甦る妻

星 陽月

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【チャプター 47】

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「あなたを捕らえているもの、それはわたしではありません。わたしが、『得体の知れない何者か』と申したのは、あなたの心にその形容された言葉を見つけたからです。あなたを捕らえている要となるものは、ある者の業(ごう)なのです。その業にあなたは翻弄(ほんろう)されつづけている。そしてあなたは大切ことに気づいていない。いや、失ってしまったと言ったほうがいいのかもしれない」

 そう言った老紳士の顔は、どんな表情も浮かんでいなかった。

「ある者の業? それはだれのことなんですか」

 中沢はベンチにもどり、訊いた。

「それをお教えすることはできません」
「では、大切なことに気づいていないとは、失ってしまったとは、いったいなんのことなんですか」
「それも、お教えすることはできないのです」
「なぜですか。あなたは知っているのでしょう? 知っているなら教えてくれてもいいじゃないですか。僕がこんなに苦しんでいるというのに……妻を殺す日々がこれからもつづいていくなんて、僕にはもう耐えられない……」

 苦悶(くもん)の表情で中沢は訴えた。

「できることであれば、あなたをその苦から解放させてあげたい。ですが、わたしにはそうすることができない」
「だから、なぜですか」

 中沢の口調がまた荒くなる。

「そうすることは、わたしの役割ではないからです。わたしの役割は彼を連れていくこと、それだけなのです」
「役割以外はなにもできない、というわけですか。冷たいですね」
「申し訳わけありません」

 老紳士は頭を下げた。

「頭なんて下げないでください」

 中沢は肩を落としてうなだれた。

「そうですか……。それなら僕は、ここから永久に出られないということなんですね」
「一瞬も永久も、それは同質なものです」
「同質なわけがないでしょう。僕はずっと苦しみつづけなければならないんですよ。僕からしてみれば、彼のほうがよほど楽でいい」

 中沢は浮浪者の男に眼を投げた。
 男は、相変わらずベンチに坐る人間に煙草をせがんでいる。
 だが、男に煙草を渡す人間はひとりとしていなかった。

「苦も楽もまた同質です」
「よくもそんなことが……。あなたには僕の苦しみがわからないから、そんなことが言えるんですよ」
「確かにそうです。当人の苦しみはその当人にしかわかりません。しかし、苦しんでいることはよくわかります」
「ならば、あなたは、その苦しんでいる人間をただ黙って見ているだけなんですか。どうして、助けようともしないんです? なんて人なんだ……。あ、そうか。そういえば、あなたは彼のことも、ただここでこうして見守っているだけでしたね。訊くだけ野暮でした」

 中沢は嘲笑するように鼻で笑った。
 憤っていた。
 そしてその憤りを老紳士にぶつけている自分にも腹が立っていた。
 そんなとき、浮浪者の男がまたやってきた。

「消えちまえよ!」

 その台詞は先ほどとおなじだった。

「おまえよ、どこから来やがった――」

 だが、同じ台詞を吐いたのはそこまでで、男は中沢の隣に老紳士が坐っていることに気づくと、「ひッ!」と小さく悲鳴めいた声を上げ、そそくさと逃げていった。

「彼はいま、あなたを見て逃げていった。あなたも形無しですね」

 中沢は皮肉めいて言った。

「言葉もありません。彼はわたしを嫌っているのです。連れていかれるということが、よほど嫌なのでしょう。執着が強いのか、わたしの話を一向に聞こうとしない。それほど、ここから離れたくないようです」
「それなら彼は、自ら囚われの身になっているようなものじゃないですか」
「そのとおりです」
「同じ日々をくり返す、こんな世界にいたいというのか……」

 中沢は独りごちるように呟き、そこでまた、これが現実ではないということを思い出した。

(そうだ、これは夢なんだ。あの浮浪者の男もこの老紳士も、ここにあるものすべてが、現実には存在しないんだ……)

 中沢は思わず首をふり、苦笑した。
 あまりにも現実的すぎる夢だけに、それをすぐに忘れてしまい、救いを求めてしまった自分が可笑しくてならなかった。

「あなたのような方は、ほんとうに気の毒でなりません」

 老紳士のその言葉に怒りさえ覚え、だが中沢は黙ってベンチを立つとその場を離れた。

「あなたを救い出せるのは、あなた自身しかいないのです。思い出すのです。あなたの中にあるものを」

 背に向けて言う老紳士の言葉を聞きながら、中沢は歩き去った。
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