなんの意味もない。
 醒めることのないこの夢から目醒めることができなければ。
 と、そのときだった。
 
  ごとり、

 背後で物音がした。
 
  ごとごと、

 中沢は一瞬に身体が硬直した。
 ふり返ることができずに、意識だけで背後の気配をさぐった。

  ごとり、
  ごと、
  ごと、

(そんな、まさかほんとうに……)

 その音はまぎれもなく冷蔵庫の中でしていた。

 寒い、寒い、ここから出せえよォ――

 しわがれた声が聴こえてくる。
 扉が閉まっているために、その声はくぐもっている。

  ごとん、
  ごとん、
  ごとごと、
  ごとん、

 音が烈しくなる。
 そしてまた、

  出せえ、出せよう、寒い、寒い――

 その声が聴こえてくる。
 ビニール袋の中でバラバラになっているはずの妻が暴れている。

(バラバラに切断してもだめなのか!)

 もう成すすべはない。
 結局、何も変わりはしなかった。
 妻は肉塊となってまでも生き返ったのだ。

 どさり、

 床に重みのあるものが落ちる音。
 かさかさ、とビニール袋が蠢く音がする。
 それでも中沢は、うしろをふり返ることができなかった。
 戦慄が背中に貼りつく。

「おのれェ。わたしの身体をこんなにしやがってえ」

 怨めしげなその声は、首を切り落とされているからか、風が抜けるような音が混じっている。

「どうしてくれようか、どうしてくれようかァ」

 一瞬の静寂。
 と、
 
  かり、
  かりかり、
  かりかりかり、

 床を鋭利なもので掻くような音が聴こえてきた。

  かりかり、
  かりかりかり、
  かりかり、
 
 その音が近づいてくる。
 怖気がぞわりと背すじを這い上がる。
 中沢はたまらなくなってうしろをふり返った。

「うわあああああッ!」

 驚愕に思わず立ち上がり、後ずりしようとテーブルに足をとられて床へと倒れこんだ。

  かりかり、
  かりかり、
  かりかりかり、

 音がソファを回りこんでくる。
 姿を現したそれは、妻の生首だった。
 両の手首の上に生首が載っている。
 と言っても、手首の上に生首がただ載っているというわけではない。
 生首と手首の切断面が接着しているのだ。
 いや、その部分をよく見てみれば、初めからつながっていたかのように切断面が消えていた。
 それは、首の下に手首が生えているといってよかった。
 そして指が脚の役割を果たしており、鋭く伸びた爪を立て、まるで蜘蛛のように床を掻きながら迫ってくる。
 己の血で赤く染まった眼を見開く。
 その眼には黒目がなかった。
 白眼の中に瞳孔だけがある。
 両端が大きく避けた口からは獣の牙らしきものが覗いている。
 異形と化したその貌は妖鬼といえた。
 妻の面影はどこにもない。

「来るな、来るな、来るなッ!」

 見るにおぞましいその姿に、中沢は尻餅をついたまま後ずさっていった。

「憎いィ。こんな姿にしたおまえが憎いィ。身体をよこせェ。よこさぬなら、その首を喰いちぎってくれるう」

  かりかり、
  かりかり、
  かりかりかり、

 妖鬼は蛇のごとき避けた口を開いて迫ってくる。

「やめろ。来るな、来るな!」

 中沢は壁に背があたり、逃げ場を失って両腕で頭を被った。

  かりかりかり……

 床を掻く音が途切れた。
 そう思ったとたん、片足を摑まれた。

「うわあ!」

 足をふって払おうとするが、妖鬼の手は放れない。
 それどころかその手の圧力が増していき、足に爪先が喰いこむ。

「放れろ! この化け物!」

 中沢はたまらずもう片方の足で妖鬼の貌を蹴った。

「ごえッ!」

 妖鬼の鼻がへしゃげる。それでも手を放さない。

「放れろ、放れろ、放れろー!」
 なんども中沢は強く蹴りつける。
 と、蹴りつけていた足にとつぜん激痛が走った。

「ぐわッ!」

 中沢の足先が妖鬼の口の中に入りこんでいる。
 蹴ってくる足に妖鬼が咬みついたのだった。
 牙が足の皮膚を貫き、血が滲み出している。
 引き抜くにも引き抜けない。
 中沢は周囲に眼をやり、妖鬼を殴りつけるものはないか探した。
 だが、手が届くところには何もない。
 そうしながらも、妖鬼の牙はさらに足の肉へと喰いこんでいく。
 その激痛に耐えながら、中沢はキッチンへと眼を向けた。
 キッチンに行けば、殴るつけるものが何かしらあるはずだ。
 いや、それよりも包丁がある。
 それを手にすることができれば、形勢は逆転する。
 その思いに、中沢は肘を使ってキッチンへと這うように進んでいった。
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